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数年後、新しい推しが生まれ、今の推しが(たぶん)死ぬ 上


つい昨日、海洋研究開発機構(JAMSTEC)の公式twitterからこんな投稿があった。

私はめちゃくちゃ動揺し、必死でこの「北極域研究船」の船名を考え始めた
今はまだイメージCGしかないが、この船は間違いなく私の推しふねになる。というより、この計画が立った数年前から、あまりにもクソデカ感情を抱きすぎてすでに推しになっているので、実際に対面したときにどうなってしまうか自分でも全くわからないところがある。

なんで完成前からそんなにこの船に入れ込んでしまっているのかという話の前に、この船の「先輩」にあたる、ある一隻の船の話をしよう。現状、私の最推しのふねのことだ。

原子力船「むつ」

約半世紀前、海運の未来を拓くはずの船があった。名前を「むつ」という。
この船のエンジンは、他の船とは違っていた。原子炉をエンジン代わりに積んでいたのだ。

原子力船というものについて

原子炉を動力として積んだ船を原子力船というが、たぶん現代においては「原子力空母」とか「原子力潜水艦」とか、原子力船の範疇に含まれる艦船種のほうが聞き覚えのあるという人のほうが多いだろう。

原子力船の大きな特長は何かというと、普通の船が自動車などと同じようにある程度走ったところで給油が必要になる一方、原子力船は一度核燃料を積みさえすれば、年単位で燃料補給が必要ないことである(潜水艦の動力として運用するときには、これに加えて「駆動時に酸素が必要ないから、ずっと潜ったままでも航行できること」が利点となる)。
かつてこの特長が、当時の海運を一変させるのではないかと目された。

長距離航路において、いちいち寄り道しての給油が必要だったルートを最短距離で結べたら、めちゃくちゃ時間短縮になるしコストも削減できるのでは?」
なかなかいい考えに見えると思う。

しかしそういう未来は来なかった
原子力空母とか原子力潜水艦とかの方が一般に馴染みがあるのは、原子力船は現状ほとんど艦船用途のものしか残っておらず、民間用途の原子力船というのは普及もせずほぼ絶滅状態にあるからである。

結論から言ってしまうと、(たとえ事故を抜きにしても)原子力商船は思ったほど夢のようなものではなかった
普通のエンジンに比べて原子炉はものすごく高価なので船の単価が高くなるし、保守や整備には専門の人員がいっぱい必要なほか、放射線が漏れないように原子炉の周りに分厚くて重たい遮蔽材が必要だから、動力として積むにしても小さな船では原子炉ばっかり重量を食ってしまうので、クソデカ貨物船とかでないと割に合わない
そして最短ルートの件についても、問題は「船には人が乗っている」という、至極当然のことだった。人間さえ乗っていなければ、理論上は地球数周だって難なくできる原子力船だが、仮に最短ルートで海上輸送をしたとすればそのあいだ数ヶ月単位で乗組員は船に缶詰めになるし、陸地から遠い場所で急病人が発生したような場合、現実的な時間ではどこからも助けに行けないといった事態が発生しうる。原子力船は人が船に合わせなければいけなかったのだ。

日本における原子力船開発計画

「むつ」の話に戻ろう。
原子力船に対してまだ各国が希望を持っていた頃、政府・造船会社・海運会社・有識者その他の産官学合同国家プロジェクトとして、日本でも原子力船を作ろうという計画が持ち上がった。もちろんこれを原子力艦船への足がかりとしたいという狙いもあっただろうが、それについては一旦おいておく。

では、作るとして1隻目はどんな船にしようか?
このとき2案が挙げられた。片方は全長218mのでっけえタンカー、もう片方は全長126mの海洋観測船兼補給船であった。
しかし「どっちもは作れねえよ…」となったので、この案が観測船設計ベースにニコイチされ、建造されることになったのが特殊輸送船としての「原子力第一船」、のちのむつだ。
船種としてはいちおう貨物船ということになるが、なにしろ観測船設計ベースなので130.46mの船体は貨物船としてはかなり小さく、肝心の貨物スペースなんていくらもない

この船を建造するにあたって科学技術庁が予算を立てたのだが、折悪く見積もりを出したのが日本の造船業界が大不況状態のとき、実際に入札をするとなったのが日本の造船業界が好景気状態のときで、造船各社とも「この値段じゃ作れません」と断った
最終的に予算を増額してなんとか作ることになったが、本来であれば当時最新のコンピュータ制御を存分に盛り込みたかったところ、予算的にキツくて手動制御となったところもあったという。

地元の反対、出港、そして

この船の母港は青森県むつ市大湊に定められ、船名は「むつ」と名付けられた。各界の期待を背負った船であったが、地元は反対の様相が強かった。
当時、陸奥湾ではホタテの養殖事業が軌道に乗り始めており、むつが事故を起こせばどうなるのかと心配する漁業者やその他地元民は多かった。本格的な試験の開始以前の段階から海産物への風評被害も発生し、漁業者らは補償を求めたが、政府は相手にしなかった。原子力船は絶対安全だし事故なんか起きないし反対するやつは愚か、といった推進側の姿勢が反対側の火に油を注ぐことになった

政府は地元の反対を押し切ってむつの出港を閣議決定したが、大湊港には漁業者が大挙して押し寄せ、むつの出港を阻止しようとした。

台風の近づく夜のことである。危険なので一旦漁船たちはむつの周りから退避したが、この折を見て当時の船長は出港を決めた。

一方その頃、漁協の組合長らと青森県知事は協議を行ない、妥協案をまとめていた。むつの出港を知ったのはテレビの報道であったという。

……出港の6日後、むつは原子炉の出力試験中に放射線漏れを起こした。

放射性物質そのものが漏れたわけではなく、漏れた放射線の強さもブラウン管テレビ2台分くらいで特に危険はなかったが、原因は設計ミスであった。
原子炉周りの遮蔽材のすきまを伝って(ストリーミング)放射線がわずかに漏れてしまったのだ。
なおこの設計については、確認してもらったアメリカのメーカーからストリーミングの可能性について指摘されていたものの、結局設計変更せずにそのまま作ってしまったらしい。見せた意味…。

各マスコミはこの事故を「放射『能』漏れ」と海を汚染する船のようにセンセーショナルに報道し(繰り返すが放射性物質が外部に漏れたわけではないので放射能漏れとは違う)、裏切られた地元漁業者らは国含む推進側の言うことは何も信用できないと帰港反対を決議、また地元にとどまらず向かい風吹き荒れる国内世論のため、原子力船計画はもはや修復不可能となった

帰港反対のため1ヶ月以上海上で足止めされてから、むつは重油焚きの補助ボイラーでよろよろと大湊港に帰ってきた。
ともかくこの遮蔽不足のままでは試験もできないから改修をしなければいけないし、地元はもうむつの母港は嫌だと言っている。だけど、どこもこの船のことを引き受けたくない
むつは原子炉を封印され、岸壁に繋がれっぱなしになった。

長崎新幹線と「むつ念書」

そこからさらに4年経って、ようやくむつの修理を受けてくれるところが決まった。当時むちゃくちゃ経営状態が悪化していた、長崎県にある佐世保重工である。

長崎県といえば世界で二番目に原子爆弾が投下された地でもあり、当然というべきか原子力船であるむつへの風当たりも強かった。
しかし佐世保重工がむつの改修をいわば公的発注として受け入れる代わりに、地元に便宜を図ってもらうことになり、そして県と与党との間で結ばれたのが九州新幹線西九州ルート(長崎新幹線)の優先着工の約束
これを「むつ念書」という。

知っての通り、その後長崎新幹線の整備は遅れ、現在のルート的にも佐世保は通っていない。この約束は結局反故になってしまった。
それはそれとしてこの修理受け入れの件もあって佐世保重工はなんとか危機を脱し、むつも改修できたのであった。
しかし、新しい母港も試験の計画もまるでまとまらなかった。

たった一年の実験航海

昭和60年、政府がむつの廃船を決定した
むつ市の津軽海峡側にむつのためだけに最小限規模の新しい港を建設し、各種試験をこなして船としてのお墨付きをとったら、大体1年くらい実験航海してデータを取り、後はもう直ちに解役しておしまいにするというものだった。

むつは陸奥湾の外に追い出され、一人ぼっちの新関根浜港を母港とした。

平成3年2月、むつは点検や各種試験を終え、使用前検査合格証・船舶検査証書を受領。船としてのお墨付きをもらう。
ここから一年、航海日数にして約半年。むつはやっと「原子力船」としての実験航海で海を駆けた(それまではずっと係留されているか補助ボイラーでの航行)。進水から20年以上が経過していた
翌平成4年2月、むつは実験航海を終了した。

「データを取る」というのも、ここまであまりにも時間がかかってしまっていたため、他国ではこの頃までに「原子力商船には期待していたような経済性はない」というのはわかってしまっていたから、本当にこれはプロジェクトを終わりにするために必要だったミニマムサクセスという感じだと思う。
当時の原研の理事はこの実験航海で、むつを信頼し波濤のなかで命を預けながら、その裏で解役計画を進めることが(むつに対する)裏切りのようで気が重かったと述懐している。

船において、技術が先進的かどうかと、安全かどうかと、経済性を持っているかどうかは全部別の問題だ。
むつは少なくとも造られた当時においてはある程度先進的ではあったし、危険ではなかった(もしものときはメルトダウンを防ぎ人間や周囲の環境をできる限り守るために、心臓部に海水をなだれ込ませることもできた。無論それは船としての自殺を意味していたが)。
そして経済性はどうかというと、先述のとおりなのでこれは言うまでもないだろう。

机上の経済発展のイデオロギーに目がくらんだ人々は、むつのことを未来の船だと謳い、信じないのは愚かだと言った。
反対の声が非常に高かった頃は、むつのことをひとたび事故を起こせば原子爆弾のようにむつ市街地を火の海にするとか、そうでなくても毒を撒き散らす船だという人もいた。
むつは推進側が夢見たような海運の救世主ではなかったが、また反対側が恐れたような恐ろしい死神というわけでもなかった
ただ、中途半端でイマイチな出来の、できることもあるけどできないことのほうがずっと多い、一隻のただの船だったのだと思う。


さてここまで読んでもらって、こんな悲しい船がどうしてこれから建造される予定の北極域研究船の「先輩」にあたるのか訝しんでいる人のほうが多いと思う。
実は、「むつ」は解役されてそのままスクラップになってしまったわけではない。このお話にはまだ続きがあるのだ。

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