理解されないその度に

昔から親戚どうしの付き合いは苦手だった。
お正月やお盆、家の居間で、近況トークのような他愛のない話、団欒が繰り広げられる度、「あぁ私はこのお芝居のキャストにはとても不釣り合いなのだな」と、そんなことを思った。
その団欒の場で、その場の空気にのって、うまく『私』という役を演じられる気がどうしてもしなかったのだ。そこにはみんなが望んでいる『私』の像があり、それは、私を幼い頃から知っているから、あるいは誰々の娘だから、誰々の孫だから、そういった関係上で知らずしらずのうちに求められているものの気配に、私は耐えられなかった。

もちろんそれは私の被害妄想かもしれない。
本当はみんなそんなこと、露ほども思っていなくて、ただ純粋に私を可愛く思ってくれていたのかもしれない、知らない。

でも私にはそこはどうしてもそういう『演出』の必要な場であり、とにかく楽しく過ごせるような気分にはまったくならず愛想笑いだけを振りまいていた。


母とは仲がいい。
友達のような母娘、というわけではないけれど、一般的に見た親子関係の中ではごくごく普通で、普通に仲の良い方だと思う。

たまに母に好きな小説を薦めたり、好きな音楽を聴かせたりすることがある。
そんなとき大体、母は私がなぜそれをそんなにも好きなのか、あまり理解してくれないことが多い。
私が好きなものは、母はあんまり好きではない。

だからといってそれを不快に思うとか傷つくとか、そういうのはまったくないのだけれど、さっと刷毛で払われたかのような新鮮な、ごくごく軽い気持ちで、私は目が覚めることがある。
当たり前だけど母と私は他人であると、そういうふうに思う。

血が繋がっているとなぜこんなにも、その人の像が強く濃く形取られているのだろう。
ずっと一緒にいるからか。あるいは生まれたときから知っている、そういう傲りがあるからか。同じ血縁というだけで自分のものだと勘違いするのか。
そしてそういったものは私が、私を私だと認識するよりも前の、まるで無意識の時代から、蔦のように私に絡みついてきたものに思えてならない。

だから私は、母に、私の好きなものを理解されないとき、少し残念ではあるものの心のどこかで安心している。
理解されないその度に、私を私だと言える気がするのだ。
どんなに近くにいたって、普通の人間性だったとしたって、当たり前のように好きなものは違う。
母のことは好きだけれど、全部を理解されることは怖い。
他の人とならどうなんだろうか。私は友達や恋人と、あまり深い関係になったことがないからわからないけれど、友達や恋人には何もかもを理解してほしいと思うんだろうか。
でも、理解されることって本当はとても怖くないだろうか。

私は怖い。
だから、きっと、自分を出すことが人より下手なままだし、ありのままの自分でいることを今日も怖く思っている。
それでも素の自分を見せられないことに孤独を感じることも多くて、本当のとこは理解されたいのかもしれない、じゃあこの恐怖心は何なのか、自分でも良くわかっていない。
だけど自分に『理解されない』部分があるとしたら、それこそ正真正銘の私であると、胸を張って思えるのではないかと、そんなふうに希望的に思う日もある。
こんなふうにこんがらがった感情の中にこそ、きっと私が宿っているのだと思う。

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