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安定した暮らしと多様性


暮らしの安定

私にとって、暮らしを安定して維持できている時というのが、一番整った状態だなと思います。その状態でありながら、社会と関わる・家族と関わる・友人と関わるという『相手がある状態』に範囲を広げていけるのが一番健全・健康な状態です。そうでないと、人と関わる中での自分がどうしても『他人任せ・受動的・他人依存』になりがちで、主体性が失われてしまうのです。それは、自分にとっても、相手にとっても良くない状態であり、悪循環になっていきます。

みなさんそうだと思うのですけど、実際に今の生活の中ではどうでしょうか?暮らしということに目を向けて、ちゃんと自分の事を自分の力で循環することができて、自分が自分として機能できている状態がどんな状態なのかを知っているでしょうか?
機能できているというのは、社会活動ができているとか、役割を果たせているとかいうことではありません。

学校教育での画一化

学校教育は、集団行動ができるかがとても重要視されています。『右ならえ右』ができるかどうか。個性を大切に…とはいえ、多
人数を同時に同じ黒板を向かせて、同じ進行具合で学年を進めていくわけですから、どうしても集団行動ができるかどうかという部分が大きくなっているのです。

そういう集団行動のためのキマリが守れないと、適応障害と言われたり、ある意味エラーとして弾き出されてしまいます。
こういう状況を見ると、何かデジタル化など技術の進歩によって社会が多様化しているようで、実は画一化が起こっているような感覚に陥ります。

生きるとは集団に適応していること?

集団の中でうまく機能できるようにという教育を受けて、そのまま社会人になり、集団(会社)での役割を果たせるかどうかを重要視する人がこれまでは大多数でした。そういう人にとって、生きるとか仕事するということは『集団行動=社会活動』ができているかどうかなのだと思います。
だから、集団行動ができなくなってしまうと、全ての活動が停止して無気力になったり、不安で心や身体を壊してしまったりするのです。集団行動ができている人たちもまた、そこからはみ出てしまったら、今度はどう生きていったらいいのか分からないという不安を抱いて、ストレスを溜め込みながらも集団行動をやめられずに苦しむという状況が生まれています。
そういう集団(社会)でのあり方をベースとして生きている人にとっの暮らしとは、どんなものなのでしょうか?

暮らしベースの生き方=多様性

私は『暮らしがベース』であることって、とても個性重視なことだと思います。その人自身の楽しみ・こだわり・価値観・生き方をしっかり持って、それを機能・循環させて生きていることをベースにできるからです。
そういう人にとっての仕事・働くというのは、「お金を稼ぐための行動」や「集団の中で社会生活を送るための行動」ではないです。「自分が生きる・活きる(生きがい)ために必要な行動」「自分が満たされる状態を自分で作ってあげるための行動」が仕事・働くということなのだと思います。

自分の暮らしのベースで培った行動が誰かの心地よさに通じたり、誰かにも役立つことになるかもしれない。それが、自分という個人が集団や社会で機能するということだと感じます。

暮らしがベースにある中で成り立つ社会というのが、本当の多様性になると思うのです。

集団行動ができずに苦しむ人も『自分らしさや自分にできること』を大切にしましょうというような集団から見たあやふやな個性ではなく、本来の自分から湧き出す個性が認められて、機能し合って、本当に多彩で多様で美しい社会になればと願います。そして、自分自身もそういう社会を築いていくための一齣でありたいです。

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