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責任を知らずに生きている不自由人

『自由に生きたい・自分らしく生きたい』そんな欲求を持つ人は多いだろう。

私もそうで、いつもどこか不自由さがあって、周りが気になって自分が維持できなかったり、人といることに疲れてしまったりしていた。
だけど、その自由を得たり、自分らしさを維持するためには、自分で自分に責任を持つ必要があるのだということに気付かされたのは、ほんの数ヶ月前くらいのことで、それまで本当に責任を持つってどういうことかわからずに生きていた。

私は看護短大を出て、看護師として新卒から4年間働いた経験がある。それでも、私が『人としての責任』を感じるにはまだまだ経験が浅すぎて理解していなかった。
短大卒業までの19年間の私は本当に子どもで、幼い子供が『そこで遊んでいなさい』と言われて、言われた通りにおもしろくもないけど遊びながら時間を潰しているような感覚で通り過ぎていった。
もちろん、その間に仲間もいたし、その時々に楽しいこともあったけど、本筋は『その場にいること』を求められているから、その場に存在しているような感覚だったのだ。
そんな感じで看護師になってしまったものだから、大病院に就職してからの2年間はまるで地獄のような日々だった。

私はただ『その場にいること』を求められるがままに進んできたけど、いくつかの重大な決断をぼんやり自分でしてきていた。『求められることと、自分の学力とごく僅かな知識と経験』そんなもので作り上げた薄〜い動機を胸に、就職までを半自動的に進んできて、それのどこにも私は自己責任を持ってなどいなかった。
それでも、親や周りからはこう言われるのだ『あなたが自分で選んだ道でしょう?』『みんな働き始めはそんなものだから』。よく考えもせず、責任が何かも知らない・教えられもしないまま生きてきたような『みんな』はそうかもしれない。
だって、中学が終わったら高校へ、高校が終わったら大学・短大・専門学校へ、その後は自分で収入を得るようにと、半自動的に大多数が進んでいく。私の父は教師を仕事としていて、兄二人も前習えで大学まで進み教師になっていた。

『何かやりたいことはあるのか?』『どんなことに興味があるのか』など家族から問われたことはない。『将来どうなりたいのか』『どんな生き方をしたいのか』と興味を持たれたこともない。
そんな話はどうでもよくて、深く考えることもなくて、半自動的に進んでいく道を外さずにいること『その場でいること』だけを求められているような気分でずっと生きていたのだ。
そんな中で、どうやって自分自身に責任など持てるだろうかー。

そうやって、無責任で不自由な人間が製造されていく。
だから、『人としてのあたたかみ』『生きていくことへの熱量』がとても薄くなっていく。



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