中編「天使の病室」 2015

 その女の子が僕の病室に突入してきたのは、僕がベッドで目を覚ました次の日のことだった。
 スライド式のドアを開け放ち、突風の勢いで飛び込んで来た彼女の姿を隠すように、宙に舞い上がった長い黒髪が遅れてその肩に滝のように降り注いだ。簾のように顔にかかる髪の隙間で、彼女は俯き大きく肩で息をする。ぜえ、はあ、と喉の奥で嵐が鳴って、細い手足はそれに合わせてぐらぐらと揺れていた。まるで老婆だ……。杖の代わりに携えているのは、点滴の袋がぶら下がるキャスターだった。
 震える右手でもこもこと髪をかき上げた彼女は、僕と目が合うと、ゆっくり、にっこり微笑んできた。その後ろで、ぱたり……と笑みと同じ速度でドアが閉まる。青白い顔で、色の薄い唇と、真っ黒な瞳をした子だった。彼女は上下真っ白なパジャマを着て、肩にはストールを羽織っている。こちらも純白だ。腰まで垂れた黒髪が彼女の姿が病室の壁に溶け込んでしまわないよう、絶え間なく波打っていた。
「匿って」
 からからとキャスターを引きながら歩み寄ってきた彼女は言葉と釣り合わない朗らかな声でそう言って、枕元のパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。一時間ほど前まで、母さんがそこに座っていた。
「ありがとう」
 女の子にしては迫力のある声だった。戸惑う僕にはお構いなし。彼女は腕にまとわりつく二本のチューブを慣れた手つきで解いて、気持ち良さそうに伸びをした。勝手に入ってきた彼女にお礼を言われる筋合いは無かったけれど、一応「はぁ、どうも」と受け取っておいた。けれど彼女は聞いていないようだった。
 天井へ伸ばしていた腕をストンと下ろした彼女はこちらへ視線を向けてすぐ、あからさまに眉を寄せた。しばらくじろじろと僕の顔を見つめてきた後、ふっと視線を下に落とす。
「それ、太宰治?」
 そう顎でしゃくったのは、僕が布団に伏せていた文庫本だ。僕が頷くと「ふうん、そっか」と気のない返事をする。
 そして、すっと伸びてきた彼女の右手が、僕の左手首に触れた。反応が遅れるほど自然な動作だった。遅れて驚いた僕が何かを言う前に、彼女は僕の手首をくるりとひっくり返し、彼女は馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らした。
「やっぱり!」
 友だちの悪事を見つけた幼い子供のような、無邪気なその声にはっとする。慌てて左手を引き戻すと、ベッドのスプリングが安っぽく軋む。
 ——遅かった。彼女はにやつきながら自分の手首を指差し、すっ、と一の字を書くようにスライドさせる。
「その傷、どうしたの?」
「……自分で切った」
「で、死に損なったわけだ。馬鹿だなぁ!」
「……。悪かったね、死に損ないで」
「えっ何で? 死に損なったのは良いことじゃん。君は生きてるんだから」
 憎たらしいニタニタ笑いに、ふと、優しさのようなものが混ざる。
「……君、一体何?」
 誰、ではなく、何、という質問が口をついた。彼女がぽかんとした表情で僕を見つめる。不自然に間が空いて、ようやくその質問が変だったことに気が付いた。しかし訂正するより先に「よくぞ、聞いてくれました」と彼女が会心の笑みを湛えた。
 開けっ放しの窓から吹き込んだ風が、見事な黒髪を揺らす。それに背を押されたようにゆっくりと立ち上がった彼女は、よく通る声でこう答えた。

「私はね、天使なの」

 僕と彼女しかいない空間に、静寂が降りる。
 突拍子もなく耳に飛び込んできたその一言に、ただただ、ぎょっとするほかなかった。
「私は天界で罪を犯してしまって、罰として人間界に堕とされたんだ。今はこうしてここで、罪が許されるのを待ってる」
 至って真剣な瞳が僕を見つめている。白と黒のコントラストが眩しい姿で、堂々とそこに存在している。彼女が本気なのが分かった。ここは精神病院なのだろうか。という思いつきは、次第に緩い確信に変わった。ありえない話じゃない。今までの経歴を鑑みれば、僕は精神病院に入れられてもおかしくない人間だ。
 だから現状に対して漏れた感想は「ああ、なるほど……」だった。その呟きを自分の言葉に対する返事だと思ったのか、彼女は嬉しそうに瞳を細めた。
「ところでね。今、私たちが真っ先にやらなきゃならないことは、名前を教え合うことだね」
「う、うん……そうだっけ?」
「私はミヅキ。満月って書いて、ミヅキ。君は?」
「……宮沢賢治と同じ字で、ケンジだよ」
「ケンジ君。なるほど、なるほど」
 何を納得したのか、彼女――ミヅキはふんふんと頷き、突然病室のドアに向かって身を翻した。勢いよく舞い上がった純白のストールは、天使の羽根に見えなくもなかった。あの、と呼びかけると、ミヅキが振り返る。首の動きに合わせて黒髪がぶわりと波打つ。
「また来るからね、ケンジ君。私もここでは退屈してるし」
 元々笑っていた顔をぐにゃりと歪ませて、
「君も暇そうだしね」
 
   *

一回目は、小四の時。石を投げてきた同級生に、そうしろと言われたから。
二回目は、小五の時。両親の喧嘩が絶えず居心地が悪かったから。
三回目は、小六の時。父が家を出て行ったから。
四回目は中一の夏。何か……辛いことが、重なったから。
五回目は中一の秋。理由は忘れた。
六回目。七回目。八回目。九回目。理由はなかった。何でも良かった、のだと思う。
そして十回目は、高校一年生の夏。
理由は。
理由、は……。

  *

「壮絶な青春だね。計算すると……八ヶ月に一回死に損なってるんだね!」
「計算しないでくれる?」
 また来るよ、という言葉をミヅキが実行したのは翌日の昼食後だった。ここのご飯ってお米がカピカピだよねぇと笑いながら、昨日と同じ格好で来た。そして何の躊躇いも遠慮も見せず、僕の傷の説明をせがんできた。
「で、今回の理由は何だったの」
「なんだか僕ばっかり不公平じゃない?君も何か話してよ。自分のこと……」
「うん分かった。でもまず、十回目の動機を教えてね」
「……分かったよ」
 自称天使であるこの女の子に、どうやら僕は興味を持たれてしまったらしかった。彼女が僕に何を期待しているかは分からないけれど……困ったことになったというのが正直な感想だ。僕は普段か々人と会話をしてこなかったために、この手の空気に慣れていない。
 昨日と同じくパイプ椅子に座る彼女が「早くぅ早くぅ」と足を揺らす。見た目では僕と同い年かそれ以上なのに、あどけない笑顔には幼さが垣間見える。少なくとも他人の自殺動機を尋ねるのにふさわしい顔とは言えない。
「母さんに『死んじゃえ』って泣き喚かれたんだ。毎日パート勤めで、疲れてたんだろうな……。だから死のうとした。よく覚えてないけど」
「覚えてないの?」
「普段は過保護で、優しい人だったから。ショックだったんじゃないかな」
「他人事みたいに言うのねぇ」
 きゃらきゃら笑う彼女に内心むっとしながら「じゃあ次は君の番だけど」と話題の矛先を向ける。受けて立つよと彼女は楽しげに身を乗り出してくる。とは言え、質問したいことなんて特になかった。うーん……と唸った後、どうにか質問を用意する。
「君が」
「気になってたんだけどさ」
 口を開いて発してすぐ、遮られる。
「君って呼ばないでくれる?」
「君だって僕を君って言ってるよね……」
「ケンジ君の呼び方は、なんだか適当で雑な感じがする。相手が誰でもどうでもいい、みたいなさ」
「じゃあ……ミヅキ?」
「んふふ」
 上機嫌な声を肯定と受け取って、続ける。
「ミヅキが天界で犯した罪って何?」
「罪ぃ?罪、あー……えっとね」
 ミヅキが肩のストールを整えて、
「禁断の果実を食べちゃってさぁ」
「果実?」
「そう。神様に駄目って言われてたんだけど……樹に住む蛇にそそのかされたんだ。この罪を犯したのはアダムとイヴ以来、私が初めてなんだって。二人の話は人間界にも伝わってるでしょう。天地を揺るがした大罪だからね」
 ああ、聖書にそんな話があったね。
「美味しかった?」
 ふざけて聞くと、彼女は苦笑を浮かべて首を振った。
「まさか。罪の味がしたよ」
 なるほど、罪は不味いのか。即興にしては大した返答だと思う。
「私はもう、二度と大蛇の思い通りにならないって決めた。ケンジ君も気をつけてね」
 真剣みの増した声に、思わず笑ってしまう。
「あいにく、蛇とは縁がないからなぁ」
「本当にそう?」
 ミヅキの突然の真面目な表情に一瞬怯んでしまう。しかし彼女は怒るわけでもなく、静かに続けた。
「大蛇は人間界にもいるよ。うじゃうじゃいる。禁断の果実だって、そこらへんにごろごろ転がってるよ」
 そこらへん、と僕の顔を指差す。侮辱ともとれる行為を咎める前にミヅキは続けた。
「君は死のうとしたね。クラスメートや、喧嘩する両親にそそのかされたから。私は、ケンジ君はとても意志が弱い人なんだと思う。生きようっていう意志が。君は死にたいの?」
その問いかけを、いつかも受けた気がする。
――なんで、手首を切ったりするの。
血を流す僕の手首に泣きながら包帯を巻く母さんにそう尋ねられては、
死ねって言われたから。
母さんと父さんが喧嘩するから。
そんなことばかり答えてきたけれど。何故か、死にたかったからとは答えたことはなかった。
いつの間にか掴んでいた僕の左手首を眺めながら、強い口調でミヅキが言う。
「私は誰のためにも生きてやらないし、ましてや死んでもやらないつもり。ケンジ君も、このくらい我が儘になった方がいい」
 闘争心に溢れた笑みというのを初めて見た。この子なら、きっとそれを実行するだろうと思えた。自分のために生きて、死んでいく。
「強いんだね」
 投げやりに言うと、
「何も怖くないの。なぜなら私は、天地を揺るがした大罪人だから!」
 ははは!と演技がかった声でミヅキが笑う。僕にはどうしたって辿り着けないであろうその境地に呆れすら感じる。とても、眩しく。
手首に残る一本の太く赤い線。塞がったばかりのその傷がひどく無様なものに思えて、左手をそっとミヅキの手の平から抜き取った。

   *

 ミヅキと出会う、一時間ほど前のことだ。
『ごめんね、ごめんねぇ、賢治』
 見舞いに来た母さんはそう繰り返し、ハンカチを握り締めていた。
『母さん、覚えてないの。お酒のせいで、あの夜のこと、何にも覚えてないのよ……』
 もういいよ。母さんが辛かったの、ちゃんと分かってるから。
 もう忘れて。
 僕がそう言うと、母さんは困ったように微笑んだ。それから懇ろに別れを告げて、一緒に来ていた男の人と去っていった。
……僕はなんとなく、母さんはあの夜のことを本当は覚えているのだろうという気がしていた。

   *

目を覚ましてから三日目の夕方。
ミヅキが病室へ入ってきた時、僕は小説を開いていた。「天使、参上!」と意気揚々と乗り込んできた彼女は、それを見るなり大袈裟に仰け反った。
「うえーっ、太宰治?」
「……嫌いなの?」
左腕に繋がるチューブを振り乱し、ミヅキがパイプ椅子に飛び乗るように腰掛けた。
「人前で太宰治読む人って『私もう死にたいです』って周りにアピールしてるようなものじゃない?私は嫌いだな」
 嫌いなのは太宰治か太宰ファンなのかを問う気にはなれず、本をそっと布団の中に隠す。それにしてもひどい偏見だ。世界中の太宰ファンに怒られればいい。
「ミヅキには、好きな小説とかあるの?」
「あるよ。何だっけ……あれだ、男の子二人が夜中に鉄道で旅する話。確か片方は亡霊なんだよね」
「……銀河鉄道の夜?」
「そう、それだっ!」
 弾んで裏返りかけた声。
「あの鉄道は三途の川の渡し舟のようなものだけど……主人公は死んでないのに乗れちゃったんだよね。死んだ親友の道連れで」
 亡霊だの道連れだの、サスペンスホラー風な言い方をする。台無しだ。けれど本人は気にならないらしい。うんと伸びをしながら、底抜けに明るい声でミヅキが言った。
「私も天国に行く一歩手前まで誰かに一緒に来て欲しいな!できるなら手を繋いでね」
「一緒に死ねってこと?君、太宰を馬鹿にするくせに心中推奨派かい?」
「違うよ!一歩手前までで良いんだってば」
「はぁ……」
 一緒に死ぬのではなくて、一緒に生死の間を彷徨えということだろうか。中途半端な発想だと僕は思う。これが世に言うロマンチックというやつなのだろうか。女の子の感覚は良く分からない。
「まぁ私は天使だから関係ないんだけどね」
 残念そうにミヅキは溜め息を吐く。点滴のチューブが所在無げに揺れた。ミヅキの手の甲と手首二箇所に繋がるそれは、透明な液体をポタポタと垂らし続けている。
「……君は、何かの病気?」
「えっ。やだなぁ、何でよ」
「君も入院患者でしょ」
「だから、私は天使だってば」
「パジャマで点滴つけてるくせに?」
「ああ、これ」
 ミヅキが点滴のキャスターをガララと乱暴に引き寄せた。
「カモフラージュだよ。病院にいても不審がられないように、患者のふりをしてるの。正体がばれたら大変だもん」
 そう勝ち誇ったように笑う。
 よくそんな早い切り返しができるもんだ。精神病院の患者というのは、ここまで自分の世界観を作りこむものなのだろうか。僕には真似できない。
 化けの皮を剥いでやりたいな、なんて意地悪なことを考えながら「なるほどねー」と大げさな声で返した。僕の胸の内を知るはずもなく、ミヅキは歯を剥きだして、ひひっと笑った。

   *

 十回のうち、救急車沙汰になったのは今回を入れて三回だ。
 一回目は初めて手首を切った時。初めてで、しかも計画的でなかったためどのくらい深く切ればいいか分からず、闇雲にカッターを手首に押し付けた所を父に見つかった。出血はたいしたことなかったのに、パニックになった両親が泣きながら救急車を呼んだ。当然、入院すらしなかった。
 二回目は中学二年生の秋だ。うまくやれたはずだったのに、意識が朦朧としている所を母に見つかった。救急車が到着する前に気を失った。ずっと、夢を見ていた。

   *

「夢?」
僕の左手を触りながら相槌を打っていたミヅキが、顔を上げた。目と口が大きく開かれて間抜けていた。
 彼女に困惑はもう抱いていない。暇が潰せるなら相手が変わり者の天使でも構わなかったし、病室に一人は心細いという気持ちもあった。
「夢っていうか、ほら、死ぬ前に花畑が見えるって話があるでしょ。あんな感じ」
「ねぇ、どんな?どんな夢?」
 ミヅキが興味津々な様子でベッドに乗り出してくる。左手首の傷が、彼女のひんやりとした両手の平にすっぽりと包まれる。僕は答える。
「真っ暗闇だったよ」
 珍しく、ミヅキの顔が引きつった。声はなく唇が「なにそれ」と小さく動く。珍しい表情に、少し意地悪をしてやる気になった。
「暗闇なんだ。どれだけ歩いても、走っても、叫んでも、暗闇しかなかった」
 実際は走っても叫んでもないけれど、怖がらせるために脚色した。ミヅキは青ざめて黙り込む。なんて嘘だよ、天使なのに騙されるなんて、君はずいぶん変な天使だなぁ。なんて後で言ってやるつもりで、心の中で嫌な笑みを浮かべながら付け加える。
「人間、死んだら永遠の暗闇に閉じ込められるんだって。そう思った」
「……そっか」
 ふと、寂しげな笑みがミヅキの口元に宿った。おやっと思ったときには消えていた。僕はその一瞬で、何故かとても愚かなことをしてしまったような……そんな悲しい気分になった。
「嫌だな、暗闇は怖いよ」
 文句ありげに口を尖らせる彼女は、いつもの調子に戻っている。
「天使の君には、関係ないでしょ?」
励ますように、縋るように言えば、「あ、それもそうだねぇ」とミヅキはへらっと軽やかな笑顔を向けてくる。
「じゃあ、ケンジ君がまた永遠の暗闇に閉じ込められたら迎えにいってあげるよ」
「ああ、そう?ありがたいよ、心強い」
 つられて笑いながら答えると、ミヅキは力強く頷いた。
「うん。その代わり……ケンジ君も絶対、暗闇の中で私のことを探してよね」
「分かった、約束する」
「約束」
 ミヅキが差し出してきた右手の小指に、自分の小指を絡めた。お互い、ぐっと力を込める。戯れのような約束だ。けれど半分本気だった。僕は彼女を探しにいく。
「そうだ、約束ついでに」
「何?」
「明後日の夜七時から、近くの川で花火があるんだよね。ここから一緒に見ようよ」
 小指を絡めたまま、彼女は左手で窓を指差した。大きな窓からは高いビルは見えず、田舎と言っていいような穏やかな風景が望める。花火なんて何年振りだろう。僕は快諾した。
 明日は朝早くに来る、と言い残して出て行くミヅキの背中を眺めながら、約束は忘れたくない、守りたいと思った。花火のこと。そして、永遠の暗闇での再会のことを。

   *

 そして次の日の朝。
 病室に一番に入ってきたのはミヅキではなく、朝食を持ってきてくれた看護師さんと、一人の男の人だった。前に会った時と同じ格好をしていたので、数日前、母さんと一緒に来ていた人だとすぐに分かった。
『少し話をしたいんだけど、いいかい?』
 親しげに話を始めた男は、用意してきたように何個も質問をしてきた。母さんについてと、別居中の父親について。そして。
『それは、自分でやったの?』
 僕の顔をじっと見つめながら尋ねてきた男に、左手首を押さえながら曖昧に頷いた。
『包丁で切ったの?』
 よく覚えていないけれど多分カッターですと、僕は言った。すると男は、『カッターでそんなに深い傷がつくのか』と問いを重ねてきた。
 母の言葉がショックでいつもより力が入ったのだろうと説明したけれど男は納得いかないようで、腕を組んで深呼吸をした。冷めていく朝食をぼんやり眺めていると、
『本当に、覚えてないのかな』
 覚えていません。と正直に答える。
『また来るかもしれない』と言い残し、男はそそくさと帰っていった。
 

 男と入れ違いでミヅキが入ってきた。「おはよう」という僕の挨拶に返事をせず、男の去っていった廊下をしばらく凝視した。それから首を傾げ、控えめな口調で尋ねてくる。
「……ケンジ君、何かしたの?」
「はぁ?いきなり何?」
「今の人って」
「母さんの知り合いだよ。前にも来たんだ」
 すっかり冷めてしまった味噌汁の椀を掴んで、一気に喉に流し込む。病院食は全て薄味だ。前にミヅキが言っていたように、お米も乾いている。五日目でもなかなか慣れないけれど、今日はとても美味に思われた。男との会話で疲れていた。質問攻めというのは、無性に不快に感じるものだ。
「何を話してたの?」
 パイプ椅子に手をかけながら真面目な顔で言う彼女に、事の顛末を話した。男が質問してきたことと、僕の答えた内容について。男は特に母さんについてしつこく聞いてきた。家での様子や、僕への接し方などを、繰り返し、繰り返し。やけに馴れ馴れしい話し方だったな、と思う。
「あの人、母さんと再婚でもするつもりなのかなぁ」
 それならそれで構わないと思う。母さんに今まで負担をかけ続けていた僕が拒否していいことではないだろう。それに……。
 突然、左手首がミヅキの両手に包まれた。白くて、温度のない手だと感じる。僕らは同じくらいの体温なのかもしれない。冷たい。
「あのね、ケンジ君」
「うん?」
「大丈夫だからね」
「何が」
「大丈夫だから。たとえどんなに辛いことがあっても、生きようっていう意志が揺るがない限り、きっと君は大丈夫だから」
「……いきなり何を言ってるの?」
ミヅキの心配そうな顔を、思いっきり笑い飛ばしてやる。言われるほど、僕は辛い目にあってなんかいない。
「言われなくても僕は大丈夫だ」
「じゃあ、ケンジ君の言うその大丈夫と、私の大丈夫は、別物なんだろうね」
 昨日一瞬だけ垣間見せた寂しい笑顔が、ミヅキの口元に灯る。自分の心が、キィと音を立てて閉じていくのを感じた。無性に腹が立っていた。彼女はまるで、僕が可哀想であると言いたげな瞳をしている。互いに冷たい僕らの手は混ざるほどの体温を持たない。伝わってくる熱も、伝える熱もない。必要もない。
「君や現代社会にとってはそう特別なことじゃないかもしれないけど、ケンジ君のような子供が死のうとしたり傷付けられたりすることは本来イレギュラーなことなんだ。ありふれたことじゃない。だから大丈夫。私たちは本当は、平凡な毎日を送って、成長と老衰を経験できるように生まれてきたはずなんだ。君にはそれができる。死にさえしなければ、簡単にできることだから」
「……自殺未遂の僕に、生きる意志なんかあると思う?」
 怯んだようにミヅキが口を閉じた。握られていた左手首を、ミヅキの目の前に突きつけた。彼女は困ったように視線を泳がせてから、遠慮がちに僕の左手首を見つめた。
「君っていう天使様は、生きることが正しいと思っているかもしれないけど……人間はそんなに単純じゃない。死ぬ方が魅力的に感じることだってある」
 僕の声が、予想以上に冷たく響く。
「それが正解だってことも、絶対にある」
 痛みに耐えて、涙をにじませながら、何度も何度も切りつけて、幾筋もの傷を手首に残しながら、ようやく血を溢れさせるのだ。「死にたい」という明確な衝動がなくても、自殺を図る人間に生きる意志なんか、無い。
 ふ、とミヅキが短い息を吐いた。
「……じゃあ聞くけど、ケンジ君――」
 ミヅキが何かを言いかけるのと同時に、病室のドアをノックする音が響いた。返事を待たずに開かれたドアの前には、毎回食事を持ってきてくれる看護師さんが立っていた。時間が、一瞬止まった。
 彼女はミヅキを見るなり、
「……こら――――っ!」
「きゃああああああっ?」
 悲鳴と同時にミヅキが立ち上がった。点滴のキャスターを危なっかしく転がしながら、看護師さんの横をすり抜けて走って行ってしまう。鬼の形相をした看護師さんが、その後を追いかけていく。
 あっという間の出来事だった。
 食事トレーと共に置いてけぼりを食らった僕は、食べきっていなかった朝食をしばらく無心に租借していた。ミヅキに対する苛立ちを乾いた白米で発散しようとした。しかし、キュウリの漬物を食べている途中で、ようやく落ち着いた。そしてゆっくりと後悔に飲まれていった。
――死にたいの?死にたいんでしょ?
 正体不明の声が、僕に同意を求めてくる。否定も肯定もできない。誰かに委ねてしまいたい。誰か僕を殺して。そこまでは言わないけれど、どうか、誰か僕を、僕は……。
僕は多分、大丈夫なんかじゃないよ。
その日、ミヅキはもう僕の病室に顔を出しに来なかった。

   *

 永遠の暗闇の夢から覚めた僕を真っ先に迎えたのは、頬を打つ母さんの手だった。母さんは周りの制止を聞かず、反対の頬も打ってきた。起きて早々痛みで涙目になった僕に向かって母さんは怒鳴った。
『なんて馬鹿な息子なの!賢治が死んだら、母さんは一人になってしまうのよ!』
 ベッドに横たわる僕に覆いかぶさって、母さんは泣いた。いつまでも泣いた。
『賢治、もうこんなことはしないって約束して。母さんのために。お願いよ』
 その腕の中で、僕は力なく頷いた。
 けれど僕は約束を守れなかった。母さんが悲しむと分かっているのに、手首を切った。もう癖になってしまっていたのだ。十回、というのは見つかった回数で、実際はもっとやっていた。手首だけでなく、服に隠れて見えない太腿や横腹まで、何度も自分で傷をつけ血を流した。
 死のうとしていたわけじゃない。
 SOSを発していたわけでもない。
 僕はただ……ただ……。

   *

 約束の花火は今日の夜だ。
 彼女が来てくれるか不安で、本を読む気にさえなれなかった。ベッドを出て彼女を探そうかとも思ったけれど、天使云々の話に矛盾が出たら彼女が次の作り話に困るだろうとやめておいた。という口実を考えついて、僕の躊躇いは変化を見せなかった。だから一日中ベッドの上で、母さんの『死んじゃえ』と、『もうこんなことはしないって約束して』という声を思っていた。どちらが真実の言葉かと聞かれれば、それは後者に違いなかった。
 僕は愛されていた。
 そう思えば思うほど息が苦しくなって、たまらない気持ちになった。
 母さんのために死んではならない。
 母さんのために。
 ……ミヅキ、これが君の言う、生きる意志ってやつかい?
 この、息苦しい義務感が。
 気分転換に窓を開ければ、祭りに向けた賑やかな音が聞こえてきた。もうすぐ花火が始まる。枕元の小さな時計は六時五十分を指していた。あと十分。ミヅキは来るだろうか。来てくれたら、まず謝って、そしたら……。
 七時になった時、あたりはまだ少し明るかった。最初の花火は大きくて色鮮やかだった。続いて、小さな黄色い花火が夜空に散る。この病室からはちょうど真正面に見える。部屋の電気をつけたまま、ぼんやりとその景色を眺める。 
 ミヅキ、思っていたよりずっと綺麗だよ。早く来なよ。
 三十分経っても、ドアが開く気配はなかった。
 ミヅキは来ない。
 そして八時をも過ぎ、廊下からまばらな足音が聞こえてきた。患者に面会しに来た人が帰っていく音だろう。
 ミヅキはまだ来ない。
火薬の弾ける音を聞きながらドアを食い入るように見つめ、開くのを今か今かと待ち焦がれる。
 八時半を過ぎてようやく待ち人が現れた。小さく開いたドアの隙間から、ミヅキが顔を覗かせた。
「ミヅキ!」
 思わず弾んだ声で呼ぶと、彼女は慌てて人差し指を口元に立てた。それから、いつものようににっこりと笑ってみせた。
「ごめんね。遅刻した」
 部屋の電気を消してから、彼女がドアを閉める。完全に暗闇になった病室に、花火の灯りが入ってくる。
「おおー綺麗だねー」
 ミヅキが窓の前に立った。その横顔が、花火の明かりで照らされる。僕はさっきまで言おうとしていたことを飲み込んだ。今は花火を見ていよう。話はその後でもいい。二人で静かに、咲いては夜空に溶ける花火を眺め始める。
 しかしすぐに、大きく派手な花火が連続で打ち上がってきた。
「あれ、まさか、もうフィナーレ?」
「そうかもね」
「嘘っ、早すぎ!」
「君が大遅刻するからだ」
 僕の言葉に、ミヅキは声を立てて笑う。
「もったいないことしたなぁ」
 そう言いながらも、ミヅキは満ち足りた顔をしていた。
「あのさ」
「ねぇ」
互いの声が被った。ミヅキが吹き出した。つられて僕も笑った。
「ケンジ君、先にいいよ」
 促されたけれど、いざ話そうとすると言葉にできなかった。自分の情けなさに苦笑しながら、どうにか絞り出す。
「昨日はごめん。君の言ったこと、きっと正しいんだと思う。それに気付けたから、僕はきっと、大丈夫だ」
どぉん……と大きな花火があがった。
 ミヅキは優しい顔を少しも変えず、何も言わなかった。その沈黙が照れくさかった。「ミヅキ、いいよ」と言うと、彼女は背筋を伸ばした。
「……ケンジ君」
「うん」
「今言ったことは、この先も揺るがないね?」
「うん」
「何があっても?」
「うん」
 僕が頷くたびに、ミヅキの瞳に真剣さが増した。花火がその瞳に反射して僕を射抜く。
「どんなに辛いことがあっても?」
「うん。約束する」
「そっか、約束か。なら安心だ」
 微笑みが深くなる。
 僕は約束を守るだろう。彼女と永遠の暗闇で再会もするし、もう母さんを悲しませるようなことはしない。義務と約束をを背負って生きていく。
 本題に入るね、とパイプ椅子に腰掛けたミヅキは、僕の顔を覗きこむように身をかがめた。後ろで花火が咲いて、微笑みを照らす。
「……ずっと、君に確かめておきたかったことがあるんだけどね……」
「うん、何?」
 ミヅキの顔から――笑みが消えた。

「その傷は本当に、君が自分でつけたものなのかな?」

 予想外の問いに、返す言葉を失った。僕を見据える瞳は、どこまでも厳しく鋭い。
「最初に見たときから、ずっと思ってたんだ。その手首の傷は、自分でやったにしては綺麗すぎる」
 左手首を見る。傷が花火で照らされる。
 一本の傷。たった一本の。
 一本だけの……。

 痛みに耐えて、涙をにじませながら、何度も何度も切りつけて……、
 幾筋もの傷を手首に残しながら、
 ようやく血を溢れさせる……。

「これは……だから、母さんの言葉がショックで……力が入って……勢い良く……」
 左手首が震えだす。震える手首を押さえる。熱を持っている。真一文字の傷が疼いている。緊張を取り繕うために、引きつる顔に無理矢理笑みを貼り付ける。ミヅキの笑顔を欲している自分がいる。
 けれどミヅキは笑わなかった。
「誰かにやられたんでしょう?」
「な、な、何言って……これは僕が」
「じゃあケンジ君、あの男の人は何?」
「男の人っ?はぁ?あれは、だから、母さんの知り合いで……」
「しっかりして、ケンジ君!」
 鋭く叱咤される。
「警察だったじゃない!」
「け、けいさつ……?」
 左手首に無意識に爪が立つ。
「この傷は……これは」
 逃避を許さないミヅキの視線が、僕から平常心を奪っていく。
「手首の傷だけじゃない」
 追い討ちをかけるように、人差し指が僕の顔を指差した。
「その傷だよ」
 ミヅキが指差したのは――顔ではなかった。
「首の傷も、自分でやったの?」
 反射的に手を首に運ぶ。
 ……首に傷なんかない。あるわけがない。服で隠せない所には傷を残さないようにしていた。今まで首なんか切ったことはない。
震える指先に、ぼこりと小さく隆起したものが触れた。辿っていくと、ミミズ腫れのように細長くつづいていているそれは、一本線ではなく、短い傷が連なってできているようだった。
「なんで……」
 そして僕は。
 あの夜のことを思い出す。

   *

 夜中だった。
 自分の部屋で眠っていた僕は、乱暴なノック音で目が覚めた。家には母さんと僕しか住んでいないから、相手は母さんに違いなかった。一気に覚醒した僕は、慌てて布団から起き上がって部屋の電気をつけた。子供用のテーブルと本棚しかない、殺風景な部屋だ。
 ノック音は激しく続く。
 鍵など掛かっていないのだから、入ってくればいいのに。そう思いながらドアを開けると、目の前に案の定母さんがいた。
「賢治……死にたいの?」
 唐突に尋ねてきた母さんの声は、ひどく優しかった。けれど目は血走って、泣きはらしたような崩れた顔をしていた。僕は呆気に取られて、固まった。母さんは続ける。
「さっき、パパから電話があってね……賢治を寄越せっていうのよ。お前には育てられない、賢治が心配だって」
 怪しい気配を感じて視線を下に向けて、息を呑んだ。
 母さんの手には包丁が握られていた。
 部屋の明かりに、包丁の刃がギラギラッと稲妻のように光る。
「裁判を起こしてでも賢治を助けるって……父さんが変なのよね。わたしはあなたを立派に育てたわ。ね?」
 母さんは甘い声でそう言って、ゆらゆらと僕に近づいてくる。思わず後ずさりする。しかし捕らえるように伸びてきた手に頭を撫でられて、全身が硬直する。冷や汗が背中を伝っていく感触があった。
 母さんは僕を愛してくれている。それは事実だ。けれどそれは極端になりすぎた。それは僕が初めて手首を切った小学四年生のあの日がきっかけで起きたヒステリーのようなもので、両親の離婚の原因にもなった。
 そして……僕が今まで自傷癖を直せなかった原因そのものだ!
「賢治、死にたいのよね。死にたいんでしょう?だから何回もリストカットしてきたのよね?」
 母さんがゆっくりと包丁を振り上げる。
「分かってくれるわよね。母さん、あなたがいなくなったら生きていけない……。大丈夫よ、母さんもすぐ行くからね」
 勢い良く落ちてきた刃を、しゃがんで避けた。無意識だった。母さんのやることに逆らったのは数年振りだ。
 恐る恐る顔を上げると、母さんが冷たく僕を見下ろしていた。
「賢治……どうして?」
 全身が震えた。
 僕は――確かに拒絶した。
 再び振り下ろされた刃を、今度は右に転がって避ける。自分の身体がこんなに早く動くなんて知らなかった。明確な意思があった。逃げなくてはいけない、という身体の奥から湧いてくる本能が。
 立ち上がるより前に三度目が襲ってくる。ギロチンのように、真っ直ぐ僕の首に向かってくる。
 避けきれなかった。鋭く激しい痛みに、切りつけられた喉が悲鳴を上げる。身体中から意識が飛ぶ。
「死んじゃえっ」
 刃が落ちてくる。新しい痛みが走る。床をのたうち回る。傷を押さえた手の平に、生々しい切り傷の感触と流れ出してくる血の熱が。
「死んじゃえっ!」
 身体を捻って、次の刃は避けた。垣間見えた母さんの瞳には激しい怒りと、大粒の涙が湛えられていた。何がそんなに悲しいのか。
「何で母さんの言うこと聞かないの!死にたいんでしょ!死にたいんでしょう!」
「僕はッ……」
 痛みと恐怖が渦巻いていた。それでも、薄れゆく意識の最後まで暴れ抵抗し続ける。それは紛れもなく、生存本能のなせる業だった。
「僕は……死にたくない!」
そう叫んだところで、意識が途絶えた。
暗闇がやってきた……。
   

夜空に今夜で一番大きな花火があがった。どぉん、どぉん……と大きな音が響く。それきり花火はあがらなかった。
 部屋は、真っ暗になった。
「ケンジ君……」
「出てって」
 優しさの戻ったミヅキの声に、一言吐き捨てる。
「……頼むよ、出てって」
 僕は殺されかけたのだ。実の母親に。帰るところも、心の拠り所も失った。元からなかった。
 死にたい、と思った。今更のように。初めて芽生えた感情だった。
 生きている意味なんてない。 
 死んでしまいたい。
「……思い出さない方が幸せだった」
「それは違うよ。君は」
「出てけ!」
 枕元の時計を投げつけた。相手の身体にぶつかる鈍い音がした。けれどミヅキは声を上げなかった。
「もう放っておいてくれ!」
 耳を塞いで、布団に顔を押し付ける。何も聞きたくない。それでも、ミヅキの声は否応なしに届いてくる。
「分かった、出て行くよ。……でもこれだけ言わせて。君は生きてる。私はもう君の隣にはいられなくなるけど、ケンジ君はこれからも生きていくんだ……どれだけ……」
 遮るように、僕は咆哮した。
 言葉にできないほどの嫌悪と拒絶が沸き上がってきた。
 希望論なんかいらない。綺麗事なんて反吐が出る。もう、何も聞きたくない。
 ミヅキの声がぴたりと止んだ。
 長い静寂の後に顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。

   *

 ドラマで見た『手首を切る』という自殺を試してみようと思ったきっかけは、学校で一番の親友と喧嘩をしたことだ。帰り道に石をぶつけられ「賢ちゃんなんか死んじまえ」と言われた。腹を立てていた僕は売り言葉に買い言葉で、家に帰ってすぐ、カッターを取り出し手首に押し付けた。スッと引いてみて、予想外の痛みにびっくりした。そこを体調不良で会社を早退してきていた   
 母さんに見つかった。
 ただそれだけのことだった。
 僕にとってはそれだけのことだったけれど、両親にとっては違ったらしい。尋常じゃない慌て方と怖がり方で救急車を呼び、僕の手首を握り締めた母さんの顔は、グロテスクに感じるほど切羽詰まったなものだった。
 そして、母さんの過保護が加速した。
 まず、その親友と関わることを禁止された。二度と口を利くなと言われた。喧嘩したとはいえ親友は親友だ。僕が嫌がると、母さんは親友の親に電話をして相手を激しく責めなじった。僕が泣きついて止めても無駄だった。親からの圧力で、僕とその親友は言葉を交わさなくなった。
 そしてその日から、学校であったことを全て母さんに報告しなければならなくなった。嘘をついても、追求されるうちにすぐばれた。喧嘩をしたと報告すれば、相手は誰か、原因は何か、酷いことをされなかったかを何度も何度も詳しく聞かれた。毎晩行われるそれを、僕は尋問会と呼んでいた。
 母さんに報告し根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、僕はどんどん人と関わるのをやめていった。そんな僕を心配した父さんに注意されると、母さんはヒステリーを起こして怒鳴った。わたしは賢治が心配なのだ、と。
 冷静に諭そうとする父さんを、母さんが一方的に怒鳴って黙らせる。こうして両親の喧嘩が絶えなくなった。
 夜中まで続く母さんの怒鳴り声を聞きながら、僕は再び手首を切ることにした。仲の良かった両親に亀裂を生んでしまった責任を感じていた。
 再び、母さんに見つかった。
 原因が自分たちの喧嘩だと知って、母さんは僕への監視を厳しいものにした。学校が終わったらすぐ家に帰り、両親の声が聞こえないように自室に閉じ込められた。僕が学校にいる間も部屋の中を隅々まで確認しているらしく、図工の授業で配られた五本セットの彫刻等がいつの間にか没収されていた。
 もう無理だと思ったのだろう。父さんが家を出て行った。
 僕が絶望したのは、父さんが僕を連れて行ってくれなかったことだ。
 三度目の正直、という言葉を信じて、隠し持っていたカッターを手首に当てて一気に引いた。血が滲んだ。痛みは気にしまい、今度こそとカッターの刃を再び押し当てた時。
 バタン、と部屋のドアが勢い良く開いた。
 両目に涙を溜めた母さんがそこにいた。右手に包帯を持っていた。
「どうして、手首を切ったりするの?」
 大粒の涙を流しながら、母さんが僕の左手首に包帯を巻きつけていく。ギチギチと締め付けられる感覚に恐怖を覚えた。その夜、母さんが眠ったのを確認してから部屋の中を漁ると、本棚の陰に、小さなカメラが仕込んであるのを見つけた。しばらく、身体が動かなかった。
 僕の毎日は、いよいよイレギュラーになった。
 ――その日からは必死に絶えた。半年以上問題を起こさず、母さんの言うことを従順に聞いてきた。監視される毎日に変わりはなかったけれど、母さんは徐々に緊張をといていったようだった。
 そして、僕も母さんもイレギュラーな生活に慣れきったと思われた頃。
 四回目の自殺を決行した。
 そのとき初めて、気を失うとはどういうことを経験した。
 上手くいった、と思っていた。
 永遠と思われる暗闇を漂って……けれど僕は目覚めてしまった。
 起きた瞬間両頬を打たれ、締め付けるような抱擁を受けた。左手首に巻かれた包帯のようだった。
「もうこんなことはしないって約束して。母さんのために……」
 母さんのために。
 僕の命は、母さんのためのものなのか。
 なら僕自身には?僕には一体何が残っているのだろう……。
 僕の自傷行為は悪癖になった。母さんを責めるつもりはない。元は僕が蒔いた種だ。それが予想以上に育ってしまったのだ。
 イレギュラーはあの夜だけではなかった。今の生活全てが、かつて平凡だった僕にとってのイレギュラーだった。
 手首だけに止まらず、僕は身体中を傷つけ始めた。母さんに見つからないように、服で隠れる箇所にのみ刃や爪を立てた。
 どこを切っても、死に至る出血にはならなかった。それでも良かった。
包帯は母の愛そのものだった。だから血を流し続けさえできればよかった。包帯で止血が間に合わないくらいに、傷つき血を流し続けようと思っていた。
 ――僕はただ、母の愛から逃れたかったのだ……。

   *

 気付いたら朝になっていて、そこで初めて自分が眠っていたことに気が付いた。うずくまったままの状態でいたためか、身体の節々が痛む。
 首に手をやるとぼこりとした傷があった。夢じゃなかった。
 ドアがノックされて、もしやミヅキかと思って身構えた。けれど違った。朝食を運んできてくれた看護師さんだった。当番で決まっているのか、この一週間毎日同じ人だ。
 朝御飯ですよ、と言って食事のトレーをテーブルに置いてくれる看護師さんの胸元には、早川と書かれた名札がついていた。
「あの、早川さん」
 話しかけると、彼女は驚いた顔をした。今まで一週間、僕が言葉を返したことがなかったからだろう。けれどすぐに、どうしたの?と笑顔で答えてくれる。
「……今朝、ミヅキ、どうでした?」
「え?」
 脈絡を欠いた質問に、早川さんが動きを止めた。この人はミヅキを知っているようだったし、彼女の病室にも朝食を運んでいるんじゃないだろうか。
もしかしたら担当が違うかもしれないし、これから行くところかもしれない。そう思ったけれど口から零れる不安を止めることができなかった。
「あの、彼女、落ち込んでたり、しませんでした……?」
 眠って、混乱から覚めた今、思い出した真実よりも僕にとってはミヅキのことの方がずっと気がかりだった。大切だった。
 こんな回りくどいことを聞いていないで謝りに行くべきだ。そう思って、尋ねる。
「ミヅキの病室はどこですか?」
「……誰のことかしら?」
 早川さんが躊躇いがちに首を傾げるので、もしや彼女は、自分の正体だけでなく名前まで偽っていたのだろうかと呆れかえった。まったくあの子は。そこまで自分のことを隠さなくてもいいのに。
「髪が腰まであって……白いパジャマで、点滴をしてて、いつも肩にストールを掛けてる女の子です」
「ええ、と」
「……あの子を叱ったでしょ?こら――――って……それに……」
 翳っていく早川さんの顔に、続きを言えなくなった。
 早川さんは答える。
「ごめんね、知らないわ。そんな子、見たことない」
 ……まさか。
 そんなはずは無いだろう。
「満月って書いてミヅキっていうんです。僕と同い年くらいで……!」
 困った様子で首を横に振る早川さんを見ていたら、堪らなくなった。そういえば、と僕は唐突に思う。僕は、『銀河鉄道の夜』以外に彼女の好きなものを知らない。これではあまりに寂しいじゃないか。足りないじゃないか。空っぽじゃないか。
 朝食のトレーがひっくり返るのをよそに、入院して初めて、廊下に飛び出した。そこは精神病院などではなく、ごく普通の総合病院だった。廊下を走って、病室のプレートを見て回る。階段を転がるように上り下りして、行けるところは全て確認した。何度も往復した。病室の中まで、確認した。驚かれ、時に怒鳴られた。足が痛みに引きつる。すれ違う人たちに注意される。
それでも必死に駆けずり回った。

 天使の病室は、どこにもなかった。
 どこにも。

 廊下に呆然と座り込む。息が詰まって咳き込むと、溢れてきたのは涙だった。
 ミヅキ……。
 ミヅキ……君は一体……?
 こうして僕は、彼女の最後の言葉を、永遠に聞けず終いになってしまったのだ。

   *

 私はねぇ……天使なの。
 で、死に損なったわけだ。馬鹿だなぁ!
 何も怖くないの。なぜなら私は、天地を揺るがした大罪人だからね!
 確か片方は亡霊なんだよね。
 私も、天国に行く一歩手前まで、誰かに一緒に来て欲しいな!できるなら、手を繋いでさ。
 嫌だなぁ、暗闇は怖いよ。
 その代わり……ケンジ君も絶対、暗闇の中で私のことを探してよね。
 約束。
 大丈夫だからね。
 たとえどんなに辛いことがあっても、生きようっていう意志が揺るがない限り、きっと君は大丈夫だから。
 君にはそれができる。
 君は生きてる。
 私はもう君の隣にはいられなくなるけど、ケンジ君はこれからも生きていくんだ。どれだけ……。
 どれだけ…………。

 ……ケンジ君。

 ねぇ、ケンジ君?

   **

 窓から見上げた夜空は花火の煙でぼやけ、星が見えない。せめて、もう一つだけでも花火があがってくれないかと思う。煙った夜空は真っ暗闇だ。この夜空と、ケンジ君の言う永遠の暗闇は似たようなものなのだろうかと想像してみる。けれど違うのだろう。何しろ後者は永遠なのだ。結局煙は晴れるし夜も明けるのだから、比べものにならない。
 遠慮がちにノックの音が響いて、開かれたドアから二人の看護師さんが入ってきた。時計を見ると、ちょうど九時だった。
「ここまで時間通りだと、逆に心の準備ができてないなぁ」
 そう私が笑うと二人も笑い返してくれた。

 ケンジ君。
 君に言えなかったことがある。
 言わなかったという方が正しいかな。
 君に言わなかったことが二つがある。
 一つ目。
 君が朝を迎えた頃、私はこの世にいないかもしれない、ということ。
 その理由は、私が今こうしてベッドごと病室から運び出されていることと直結しているのだけど……。私は今から手術を受ける。失敗すれば命を落とすことになる、正真正銘、困難な手術だ。私の病名は……今更やめておこうか?伝えなきゃいけないことは他にあるからね。
 私はこの病気を患ってから、勧められた手術を断ったことはなかった。ほとんどは無意味に終わってしまったけれど、そのことを嘆くこともなかった。
 けれど、この手術が命に関わる、しかも成功率が十パーセントにも満たないと聞いた時、怖くなった。この時点で私の余命は二ヶ月を切っていた。たったの二ヶ月なのに……たったの二ヶ月だからこそ、怖くなった。
 回りは皆「手術を受けよう」と言った。僅かだったけれど君にはまだ希望がある、と。
 だったら、私には他に何があるのか。
 僅かな希望と……。
 多大な絶望?
 死、そのもの?
「いやだ」と私は答えた。まだ死にたくない、そう叫んで、診察室を飛び出した。生きていたいという願いは、手術を拒否する理由にふさわしくない。生きるために治そうとするのだから。
 そんなことは分かっている。
 生きたいんじゃない。
 私は、まだ死にたくなかっただけだった。
 だって私にはまだ何もない。
 祈ってくれる親族も。
 悲しんでくれる友達も。
 来世を誓った恋人も。
 私にはいない。
 死んだら一人だ。死んだら独りだ。
 そんなのは嫌だ。このまま平坦な延長線で死を迎えるのは嫌だ。安心して抱えていける何かが欲しい。誰かが傍にいた証が欲しい。
 独りは嫌!
 そんな風に混乱していたからかもしれない。間違えて、隣の病室に飛び込んでしまったのは。
 ケンジ君を見たとき、自分と同い年くらいの男の子が隣の病室にいるなんて知らなかったから驚いた。同時に嬉しかった。だからつい、逃げ込んで来たふりをして居座ってしまおうなんて考えた。
 でも正直がっかりしたよ。君は冷めた目をしていたから。首と左手にぎょっとするほど痛々しい傷があって、病院で太宰治なんか読んじゃって、明らかに曰くつきの少年だった。
 代わってあげたいと思ったね。死にたいならいつでも代わってあげるのに。それができないから、私は君を馬鹿だと言ったんだ。八つ当たりだったよ。でも私は確かに君を軽蔑したよ。生きてるくせに死にたがる。そして失敗して、本を読む。その馬鹿げた矛盾を。
 でも君が……まるで小さな希望でも見つけたような瞳で「君は一体何?」なんて尋ねてくるものだから。
 ちょっと良い気分になっちゃってさ……。
 天使、なんて答えてしまっても、仕方ないよね?

「早川さん、お願いがあるんだけど」
 私の横たわるベッドを運ぶ看護師さんの一人を呼んだ。なぁに?と優しい声。
「隣の病室の子に、伝言頼んでもいい?」
 早川さんには、私がケンジ君の病室に通っていることが、昨日ばれた。午後に精密検査を控えていたため「安静にしていないと駄目でしょう!」と怒られたばかりだ。
「もし手術が失敗して……」
「満月ちゃん」
 静かに諌められた。いいから、と笑って、続ける。
「ケンジ君に私のこと聞かれたら『そんな子知らない』って嘘吐いてほしいの。『ミヅキなんて子、この病院にいないよ』って」
 君に言わなかったこと二つ目。
 私は天使なんかじゃないということ。
 ……もちろん、君はそんなこと重々承知だろう。私のことを頭のおかしな奴だなんて思っていたかもしれない。でも、私、作り話がそこそこ上手かったでしょう。入院生活が長いから、楽しい空想でもしていないと、やってられないんだ。
 だからさ。
 案外、君は騙されてしまうかもしれないね?
 天使でなくても……亡霊か、幻か……そんなものでもいい。せめて君の中では、死んだ、ではなく、消えた、ことにしてほしい。そうでもしないと君は私を忘れてしまう気がする。今、それだけが本当に恐ろしい。
 しばらく沈黙した後、早川さんは小さい声で尋ねてきた。
「本当に、それでいいの?」
「うん。お別れは、してきたから。花火、綺麗だったよ」
 にっと笑ってみせる。その言葉の真意を知ってだろう、早川さんが苦い顔をする。
「……安静にしててって言ったのに。あなたって子は、また、……」
「一生のお願い」
 念を押すと、ようやく頷いてくれた。

 闘病生活、とよく言うけれど、現実的に病気と闘っているのは病院の先生たちだ。私はただ、痛みや苦しみを耐えることしかできない。その中で実感してきたのは、生きるというのはやはり、静かな闘いだということだ。
 手術台に乗せられる。
 白い天井と、厳粛な雰囲気の先生や看護師さんが見える。
 私のために闘おうとしている人たちが、こんなに真剣な目をしている。この先は彼らに任せて、私はただ祈ることにしよう。
 ……ケンジ君。
 どうか勝ち抜いて。
 君に用意された長い余生を、生き抜いてね。
 私は君に起こったことがどれほどのものか知らない。それに、辛いことに真正面から挑んでいくことが容易ではないということは、分かっているつもりだ。けれど君にはそうしてほしいんだよ。だって君は……。
 全身麻酔が打たれた。
 私は両目をしっかり開いて、できるだけゆっくり呼吸をする。
 徐々に意識がぼやけてくる。
 自分がここにいるという感覚がなくなっていく。もう二度と戻ってこられないかもしれない。そしたらこの先は、永遠の暗闇だ。
 永遠の。

 ふと、右手が温かいもので包まれた。ぎゅっ、と強く握られる感触があった。
 ああ、分かるよ。
 この温度は……。
 ひやりとした奥に、しっかりと熱が息づいている、この体温は……。
 ケンジ君、君なんだね。

 来てくれたんだ。よかった、なんだか安心しちゃったよ。君、すごく怒ってたみたいだからさ……。もう二度とお喋りできないんじゃないかって、不安だったんだ。
 ならあんなこと言うなって?そうだね、君には辛い思いをさせる。
 でも、あのまま放っておくわけにはいかなかったんだよ。君には闘ってほしかった。
 だって君は……。
 君は私の希望だもの。
 ケンジ君、永遠の暗闇の話をしてくれたね?そこで会う約束もした。君は私を探してくれるって。
 あの日の夜なんだ。私がこの手術を受ける決心をしたのは。
 ……。
 ケンジ君?
 なんで黙っちゃうの?やっぱりまだ怒ってる?
 ケンジ君、聞いてるの?
 そこにいるんでしょ……。

 ケンジ君は生きてる。
 どれだけ無力でも。
 軽蔑されても。
 拒絶されても。
 生きることに魅力を感じなくなってしまったとしても。
 決して、そこからいなくなったりはしない。

 私は君を待ってる。いつまでだって待ってる。永遠だって耐えてみせるから。
 だから安心して。
 大丈夫。
 大丈夫だよ。
 私はここにいる。
 君の勝利を祈り続けている人間がここにいる。
 だから君は――安心して生きていいんだ。

 視界が暗くなっていく。
 意識を手放す瞬間まで、私は君を想う。右手に感じる温もりが、強く、握っていてくれる。握り返したかった。けれど麻酔の効いた身体はピクリとも動かなかった。そんな私の分まで強く強く握っていてくれるその手が、好きだと思った。
 ケンジ君、もし私が生きて戻ってきて二人で退院することができたら、その時はしょっちゅう会おう。私は君が心配だよ。それを口実にして、君とたくさん時間を過ごそう。花火も見に行こう。今度は遅刻しないようにするから。
 私は君の未来を見届けたい。
 君の闘いを見届けたい。
 そのために、私も今から闘うんだ。応援は十分受け取った。
 ケンジ君。ケンジ君。私の希望。
 また会おうね。……どちらか、で。

 ケンジ君が私の右手を離した。同時に、暗闇に溶けるような穏やかな眠りを迎えた。

   ***

 談話室で早川さんから一通り話を聞いた後、一枚のメモを受け取った。
「……わたし、きっと、怒られちゃうわね」
「その前に僕が叱ってきます」
 早川さんにできる限り丁寧にお礼を言った後、約二年半ぶりに訪れた病院を出た。春風がひりつく目尻に染みた。
 この春、僕はこの街を出る。
 母さんに殺されかけた夜から二年弱。僕は無事高校を卒業し、あれから今更ながら恵まれた友達にも、先日お別れをしてきたばかりだった。
 メモに記された住所を目指してバスに乗ると、窓から満開の桜が見えた。
 ――会いに行ってあげて。
 早川さんはそういってこのメモをくれたけれど、彼女と僕の本当の再会は、もっとずっと後になるだろう。
 メモに記されたバス停で降りて、簡略化された手書きの地図を元に歩く。やがて辿り着いたのは、小さな共同墓地の一角。墓石の前には、雨風にさらされてぼろぼろになった写真立てが倒れていた。拾い上げて見ると、その写真に写る幼い少女は確かにミヅキの面影を残していた。
 無言でしゃがみ込み、写真を墓石に立てかけ直す。手袋とマフラーを外した。
 彼女は本当に天使だったんじゃないかと思った時期があった。もしくは亡霊か、僕の幻覚か。街を出る前にはっきりさせておこうと早川さんの元を訪れて。今日ようやく君の正体が分かったよ。
 手は合わせない。ただ無言で語りかける。

 僕の首と左手の傷だけどね、これ、消えなかったよ。ほら。今も痕が残ってて、見るたびに思い出す。
 母さんじゃなくて、
 ミヅキ、
 君のことを。

 母さんは僕の首を刺した後、同じナイフで僕の手首を切った。それから救急車を呼んだそうだ。「息子が自殺を図った」と。その直後、強いお酒を飲んだ。一見意味不明だけど、つまり母さんは自殺偽造をしようとしたんだ。酔った母親と喧嘩をした息子が自殺した、っていう……僕が思い込んでいたのと同じ筋書きで。けれど僕は生き残り、多くの矛盾や検査の結果からその偽造はすぐにばれた。
 母さんは罪を認め、反省の色濃さや当時の精神状態を考慮されて執行猶予をもらった。今はカウンセリングを受けているらしい。
 嘘は怖いね。
 そして、罪深い。
 ……ミヅキ、早川さんに全部聞いたよ。
 全部。
 君は幼い頃に両親を事故でなくして、ずっと親戚に治療費を援助してもらっていたということ。けれど最後の手術の日まで、見舞いに来てくれた人が一人もいなかったということも。「みんな私に死んでほしいんだ」「私よりお金の方が大事だから」そう一日中泣いていたって、早川さんに聞いた。花火に遅れてきたのは、涙が枯れるのを待っていたから?君は僕に泣いている所を見られたくなかったんだろう?
 早川さんに嘘を吐くように頼んでいたことも聞いたよ。
 そして、君がすでにこの世にいないということも。
 ……君は馬鹿だ。
 大馬鹿野郎だ。
 早く言ってよ。何で黙ってたんだよ。
 君が最後まで天使でいる必要なんてなかった。幻のように消えてしまう必要なんてなかったんだ。そんなことをしなくても、ミヅキはとっくに、僕にとって特別な女の子だったんだよ。
 もしかしたら、今の居場所が分かるかもしれないと思って早川さんを訪ねたのに、君はもう亡くなったと言われた時の僕の気持ちが分かるか。手術のことを知っていたら、あんな別れ方をすることもなかった。僕はいくらでも君を応援したのに。
 それとも……君が望んでいたのは、そんなものではなかったのだろうか?励ましや同情ではなくて……君は僕に……もっと別の何かを、見ていたのだろうか。
今はもう、分からない。何もかも。

 僕はあれからの約二年間を、父さんと暮らした。
 門限のために帰路を全力で走ったり、部屋で誰かの目を気にしたり、夜の尋問会を怖がったりすることのない生活にようやく心の安定を得た。けれど、いずれ母さんにも会いに行くつもりでいる。逃げては駄目だと思うんだ。母さんと僕の心の問題だから、いつになるかは分からないけれど。
 あの出来事が過去になっていくと同時に、ミヅキとの記憶も遠ざかっていくよ。君の声や笑顔を、今はぼんやりとしか思い出せない。 思い出そうとする度に記憶の中で擦り切れていく。異物感を失っていく。君という特別な存在は、いずれ多くの普遍的な記憶の一ページとして均されていくんだろう。
 寂しいけれど、それでいいと思ってる。
 君の声は僕の一部になる。生きようという意志の基盤になってくれる。

 君は生きてる。

 僕の人生がイレギュラーでなくなった後も、辛いことはいくらでも起きた。
 死にたいんでしょう?
 誘惑するような母さんの声に苛まれることもあった。
 その度に、君の言葉を思い出した。

 君は生きてる。

 それが僕にとって、たった一つの揺るぎない真実だ。

 君は生きてる。

 聞けなかった君の最後の言葉を、僕なりに考えてみたよ。当然、君がどんな言葉で言い表すつもりだったかまでは分からないけれど、君はこう言いたかったんじゃないか。
 どんなに辛くても、逃げられやしないんだって。
 死にたくなる日もある。泣き明かす日もある。何もやる気が起きない日もあるし、無駄なことに時間を費やす日もある。
 それでも、誤魔化せない。曲げられない。やり直せない。逃げられない。
 それが現実で。
 生きているってことなんだって。
 ……違ったらごめん。
 でもこれが、君のおかげで前を向けるようになった僕が得た結論だ。
 ミヅキが死を避けられなかったように。
 僕も生を避けられない。
 僕は生き残って、ミヅキは死んだ。けれど僕の中には変わらず死という色濃い未来があって、そして今はここにいないミヅキの中にも、確かな生があった。
 君の姿を、声を、言葉を――「君は生きてる」その一言に集約して、何度でも、何度だって、僕はこれからも大小さまざまな苦しみを生き延びるだろう。
できるなら、その度に……。
そうだな。
君のいる永遠の暗闇に、花火があがっていたらいい。そしたら僕はあの横顔を探しに行くよ。満ち足りた、あの綺麗な横顔を。
 僕は立ち上がり、その場を去る。未来に向かって歩いて行く。消えることのなかった左手首の傷に、撫でるように優しい風が触れる。目を閉じる。
 目蓋の裏の、浅い暗闇が僕を包む。

 いつの日か、僕は君を探しに行く。
 君の名前を叫びながら、花火の下、永遠を走っていくだろう。
 だからその時はミヅキも早く迎えに来てよ。
 約束だ。
 ……待っててよ、ミヅキ。
 待たせるけど、どうか待っていてよ。
 僕、生きてみせるからさ。
 不安もあるけれど。
 死ぬまで生きてみせる。

***


私は君を待ってる。
いつまでだって待ってる。
だから君は――安心して生きていいんだ。


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