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ヒトラーの政治的側面

今日のおすすめは!
下記の4冊からヒトラーの人物像について紐解いて行きます。
ネットの情報は一切取り入れず、参考文献からの引用のみになっていますので詳細が知りたい方は是非お手に取りご覧になって下さい。
なお、「白バラは散らず」は絶版になっており入手困難な為、何かご質問があれば私の手元にある原本を参照して可能な範囲でお答えできればと思います。


①『ヒトラーとは何か』
セバスチャン・ハフナー著

*ちなみに

セバスチャン・ハフナーとは…

教養を備えたドイツ人なら知らない人はいないと言われている、
ビスマルクからヒトラーまでのドイツ現代史を語らせたら右に出る者はいないと言われている稀代のジャーナリスト。
ヒトラーが政権を獲得して頂点へと上り詰めていった時代を生きていた。

セバスチャン・ハフナーは、ペンネームで、セバスチャン・バッハとモーツァルトがザルツブルクの貴族ハフナー家の為に作曲した「ハフナー・セレナーデ」「ハフナー・シンフォニー」からとっている。

この著書『ヒトラーとは何か』は晩年に書かれた古典的名著とされており、『魔の山』の作者で知られるトーマス・マンに「卓越した分析力」と賞賛し、ヒトラー伝で有名なヨアヒム・フェストも「この瀟洒しょうしゃ(すっきりしてあか抜けている事)な一冊が世にあふれるヒトラー本の山を一掃してくれる」と脱帽している。

②『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』
芝健介著


③『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』
神野正史著

④『世界ノンフィクション全集28』に収録『白バラは散らず』(絶版) 
著者インゲ・ショル

著者のインゲ・ショルは「白バラ戦争」の第一戦で活躍したゾフィ・ショルの親類で、当時の白バラ団の活動の様子を克明に記録しています。






*政治的側面の概要

※反ユダヤに関する記述には☆マークを使用しています。
また、同時期に発明されたものも合わせて紹介しています。

7段階の政治人生

*ヒトラーの政治人生は7段階に分かれている。

①中身の無い人生を埋め合わせる為に、早いうちから政治に熱中した。
②オーストリアからドイツに移住し、人生において初めて政治アクションを起こした。
③政治家になる決意をした。
④大衆演説家として、聴衆に催眠術をかける能力がある事を発見した。
⑤総督(フューラー)になる決意をした。
⑥自分の生存中に政治プランを全て実現する事、自分一個人の人生に民族全体の運命を従わせる決意をした。
⑦自殺を決断した。

政治的世界観

①「国家の目的は、物理的・精神的に同質の人間から成り立っている社会を保存促進する事である。」

②「政治とは国民が外に向かって政治力を発揮するための力を保証することである。」

③「生きんとする者は、闘わなければならない。
永遠に競争を繰り返すこの世界で戦いを望まない者は、生きる資格が無い。」

④「戦争は残虐で恐ろしいものではなく、民族発展の基盤を支え、それを永続たらしめる自明自然のシステムである。」

⑤ドイツ国民に課せられた目的
第一の目的は、
「人口と土地面積の不均衡を取り除く事である。
人口と土地面積は、ともに民族繁栄の源泉であり、政治権力拡大の拠点であるから、これは尚の事重要である。」
第二の目的は、
「強者が勝利して、弱者を絶滅する事、もしくはこれを無条件に奴隷化することは自然の理である。」
第三の目的は、
果てしなく戦争を繰り広げたのちに世界を支配する事である。
「どの生物も誇張しようと懸命だ。そしてどの民族も世界を支配しようと必死で闘っている。」
しかし、ヒトラー存命中はせいぜいロシアを含むヨーロッパ全土を支配するのが精一杯だと自覚していた。

→つまり、政治とは生存圏(レーべンスラウム)を巡る戦争そのものであり、戦争の準備の事であり、世界を征服し、弱者を絶滅もしくは奴隷するのがドイツ国民の目標であるとした。

また、生存圏獲得のための民族闘争とは別の戦いがあると語っている。

☆「人種間の戦い」、つまり、アーリア人種対ユダヤ人種との絶滅戦をする必要があり、ユダヤ人は「人類の毒殺者」であり、全世界の敵であるとした。

生存圏獲得のための戦争

*ちなみに
ヨーロッパ史的に、生存圏獲得のための戦争は1500年前の民族大移動以降、ヒトラーが引き起こすまで一度もなかった。

Q なぜ?

A
産業革命以来、民族の繁栄と権力の度合いはもはや余裕する土地の大きさではなく、科学技術のレベルによって決まるようになっていた為。
生存圏が拡大するという事は、人口密度の低い土地が広がるだけの事であり、それは開発と発展のハンディキャップになった。
→しかし、古き時代への郷愁と閉塞した時代への苛立ちやすばやい適応を余儀なくされる非人間的な現代社会への嫌悪感がある風潮から、当時のドイツでは生存圏獲得闘争が受け入れられた。

ヒトラーは左翼的ポピュリスト

*ヒトラーの政治は「極右」ではなく、「左翼的ポピュリスト」であり、「ファシスト」でもない。

Q なぜ?

A
民主主義ではなかったが、権力の基盤をエリートではなく、大衆に置くポピュリストであった。
つくりあげた支配機構は序列化された階級制度ではなかった。
混沌としたまとまりのない大衆組織を頂点に立つヒトラー1人が統括した。
反対勢力の右翼からみれば、左翼である。
そもそもファシズムとは、上流階級による支配であり、大衆の熱狂を作為的に生み出して、自分はその上にあぐらをかく事。
ヒトラーは大衆を熱狂させたが、大衆を離脱して、上流階級にのし上がろうとはしなかった。
ファシズム国家では「人間の国有化」は殆ど進まないか、あるいは全く欠落しているかのどちらかである。
ヒトラードイツは君主制ではないので、独裁者を解任したり、別の人物と交代させる事はできなかった。
左翼家に多い、理論を実践に移そうとする思想的政治家、目標の策定者であった。
ヒトラー自身「綱領作成者(プログラマー)」だと語っている。
ヒトラーは理論、プログラムに従って政策を進める政治家のほうが、ただの実務政治家よりも成功するのが難しいと自覚していた。
ヒトラーにとって重要なのは民族と人種だけであり、国づくりには興味がなかった。
国家が何であるかを理解しておらず、国家になんの価値も認めていなかった。
国家はただの戦争遂行のための手段(属国、原料供給者、行軍の通り道)でしかなかった。

ヒトラーの世界征服の定義

*ちなみに

「世界征服」の思想はヒトラー以前からあった思想であるが、それはヒトラーの世界征服とは定義が違っていた。
帝国主義時代のヨーロッパ列強達の「世界征服」は、ヨーロッパ大陸で強国としての地位を固めたうえで、アジア、アフリカに植民地帝国を築くことであり、ヒトラーは植民地には興味がなく、ゲルマン民族大帝国を作り上げ、権力のピラミッドを作りたかった。
頂点はドイツ、中間層は覇権を握ったヨーロッパ、最下層には旧ヨーロッパ列強が海外に獲得した植民地と新たに獲得したロシアを当てる。先々の見通しを明るくした上で、後日アメリカと日本を相手に世界支配を争おうとした。

→しかし、ドイツ1国のみで世界征服を成し遂げようとしていたが、反ユダヤによるユーロッパの統合は、ユダヤ的との判断材料である「インターナショナル(国際的)」の考えと矛盾していた。
※詳しくは別記事「ヒトラーのユダヤ人定義」をご覧下さい。

結局成し遂げられはしなかったが、1938年の秋にイギリスとフランスの同意を得て東ヨーロッパの覇権が認められた時と、
1940年の夏にフランスに勝利し、ヨーロッパを占領して、ロシアから西のヨーロッパ大陸ほぼ全土を足下にひれ伏せさせた2度、目的を殆ど達しかけていた。

☆失敗したのは、ヒトラーの性格的要因と反ユダヤ主義を掲げた事による、敵の増加と戦力減少が原因だった。
ドイツを愛していたユダヤ人達がヒトラーに憎悪を抱くようになった。
ユダヤ人の友人をもつドイツ人から敵視されるようになった。
優秀なユダヤ人科学者達、ドイツの知識人の亡命
学問の総本山であったドイツに巡礼にきていた外国人研究者も去った。
数千人のドイツ人がSS(親衛隊)として何年も大量虐殺に従事した為に前線の兵隊が足りなくなった。
毎日絶滅収容所にユダヤ人を貨物列車で輸送した為に、前線兵士に補給物資がまわらなくなった。


*政治的側面の詳細とヒトラーの人生

ヒトラーが誕生する直前の出来事

*1879年 トーマス・エジソンが電球を発明。

*1882年 ヘンリー・W・シーリーが電気アイロン発明。

*1885年 ウィリアム・ル・バロン・ジェニーが世界初の摩天楼の建設。

*1887年 アーサー・コナン・ドイルが「シャーロックホームズ」を登場させる。

☆1889年4月20日 ブラウナウで誕生。

*1894年 ケロッグ兄弟がコーンフレークを発明。
*1895年 リュミエール兄弟が映画撮影の発明。
*1896年 シェフィード博士がチューブ入り歯磨き粉の発明。

☆1900年 小学校を終え、リンツの実科学校に入学。

*1900年 フェルディナント・フォン・ツェッペリンが硬式飛行船の発明。
*1902年 モリス・ミットムがテディベアを発表。
*1903年 ライト兄弟が世界初の動力飛行機の飛行。
*1903年 マリー・キュリーがノーベル物理学賞受賞。

☆1907年 画家を志しウィーンへ。美術学校の受験に失敗。

*1908年 トーマス・サリバンがティーバックの発明。
*1910年 アンリ・ファーブルが水上機の発明。
*1912年 タイタニック号沈没。

☆1913年

  • 新聞を熱心に読む人くらいの知識しかなく、経済学や経済政策は素人だった。

  • 1913年 オーストリアは崩壊するに違いなく、その崩壊の中で、大ドイツ帝国が生まれ、オーストリアのドイツ人を再び抱き込み、ドイツ民族の圧倒的重量でその他の小国家群を支配すると考えた。

  • ヒトラーはオーストリア人であるが、ドイツ人であると言い聞かせており、当時オーストリアに住むドイツ人が不満感を抱いていた、ドイツ帝国創設の際に不当に排除され見捨てられた負け組のドイツ人であるとの思いが強かった。

*ちなみに
当時「独墺(ドイツ・オーストリア)合併」を両国民が熱心に希求するようになり、ドイツ国内のオーストリア人は事実上殆ど外国人とは見なされなかった。

*1913年 アーサー・ウィンがクロスワードパズルの発明。

☆1914年 第一次世界大戦開戦 ドイツ軍に入隊

  • オーストリアのウィーンからウィーンからミュンヘンに移動し、オーストリア国内の兵役を逃れ、1914年ドイツ軍に入隊した。

*1914年 第一次世界大戦開戦。
*1915年 アインシュタインが相対性理論を発明。

☆1918年 

  • 1918年10月 前線で毒ガス攻撃を受け失明状態に。

  • 11月 ドイツ革命勃発、君主制崩壊。

☆1919年 30歳 ドイツ労働者党入党

  • 1919年1月5日 A・ドレクスラーがドイツ労働者党創設。

  • 1919年6月28日 ヴェルサイユ条約締結。

  • 1919年9月12日に、当時配属されていた部隊の直属の上司である国防軍第4軍団司令官カール=マイル大尉に「ドイツ労働者党(DAP)」の演説に耳を傾け、報告書を書くスパイを命じられた。
    そこでの演説に反論し、党首に見定められて、除隊の後、1919年9月16日入党した。

  • 初めて政治家として公の場に姿を表した。

  • 1918年の革命である「十一月の犯罪者たち」(ドイツ革命を先導したワイマール指導者層)を蛇蝎のごとく嫌い、政治家になろうとした大きなきっかけになった。政権をとったあかつきには彼らの首を転がすと宣言していた。

  • 初めて掲げた具体的な政治目標は「2度革命を繰り返さない事」であり、唯一成し遂げた目標だった。

*この目標に込められている8つの想い

①十一月革命のような状況になっても革命を繰り返さない。
②同じような状況を作り出さない。
③その為には、敗れた戦争、敗れて諦めた戦争を改めて引き起こさなければならない。
④その戦争は、平常な国家体制のなかで引き起こす事が必要。
⑤その戦争を速やかに遂行する為には全ての左翼政党を廃止し、
全ての政党もひっくるめて一網打尽にする。
⑥その為に、政党を支持してきた労働者階級までなくす為に、ナショナリズムを吹聴し、生活の保証を約束する社会主義を提供する必要がある。
⑦その為には、これまで労働者を虜にしてきたマルクス主義を根絶しなければならない。
⑧☆マルクス主義者の中にはユダヤ人が多く、戦争に負けたのはユダヤ人の陰謀(「匕首(あいくち)説」。匕首とは短剣の事。)なので、一人残らず根絶する。

*ちなみに

当時、ドイツ労働者党は党員40人程、党の財産は7マルクと50ペニヒのみ。日本円で約1万5000円。
党首はA(アントン)ドレクスラー、党顧問の経済学者はG(ゴットフリート)フェーダーだった。
ヒトラーのちょび髭は、フェーダーの髭を真似たもの。
ヒトラーの党員番号は「No.555」。最初の5はフェイクで55番目の党員だった。すぐに7番目の幹部になった。

☆1920年 国家社会主義ドイツ労働者党に改名

  • 新聞広告を打ったり、ビラを撒いたりして、1920年2月24日、ミュンヘンの居酒屋にある「シュテルネッカーブロイ」(現在はパソコンショップ)の奥のうす暗い小部屋で、初めての企画である100人の大集会において演説をし、成功をおさめた。
    次の集会では2000人を集め、だんだんと「太鼓たたき」「ミュンヘンの帝王」「煽動者(デマゴーグ)」という異名をとうようになった。

  • 1920年代のヒトラー信者は5%程。

  • 多額の寄付金が集まり、聴衆の中から、後のナチスの中心人物になるE.J.G(エルンスト・ユリウス・ギュンター).レーム大尉やR.W.R(ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト).ヘス少尉が入党してきた。

  • 結束の固いことで知られる社会民主党を差し置いて、どの政党よりも組織力に優れていた。

  • 当時のドイツでは、戦争に敗れた事への悔しさ、屈辱的な平和条約である「ヴェルサイユ条約」へのやり場の憤りから救世主を求める雰囲気があった。

  • 「25か条網領」を制定する。

  • 1920年2月24日 党名を「国家社会主義ドイツ労働者党
    (National sozialistische Deutsc)(NSDAP(エンエスデーアーペー)」に改名した。

  • 党本部を設置し、「ハイルヒトラー」の掛け声と、ナチス式敬礼を導入。党旗や党服も作成。


☆党員自身がナチスと自称するのは間違い!


「ナチ(ス)」は「国家(National)」の頭文字である「Nati」から来ている。
しかし、ここで切ると発音が変化してしまうので、綴る時は「Nazi」とし、複数形は「Nazis」にしている。
映画等で、党員自身が「我々ナチスは…」と発言しているシーンがあるが、あくまで「蔑称(軽蔑した呼び方)」なのであり得ない。

  • 党の規模が大きくなり、ナチスの集会を妨害する者からの防衛や反対勢力への対抗のためにレームを隊長に据えた「整理隊」を組織する。後に「突撃隊(SA)」に成長。
    1920年代当時、他のいかなる政治的軍事団体よりも優れていた。どの団体よりも好戦的で、むこうみずであり、残虐さ、殺意の点で他を圧倒していた。
    意図的に恐怖を煽りながら、出来るだけ抵抗が起こらないように仕組んだ。

☆1921年 ナチス党首に着任

  • 党首のドレスラーは、ヒトラーの入隊でナチスの勢力は拡大していったのが面白くなく、社会主義政党と統合してヒトラーの権力を弱めようとしたが、見透かされ、ヒトラーは脱党し、新党を結成すると言い張った。
    ヒトラーが脱党すれば、NSDAPは崩壊する為、やむなく1921年党首と全権を譲った。

*ちなみに
ドレスラーは後に離党し、新党を設立しているが、1933年に首相になったヒトラーが党創設者として「血盟勲章」を送ると感激し、熱烈なヒトラー支持者になる。

  • 1921年1月ナチス党員は3,000名。

  • ヒトラーが党首に就いた1921年、「ロンドン会議」でドイツへ賠償金として天文学的な数字である1320億金(ゴルト)マルクの支払いを命じた。

*ちなみに
1350億金マルクとは…

「1金マルク=純金358g」なので、「1320億×358g=5000t」の
純金と同価を支払えという意味。

○人類が採掘した金の総量が17万tといわれているので、5000tの純金とは、
今まで採掘した領の34分の1を支払えという意味。
○当時の平均賠償金額は50億金マルクほど。
ドイツの国家予算18年分の賠償額
○ドイツの国家予算は約70〜80億マルクだったが、「毎年60億金マルク」払えと命令された。

  • 「パリ会議」では、ロンドン会議の要請受託の是非について話し合われた。
    フランスが、現金徴収が不可能ならば、ドイツの命綱であったルール地方を占領、征服すると脅した。

*ちなみに
ルール地方は、ドイツの石炭採掘量の75%、鉄鋼生産量の83%を占めており、ヴェルサイユ条約で唯一奪われていなかった地下資源豊かな土地であった。

フランスにはすでに、
・アルザス・ロレーヌ
・ザール
・ズデーテン
を奪われていた。

  • パリ会議の1週間後、フランスとベルギーが「ルール出兵」をする。
    ルール労働者達は一斉にストライキ・サボタージュをして対抗。フランス政府はこれに対して給料を払わないという強行手段をとった。
    ドイツ政府も加担して、ルール労働者の給料を支払う為に、何の保証もなく、造幣した為に、1年で物価が16億倍に跳ね上がる凄まじいインフレーションに陥った。

*ちなみに
パン1斤250紙(パピエル)マルクが、400,000,000,000紙マルクに跳ね上がった。
2〜3ヶ月後に収束しなければ、家1軒売ってもマッチ1箱の価値にしかならないほどの狂乱ぶりだった。


☆1922年

  • 1922年2月、ナチ党員6000名

*1922年 ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見。


☆1923年 ミュンヘン一揆、逮捕、知名度上がる

  • 1923年3月、ルール出兵の1年間でナチ党員が激増し、15,000名になる。

  • 1923年11月、ナチ党員が56,000名になる。

  • 1923年11月8日午後8時30分、ミュンヘン一揆(プッチ)開始
    州総督のG・R(グフタス リッター)・カール、州警察長官のH(ハンス)・ザイザー、州駐在陸軍司令官のO・H(オットー ヘルマン)・ロッソウにムッソリーニのローマ進軍を真似た「ベルリン進軍」を直ちに実行するよう要求。

  • ミュンヘン一揆に失敗し、国家反逆罪として逮捕された。
    裁判は全ドイツに注目されているのを好機と受け取り、演説をする。
    開口一番、「Ich bin schuldig.(私は有罪です。)」と発言し、聴衆は耳を傾けることに成功。
    「政府は祖国を裏切り、ヴェルサイユ条約などという卑劣極まりない条約に調印した。私が有罪だというならば、ドイツ国民に栄誉と誇りを取り戻そうとした罪である。」
    翌日には傍聴記録の全文がドイツの新聞各紙に一面で掲載され、世論を味方につけ、全国的にはまだ知名度の低かったヒトラーを有名人にした。
    首謀者は普通、死刑や終身刑のところ、「禁錮5年、罰金200金(ゴルト)マルク、ただし刑執行の9ヶ月後に仮釈放の資格を与える」という判決を下される。これは実質的な無罪に近いものであった。

  • ランツベルク要塞刑務所では、2つの応接間を用意した部屋と、隣の部屋には秘書としてR(ルドルフ)・ヘスが控え、新聞や雑誌が毎日差し入れられた。
    接見自由、差し入れ自由なため、若い女性がファンレターを持ってきたり、菓子や果物を差し入れられた為、出所時には身長170〜175㎝で85kgの小太りになっていた。
    この9ヶ月間を利用して、今に至るまでの半生を語り、ヘスに書き留めさせて『我が闘争(マインカンプ)』を綴った。
    1920年代初めにドイツで出回っていた世界規模で反ユダヤ主義を広めた悪名高い著『シオンの賢者の秘密』に影響を受け、「わが闘争」の中で言及している。この書はユダヤの世界支配を企む陰謀説が存在する決定的証拠とされた。

☆1924年 35歳

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