今日のおすすめは!
下記の4冊からヒトラーの人物像について紐解いて行きます。
ネットの情報は一切取り入れず、参考文献からの引用のみになっていますので詳細が知りたい方は是非お手に取りご覧になって下さい。
なお、「白バラは散らず」は絶版になっており入手困難な為、何かご質問があれば私の手元にある原本を参照して可能な範囲でお答えできればと思います。
①『ヒトラーとは何か』
セバスチャン・ハフナー著
②『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』
芝健介著
③『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』
神野正史著
④『世界ノンフィクション全集28』に収録『白バラは散らず』(絶版)
著者インゲ・ショル
*政治的側面の概要
7段階の政治人生
政治的世界観
生存圏獲得のための戦争
ヒトラーは左翼的ポピュリスト
ヒトラーの世界征服の定義
*政治的側面の詳細とヒトラーの人生
ヒトラーが誕生する直前の出来事
☆1889年4月20日 ブラウナウで誕生。
☆1900年 小学校を終え、リンツの実科学校に入学。
☆1907年 画家を志しウィーンへ。美術学校の受験に失敗。
☆1913年
新聞を熱心に読む人くらいの知識しかなく、経済学や経済政策は素人だった。
1913年 オーストリアは崩壊するに違いなく、その崩壊の中で、大ドイツ帝国が生まれ、オーストリアのドイツ人を再び抱き込み、ドイツ民族の圧倒的重量でその他の小国家群を支配すると考えた。
ヒトラーはオーストリア人であるが、ドイツ人であると言い聞かせており、当時オーストリアに住むドイツ人が不満感を抱いていた、ドイツ帝国創設の際に不当に排除され見捨てられた負け組のドイツ人であるとの思いが強かった。
☆1914年 第一次世界大戦開戦 ドイツ軍に入隊
☆1918年
☆1919年 30歳 ドイツ労働者党入党
1919年1月5日 A・ドレクスラーがドイツ労働者党創設。
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約締結。
1919年9月12日に、当時配属されていた部隊の直属の上司である国防軍第4軍団司令官カール=マイル大尉に「ドイツ労働者党(DAP)」の演説に耳を傾け、報告書を書くスパイを命じられた。
そこでの演説に反論し、党首に見定められて、除隊の後、1919年9月16日入党した。
初めて政治家として公の場に姿を表した。
1918年の革命である「十一月の犯罪者たち」(ドイツ革命を先導したワイマール指導者層)を蛇蝎のごとく嫌い、政治家になろうとした大きなきっかけになった。政権をとったあかつきには彼らの首を転がすと宣言していた。
初めて掲げた具体的な政治目標は「2度革命を繰り返さない事」であり、唯一成し遂げた目標だった。
☆1920年 国家社会主義ドイツ労働者党に改名
新聞広告を打ったり、ビラを撒いたりして、1920年2月24日、ミュンヘンの居酒屋にある「シュテルネッカーブロイ」(現在はパソコンショップ)の奥のうす暗い小部屋で、初めての企画である100人の大集会において演説をし、成功をおさめた。
次の集会では2000人を集め、だんだんと「太鼓たたき」「ミュンヘンの帝王」「煽動者(デマゴーグ)」という異名をとうようになった。
1920年代のヒトラー信者は5%程。
多額の寄付金が集まり、聴衆の中から、後のナチスの中心人物になるE.J.G(エルンスト・ユリウス・ギュンター).レーム大尉やR.W.R(ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト).ヘス少尉が入党してきた。
結束の固いことで知られる社会民主党を差し置いて、どの政党よりも組織力に優れていた。
当時のドイツでは、戦争に敗れた事への悔しさ、屈辱的な平和条約である「ヴェルサイユ条約」へのやり場の憤りから救世主を求める雰囲気があった。
「25か条網領」を制定する。
1920年2月24日 党名を「国家社会主義ドイツ労働者党
(National sozialistische Deutsc)(NSDAP(エンエスデーアーペー)」に改名した。
党本部を設置し、「ハイルヒトラー」の掛け声と、ナチス式敬礼を導入。党旗や党服も作成。
☆党員自身がナチスと自称するのは間違い!
☆1921年 ナチス党首に着任
☆1922年
☆1923年 ミュンヘン一揆、逮捕、知名度上がる
1923年3月、ルール出兵の1年間でナチ党員が激増し、15,000名になる。
1923年11月、ナチ党員が56,000名になる。
1923年11月8日午後8時30分、ミュンヘン一揆(プッチ)開始。
州総督のG・R(グフタス リッター)・カール、州警察長官のH(ハンス)・ザイザー、州駐在陸軍司令官のO・H(オットー ヘルマン)・ロッソウにムッソリーニのローマ進軍を真似た「ベルリン進軍」を直ちに実行するよう要求。
ミュンヘン一揆に失敗し、国家反逆罪として逮捕された。
裁判は全ドイツに注目されているのを好機と受け取り、演説をする。
開口一番、「Ich bin schuldig.(私は有罪です。)」と発言し、聴衆は耳を傾けることに成功。
「政府は祖国を裏切り、ヴェルサイユ条約などという卑劣極まりない条約に調印した。私が有罪だというならば、ドイツ国民に栄誉と誇りを取り戻そうとした罪である。」
翌日には傍聴記録の全文がドイツの新聞各紙に一面で掲載され、世論を味方につけ、全国的にはまだ知名度の低かったヒトラーを有名人にした。
首謀者は普通、死刑や終身刑のところ、「禁錮5年、罰金200金(ゴルト)マルク、ただし刑執行の9ヶ月後に仮釈放の資格を与える」という判決を下される。これは実質的な無罪に近いものであった。
ランツベルク要塞刑務所では、2つの応接間を用意した部屋と、隣の部屋には秘書としてR(ルドルフ)・ヘスが控え、新聞や雑誌が毎日差し入れられた。
接見自由、差し入れ自由なため、若い女性がファンレターを持ってきたり、菓子や果物を差し入れられた為、出所時には身長170〜175㎝で85kgの小太りになっていた。
この9ヶ月間を利用して、今に至るまでの半生を語り、ヘスに書き留めさせて『我が闘争(マインカンプ)』を綴った。
1920年代初めにドイツで出回っていた世界規模で反ユダヤ主義を広めた悪名高い著『シオンの賢者の秘密』に影響を受け、「わが闘争」の中で言及している。この書はユダヤの世界支配を企む陰謀説が存在する決定的証拠とされた。
☆1924年 35歳