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ハートにブラウンシュガー 9

 Aレコード主催による秋の新人ライヴツアーは滞りなく全30公演を終えた。5組の参加者たちはおそらく初めての本格的なツアーで緊張もあっただろうけど、メジャーデビューのための登竜門と捉え、真剣に各自の演奏・歌唱及びダンスパフォーマンスに磨きを入れた。
 ブラウンシュガーの面々(リーダーのクマことドラムの茶倉満男、サブことベースの佐藤三郎、ギターはレイ真柴怜、そしてヴォーカルは紅一点田中ティナの四人組)にとってもそれまでの活動拠点は小さなライヴハウスが中心だっただけに本格的なコンサートホールでの演奏、しかもロック好きの仲間同士が集うハコではなく、幅広い年代層、好みの音楽ジャンルの違う客層に半端ないほどのアウェイ感を感じ取り、いつものノリを取り戻すのに時間がかかった。
 しかし、これで終わりではない。
 誰かのカバーや与えられた曲ではなくオリジナル曲を中心に演奏活動をしていきたいというレイ達の意見に、ディレクターの松尾は年末までにオリジナルを10曲用意して聴かせるようにとノルマを与えた。
 そして年の瀬も押し詰まった12月28日の夜、ブラウンシュガーの面々はAレコード内のスタジオに集合した。
 4人はスタジオに到着すると言葉少なくそれぞれの担当楽器の設営に従事した。室内にはクマが叩くドラムの音、サブとレイもアンプを整え、ギターのチューニング、フレーズの指の動きを再確認するのに懸命だった。ティナはティナで自分の世界に入り込もうと天を見上げたり俯いたりして精神の統一を計り、そして発声練習に余念が無い。
 やがて音楽プロデューサーのKが現れた。
 Kは入室するとメンバーそれぞれの顔色を静かに伺った。サブとレイはやや硬い緊張した面持ちだ。クマはいつも通りのマイペースである。ティナは何かに集中しようとしている。迂闊に声を掛けられないオーラを発散させている。
「なんだか空気が重いな」Kはそう呟いた。
「初めてなんすよ。ステージでもなく、練習でもない、なんだか就職の面接で実技テストを受けるみたいで……」メンバーを代表してサブが応えた。
「そうか、でも今さらどう足掻いても仕方ない。いつも通りやることだな。それとツアーで演奏した『It's gonna be okay!』と『月の泪』は録音テープがあるので今日はやらなくていい、それから茶倉さんから2曲録音したデータを送信して貰っているのでそれもいい、今日やるのは残りの6曲だ」
「えっ? クマ、いつのまに?」サブは聞かされていなかった。他の二人も同じだ。
「いや、ほとんど涼子が一人で創ったんだ。ヴォーカルも彼女だし、彩花がいるから今夜は来られない。だから先に自宅で録音してデータ送信したんだ」言い訳のようにクマは説明した。
 涼子というのはクマの奥さんでかつてはブラウンシュガーでキーボードとヴォーカルを担当していた。今はもうすぐ2歳になる娘の彩花の子育て中だ。
 なるほど、その件は分かったが、どんな曲なのかは気になる。今の今までメンバーさえ誰も聴かせて貰えていなかったのだ。
 おいおい、聴かせろよと各人がクマやKに詰め寄った。
「そういうと思ったよ」Kはうっすらと微笑してデスクの上にノートPCを置いた。
「歌詞はこれだよ」とクマは数枚の用紙を皆に手渡した。
 そこにはワープロで印字した歌詞が書かれている。タイトルは『ミントフラワー』と『ROCK ON』ざっとみたところまとまったいい詩だなとレイは思った。問題は曲だが……。
 みんなはPCから流れ出した曲に耳を澄ました。
 電子ピアノを弾き語る涼子の澄んだ声にクマがドラムでリズムを刻む。ハードロックとは言い難いが、グルーブ感のある爽やかな曲に仕上がっている。
『ROCK ON』の方はサビの部分リフレインするRock on me  Rock on youという部分が印象的で覚えやすい。
 聞き終わってすぐ、ティナは「ステキ〜」と笑顔で拍手した。Kも口元に軽く微笑みを浮かべ何度か頷いている。もともとポップス志向のKには好みのタイプの曲かも知れない。
 クマもサブもそこそこ満足そうな顔で何か言葉を交わしているが、レイはブラウンシュガーとして演奏するには少し爽やか過ぎないかと危惧した。まあそれでも文句は言えない。一回のライヴ、あるいは一枚のアルバムの中には、このような曲調も必要である。レイは今聴いた曲を演奏するとしたらどんなギターリフを入れようかとすぐさま脳内で音を再生し試行錯誤しアレンジについて思考を巡らした。すぐにはピタリと当てはまるものは思いつかない。まあいいや、今はそれどころではない。
「さて、これで4曲だ。残りの6曲を松尾さんが見えたら披露してもらうことになるけど、いいかな?」
 レイは内心焦りがあった。サブが1曲持って来ているので、あと5曲必要になる。しかし、レイは手持ちに4曲しか用意出来ていない。それは他のメンバーも知っている。
「9曲ありゃ、良いんじゃないか?」クマは鷹揚にそう呟いた。
「そうだよそれでほぼ10曲と同じだ。なんとか言いくるめてやるよ」サブは相変わらずの能天気発言だ。
 でも松尾ディレクターから言われたノルマは達成出来ていない。それが引っかかる。
 ティナはそんなことに我関せずとばかり残りの曲の歌唱練習に予断がない。
 そうだな、とりあえず量より質を目指す。これから演奏する5曲でいいパフォーマンスが発揮出来れば良い。レイもそう気を取り直し、再びエレキを手に取り音を出した。

 9時を回った頃に松尾はやって来た。いつも通り淡々と元気な姿で張りのある声でライヴツアーが無事成功の内に幕を閉じたことに感謝の意を称えた。
「さて、Kを通じてすでに4曲ほど聴かせて貰った。約束は10曲だったから残りを今から聴かせて貰おう」
 ディレクターチェアに身を落とし込むと松尾は明るい声でそう皆に伝えた。Kも隣のチェアに腰掛け膝を組む。
 メンバーはそれぞれ所定の位置についてマイクや楽器を微調整して準備を整えた。
 いよいよだ。まずはレイの曲を2曲。
タイトルは『Hard Rain Lady』と『Gregorius』どちらもハードロックで歌詞の内容もヘビーだ。
 この2曲はレイのギターリフが聴かせどころでそれにティナのハスキーなヴォーカルが乗っかる。パワフルな正統派ロックだ。『Hard Rain Lady』は激しい雨の中を駆け抜ける女性の心の叫びだ。(この雨も涙も全部 心の奥に突き刺され……)というフレーズがティナのお気に入り部分。
『Gregorius』というのは夢を追い求める人達を勇気付けるためにという願いで歌われる。(羅針盤なんて捨ててしまえ、心のままに進めお前自身の道……)こんなフレーズ。演奏も上手く行った。それなりの手応えを感じる。
 続いてここでサブの曲が入る。神奈川湘南の海で生まれ育ったサブは軽やかな湘南サウンドだ。軽快なメロディに少し甘いサブの歌声が心地良く響く。タイトルは『サヨナラを言うには早過ぎる』夏の海に一人来てそこで出会って別れた恋人に想いを寄せる歌だ。いかにもサブらしい切なくも明るい曲調(会えなくなって気付いたこの想い I miss you……)と切なく歌う。
 そしてまたレイの2曲。レイの曲は全てティナがヴォーカルを務める。
 後半は先の2曲と一変してミディアムテンポの壮大な曲『That's Holly Land』
 曲調はマイナーだが、不思議な奥行きが感じられアレンジ次第では様々な形に変化出来そうな気がする。
(万華鏡の世界に咲いた薔薇の花を見たことあるかいそれは生命それは幻……)
 そして最後の曲はリフレインをみんなで歌って楽しめるように創った曲『Circle of The Sky』
 なんとなくマイケルジャクソンの『We are the world』などを思わせる曲調だった。
(まわるまわる果てしなく広い 誰かの願いは誰かの悲しみ 小さな希望を捨てたら またひとつ街が壊れてしまう あの子は今も瓦礫の下で震えているのさ……)
 レイは最後の一音を長くチョークアップさせクマとドラム音と共にアウトロを締めた。
 演奏はどれも上手く行った。以前のライヴハウスを回っていた頃にはベースやバスドラのリズムが狂ったり自分のギターリフが走り過ぎていたことなどが度々あったが、ライヴツアーでの30回ものステージが知らぬ間にバンド全体のレベルを引き上げてくれたようだ。
 レイは時々思う。バンドが一体となって演奏している時、その音楽が演奏者全員、別の次元にワープしたような感覚に陥る。それぞれの音や客席の様子も目には見えるのだが、薄い膜に覆われた空中とも水中とも言えない泡の中に浮遊している。そこではあらゆる物を五感で感じ、どこか別の時空を彷徨っている。そんな気がした。それはとても幸せな瞬間であり、たとえ一瞬であってもそれを感じたくて音楽活動をやり続けて来た。レイは改めてそう思った。そして今その幸せを確かに感じた瞬間でもあった。レイは今、ブラウンシュガーの演奏に満足を感じた。やり切ったのだ。あとはどうなってもいい、もちろんAレコードが契約の意を示しメジャーデビュー出来るとするならば、それは素直に嬉しいことだ。だが、たとえそうならなくても、それはそれで仕方ない。道はいくらでも開けて行くはずだ、そう信じた。
 松尾とKは殆ど表情を変えずに我々の演奏を見据えていた。僅かな沈黙の後、楽器を置き始めた四人を見て、
「どうした? 今ので確か、9曲目だ。後1曲だが」と訊いた。
 我々はお互いの顔を見合わせた。そしてクマが代表して応えた。
「これで終わりです。結局9曲しか完成出来ませんでした」
「そうか……」相変わらず2人とも無表情に虚空を見詰めたままだ。
 良かったのか悪かったのか、2人の表情からは全くその気配が感じられない。集中して演奏していた時より部屋の温度が5度ほど下がった気がする。
「すんません、なんとかこの9曲で判断してください」沈黙に耐えられなくなってサブがそう懇願した。
「そうだな」と松尾がKを見る。
「仕方がないですね」
「うむ」と頷いて立ち上がりかけた松尾に、「待ってください!」という悲痛な声がスタジオに響いた。
「うん?」
 声の主はティナであった。
「もうひとつ、もう1曲、あります」
「えっ?」メンバー全員が顔を見合わせた。
 ティナはさっと身を翻し、メインヴォーカル用のマイクの前に立つ。
「ティナ、しかし……」クマが問い掛ける。そうだ俺たちには演奏の仕様がない。
「大丈夫、あの、アカペラで歌ってもいいですか?」ティナは松尾とKにそう訊ねた。
「もちろんですよ」即座にKが答える。立ち上がりかけていた松尾は再び黙ってディレクターチェアに座り直した。
「おい、アカペラって、なにをやるんだ?」サブが小声でクマに問い掛けた。
「分からんがここはティナに任せよう」クマはそう答えた。

 ティナは右手でスタンドマイクを掴み、俯いて神経を集中させている。小さな沈黙がスタジオを包み、全員の呼吸音さえも奪い去った。
 やがて静かに顔を上げたティナは両手でマイクを掴み、小さな唸り声を徐々に響かせて行った。最初はハミングのような掠れた声だったものが音程が上がると共に音量も加わり空間を切り裂く歌声に切り替わった。そして汗に濡れたティナの喉からメロディが流れ出す。そのメロディラインは下方から上方へ近くからどこか遠くの方へと行き来する。いくつかのモチーフを過ぎた後、声は言葉となりティナは全神経を言葉とメロディに乗せ、その歌声はその場を圧倒した。
「おい、このメロディって……」クマがサブに囁いた。
「そうだ、いつも楽屋でティナが口ずさんでいた鼻歌じゃないか?」
「やっぱりそうだな。誰かの曲かと思っていたけど、オリジナルだったとはな」
 圧倒されていたのはレイも同じだ。確かに以前ティナが口ずさんでいるのを聴いた気がする。
(いつからだろう私が私でなくなったのは、身体に刻んだこの傷に今も誇りを持てるか 失くしたんじゃない ただ見えなくなっていただけじゃないのか……)
 ちゃんと聴くのはこれが初めてだったが、なんだろう、ティナのその歌声に全身が鳥肌立つのを感じ、レイはほんの少し震えた。曲調はロックにもバラードにもなりえる。これにギターリフを合わせるにはどんなフレーズが合うだろうか、レイは目を閉じ静かにそのフレーズを心の中に共鳴させた。

 時間にしてほんの2、3分の出来事だったが、そのパフォーマンスは圧巻で隅々までティナのヴォーカルが冴え渡り、とてもアカペラとは思えない程の迫力を感じた。
 歌い終えたティナは暫し目を閉じ、肩で息を吸い込むと、それを吐き出し、全身を脱力させた。
 若干の静寂、誰もが沈黙していた。
 最初に言葉を発したのはやはりティナだった。
 彼女はゆっくり深呼吸をして松尾とKに向かい
「これで、10曲だと認めて貰えますか?」と訊ねた。
 松尾はニッコリ笑って頷き拍手した。そして
「曲のタイトルはなんて言うのかな?」と訊いた。
「あ、まだタイトル、つけてないわ!」ティナはどうしようと口を押さえて狼狽した。
「とりあえず、『ティナのテーマ』とでもしておきましょう。カッコ仮でね」Kがそう告げた。
 松尾もなるほどと頷いた。そして、
「OK! よく頑張ったね。他の皆さんもご苦労様、また後日連絡するとして、今日はこれで終わりにします。はい、ではお疲れ」と、立ち上がりそう言ってKと握手を交わすとスタジオを出て行った。

 それから数分後、Aレコードの裏門から駐車場に出たブラウンシュガーの4人の面々は、口々に今夜の演奏についてそれぞれ意見を述べ合った。それは概ねベストなテイクであった事で意見は一致した。レイは帰り際Kに感想を求めたが、彼は何も口にしなかった。
「まあ、これでダメだったらそれまでさ、やるだけやったんだ、悔いはないよ」クマはそう言って、
「それはともかく、今年ももう終わりだ。いろいろあったが、それなりに充実した1年だったよ。バンドのレベルも上がったと思う。苦労はしたが俺は楽しかったよ」とメンバーに告げた。
「そうだ、せっかくだからみんなで忘年会でもやらないか? 明日か明後日あたりに」とサブ。
「そうだな。それもいいな。お前たちも良いだろ?」
 レイとティナも笑って賛成の意を示した。
 
 帰り道、車の中でレイはティナに最後にアカペラで歌った曲についていくつか訊きたいと思うところがあった。しかし、何故だか言葉にするのが憚られ口を閉ざした。
 ティナは相変わらずの調子でまた別の軽快な曲を口ずさんでいる。レイは思う、年が明けたらすぐに春のライヴツアーのリハーサルが始まる。さらに曲作りも続けなければならない。けれども正月三が日は束の間の休息だ、のんびりしたい。ティナは埼玉の実家に里帰りするという。帰る場所があるというのはほんの少し羨ましく思えた。

 こうしてそれぞれの想いを抱えながらブラウンシュガーの面々は新しい年を迎える事になる。
 けれど、いずれAレコード社よりバンドの命運を揺るがす非情な通告を言い渡されるのだが、今はまだそのことを誰も知らない。



ハートにブラウンシュガー 9話 おわり

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