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甲本ヒロトとカップヌードルと六ヶ所村ラプソディー(一体、どう言うことなんだ?!)

今朝、大尊敬する心の師匠が素敵なメッセージをシェアしてくれて、

ジーーーーーーーーン

ときた直後に、

私の心のメモのど真ん中に貼ってある、甲本ヒロトの名言をじっくりと読み直したくなりました。そしてどんな反動か、10年ぶり?に日清カップヌードルを食べました。

そして麺をすすりながら意外な気づきもありました。

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幸せを手に入れるんじゃない。

幸せを感じることのできる 心を手に入れるんじゃ。

売れているものが良いものなら、

世界一のラーメンはカップラーメンだよ。

ダイヤモンドの行商人がやってきて、

このダイヤモンドは永遠の輝きをどうのこうのって言うとるけど

せいぜい100年しか生きられん人間に

永遠の輝きを売りつけてどうするんじゃ。

俺らが欲しいのは今だけです。

生活と人生は違う。質素な生活、豊かな人生。

新しく何かをやりたいんじゃなくて、今、何をやりたいかなんだよ。

時代は良くも悪くもなってない。いつだっていまが最高。

人生に意味はないよ。 

だって暇つぶしじゃん・

暇なんだよ みんな。
人生80年もいらないんだよ。 

3日もあれば終わるんだ。 

やることなんて 意味なんかいらないのだ。 

楽しければいいんだ。

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なんとこの超名言、2002 年に雑誌『Snoozer』でのインタビューでの記録を抜粋したもの。

02年ですよ! 

数字や所有物や成果主義の価値観が王道、真っ只中だったこの時代に、すでにこんなことを当たり前に言い放っていたなんて、マジすげーな、最強だな、と思った次第です。


ブルーハーツの名曲に「リンダリンダ」がありますが、曰く

「リンダリンダという言葉に意味なんかないし、答えなんかない。ただ心に浮かんだ言葉を歌ってくれればいい」by ヒロト 


やっベーーーーー

と膝を叩きまくったのは私だけではないはずです。

そして同曲のサビにも勝る冒頭は

「ドブネズミみたいに美しくなりたい写真には写らない美しさがあるから」

(人には)汚くてもカッコ悪くても、自分の芯を持って生きて行けば、

目には映らない美しさが醸し出される。つまり、こういうこと。

当時、10代にも満たなかった私は

ここまで深読みなどできず、彼らの内から湧き出るものにただ魅了されて聴いていた名曲ですが、

今更ながら、こんなに真理をついていたのか、と驚き、感動し、感謝しています。


ちなみにカップヌードルを無性に食べたくなったのは、この名言を読んで以来、私の中の「インスタント麺なんて体に良くない」みたいな、超狭くて凝り固まった価値観が疼いていたからなのだと思います。

そういった"せねば"、"すべきではない"を解放し、緩めていくモードに入っているからなのだと思います。

さらに、小さな発見もありました。

アメリカのカップヌードルには"NO MSG"が堂々とアピールされていますが、蓋は開けずらいし、”ここまで開ける”というあのご丁寧な点線はありません。よって、アメリカ人はきっと全部蓋をとってしまって、お湯を注いだ後に「あ"」という人もいるかもしれないし、そもそも蓋なんてしないで3分を待つのかもしれません。

いや、時間さえ気にしないのかもしれません。

でも、どうでもいいのです。

でも、"MSG"が入っているか否かは猛烈に気になるのです。

だからこそ、北米の日清はアメリカ人の健康を重視する消費動向をリサーチして2016 年に脱MSGへと舵を切ったのです。

単純に、そうしないと売れないから。


体感では何万年ぶりか! と懐かしみながら、カップ麺のふやけた麺をすすっては、おもちゃみたいなエビやネギをつまみながら、ふと思い出したのは、名ドキュメンタリー映画『六ヶ所村ラプソディー』でのワンシーンでした。


あるきっかけで、中立派から核燃料再処理施設建設へ反対運動を始めた有機農家の女性は「放射能の影響のない自分の米は今年で最後になる」とマーケットの店頭に立っていました。その時

(もう巨大な力が働いているから)「どうしようもできないよね〜」

という一人の客に対して、こう囁くのです。

「反対って言ってもいいのよ。嫌だったら嫌って言ってもいいのよ」と。

そのトーンの優しいこと、温かいこと。

BLMを始めとする、昨今のアメリカのプロテストなどに光の方へと変わりゆく希望を感じながらも、そのアメリカ的主張の強さや罪悪感を礎にした言動に、一抹の違和感が生じていたのも確かです(ごめんなさい、愛しています)。

そんな最中に10年以上ぶりに観た『六ヶ所村〜』に登場する女性たちの"穏やか"な抗議活動は、

誰かをねじ伏せてまで状況を変えたい

というよりも

ただ自分は自分の心の声に忠実でありたい

という気持ちの上での行動のように映りました(アメリカ人にもそういう人はいるのは確かだけど、集団としてみたときの個人的印象です)。


カップヌードルの話に戻ると、アメリカ人はNoということをストレートに表現する。健康への被害や合理性は追求するけど、痒いところに手が届き過ぎるほどの便利さ、繊細さにはそれほどまでに頓着しない。

ヒロト同様、売れているものが良いものとは全く限らないと思うけど、売れているものの、アピール性、ウリを国によってあえて変えているということは、それぞれの国民性の価値観を汲み取っているということ。

日本人が「ここに点線、つけてください」とか、

「どこからでも開けやすい袋を作ってください」。

と、日清に訴求したとは到底、思えないが、きっと空気を読むのが御家芸の日本の企業は国民の潜在的訴求を汲み取ったのではないか、などと甲本ヒロトから、カップヌードル、六ヶ所村がはちゃめちゃに交錯する。

そして詰まる所は、、、

嫌なものは嫌、と言えばいいし、言わなくてもいい。

人生に、言動に、意味づけなんてしなくたっていい。

「MSGやだ、って日本の日清にも言わなきゃだめ!」などとは、外野的存在で私は微塵も思っていない(日本にいたら、日清宛に手紙書くもしれないけど、笑)。

言いたい人が自由に言えばいい。

「やっぱりカップ麺にはMSG、うめー」って人はもちろん、それでいいと思う。諸手を上げて賛成する。だって、日本のカップヌードルの方がうまいもんね。

食べたい人が食べて、言いたい人が言いたいこと言う。

私たちにはそんな自由と権利がある。

でも、そんなことが言いずらい世の中になっているのも確かである。

ヒロトの言葉が何年、何十年たっても、どの世代の人にも反響し続けているのは、だからこそなのでは、とさえ思う。

結局、決めるのは自分。

いつだって、今が最高、と思えるために。意味なんて考えずに、楽しむために。


追伸:長い長い一歩一歩の末、山頂で食べるカップヌードルはどうしたってうまいし、みんなで食べたらきっと、もっと楽しい。

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