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親より大切な人との出会いの重要性

親というのは、誰にとっても重要な人物で
近かろうが離れていようが影響は大きい。

うちの家は、家族仲が良かった。
私が末っ子で、祖父母や兄たちに
世話してもらってきた影響も大きいが、
子供時代は楽しく過ごせていたし、
安心できる家だったと感じてきた。

だけど、価値観というのは
家族だからって同じではない。
そんなこと当然なんだけど、
私には受け付けられないことも
たくさんあった。


親子関係の拗れと自己否定

本来、人間って自由で適当で
何となくうまく調和しながら
生きていたんじゃないだろうか。

そこから、戦争を経験し、
たくさんの価値観が壊され、
その影響を受けて育てられた
私の親世代。

強烈なトラウマが入っていて当然。
だけど、そんなこと理解して
子供時代を過ごしたわけじゃない。

だから、複雑な親子間の関係性や
対立なんかも知りもしない。
だけど、確実にその感覚的な何かは
子供ながらに…
子供だからこそ…
もろに受け取ってきているのだ。

そして、それは自分の価値観が
確立するにつれ影響を現す。
『こんな風に感じる自分』を
無意識に責めたり、自己否定する。

それは、家族への嫌悪感や不満が
少ない状況で育っていたとしても
確実に生まれる葛藤で。
むしろ、なぜそんな気持ちになるのか
分からない方がダメージは長く続き、
いつしか諦めてなかったことにする。
自分に対して鈍感に生きていくって
そういうことなんだと思う。

大好きなはずの親や家族への反発を
なかったことにする無意識の力。
それは、自己否定が無意識に強い
ということなのだ。

自分より大切な存在からの問いかけ

私も物凄く自己否定が強かった。
だけど、無自覚過ぎて、原因が見えず、
どうしようもなかった。

だけど、子供が産まれて
自分より大切な存在に出会う。
そういう瞬間に再び問いかけられる、
何かがおかしいことに気付かされる、
そんな感じだった。

そして、そんな違和感だらけの時に
それを言葉にして伝えてくれる存在と
運よく出会うことができた。

自分の価値観や感覚を認めてくれる存在。
自分の漠然とした不安や方向性を
『間違ってなどいない』と示して
正しく言葉にして伝えてくれる存在。


何が嫌で何は良かったのか、
私と親の違いがどこにあるのか

違うからと言って、何ら問題ないこと

大人になった私が自立さへすれば、
親と価値観が違ったとて問題ないこと

そんなことに気づくために、
一度は全部を親のせいにした。
反抗期さへなく
子供時代に出来なかった分、
散々甘えて頼って、困らせた。
そして、今がある。

反抗期を経て、自分と親を分離する。
だから、捻れてしまった親子関係では
反抗期も重要なのだと思う。
それは子供にとってではなく、
親にとって重要な時期なのかもしれない。
親の自己理解のために、
子供は自分をぶつけ自分にも気づける。

親と分離して気づくこと

大好きな両親をまともな自分で観る目、
同じ大人同士として対等に立つ自分、
一人の人としてどういう人間かを判断すること

それらは、とても重要なことで、
自分の在り方を再認識させてくれる。

親を普通の人として感じたことで、
親の価値観も認めることができた。
『それは仕方ないね』って言えるし。
『私には不要だから』って返せる。

私の家族ともっと仲良くなりたい気持ちは
今かなり解消されていった。
受け取ってきた有難さも
本当は嫌だった問題点も
どちらも観られるようになって、
ようやく受け入れることができた親子問題。

時代背景や家族としての流れ、
それをプツリと切ってしまうこともできる。
だけど、どういう経緯を辿って
こういう関係性ができたのか…
認識できて、説明できる方が良いと思う。
子供たちにもきちんと伝える必要がある。

大切な人と真摯に向き合えること

親よりずっと大切で重要な人との出会いが
今の私をつくってくれた。
子供たちも、価値観を認め合える存在もそう。
親という大き過ぎる存在を
ただの一人の人間に落とし込むために、
必要だった大切すぎる存在。

これからも、親子間で色んな影響はある。
だけど、
自分自身や自分の大切を犠牲にしてまで
親を守ることはもうない。
大切基準がどうしても『親目線』に
流されそうになるときはあっても、
自分で自分軸に戻すことが出来る、
そういうことが出来るかどうかが重要なんだ。

自分自身を諦めない自分になること。
それは、親より大切な存在に対して
真っ直ぐであることに繋がっている。

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