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今を生きる


『今を生きる』とはどういうことか、昔のわたしにはよくわからなかった。わたしの好きな歌手の曲なんかにはよく『今を生きる』ということがテーマとして歌われていて、その曲にはすごく感銘を受けるのだけれど、でも、『今を生きる』とは一体何なのかわからず苦い気持ちになったこともある。

わたしは今仕事を辞め、まったく無職の状態で生活し、職探しをしている状況です。当分の生活費は貯金でまかなうつもりで、実家暮らしなのでそこまでお金もかからず、『自由』というのはこういうことをいうのかなぁ、などと思ったりもしています。

でも、自由というのは不安と隣合わせなのです。
何をしてもいい。でも、したことはすべて自己責任だし、何もしなくってもいい。だけどしなかったこともすべて自己責任だと思う。
だから、けっこう怖い。自由なはずなのに八方塞がりだなぁ、と感じることが時折あります。

そんなときに考えてしまうのは、いかに自分がちっぽけな存在か、ということで。好きな人に、好きと言えなかった。親切にしてくれた人に、ありがとうと言えなかった。自分のふがいなさを、ごめんと謝ることができなかった。
触れたいとしさや優しさがとても大切なものだったと気付けば気付くほど、でもそれはわたしの弱さゆえか、すでに過去のもので、今ここにはない。どんなに愛されていても愛していても空っぽな気持ちになってしまう。

そう気付いて、同時に思い出した。『今を生きる』という言葉。

わたしのこの後悔、というか埋められない気持ちを、前に進めていくには兎にも角にも今を生きていくことしかないのだろうと思った。

『今を生きる』という言葉にこれまでわたしは、突き抜けたポジティブさを、あるいは後のない切迫感を、無意識に感じていた。
でも、今を生きることは、特別にポジティブなことでも切羽詰まったことでもなくてよいと考えるようになった。

それは、空っぽな気持ちを埋めようとすることではなくて、きっと、空っぽな気持ちを抱いている今という時間をしっかり踏みしめて歩いていくことだと思う。

わたしが後になってから気付いた、大事なものは、でも紛れもなく過去にあった。気付くのが遅かっただけだった。でもそれも、本当は気付くのが遅いと、わたしがただ、思っているだけで、本当は遅くなんかないのかもしれない。「気付くのが遅い」そう思った今を、わたしが踏みしめて歩いていけば、決して遅くはならないのかもしれない。

物事の大きな意味や大きな喜びを追いかけようとすることに少し疲れて、身の丈の今、身の丈の楽しみを味わえたらそれで十分だと思えるようになった今、やっと『今を生きる』という言葉がすんなりとわたしの胸に落ちてくるようになりました。

「明日生きられるかどうかもわからないんだから全力で今を生きろよ!」

そう言われればたしかにその通りです。

でもそう言われたって、全力で今を生きるような気分になれないときだって人生にはあるし、むしろわたしにはそちらの方が多い。
ならば“全力で今を生きるような気分にはとてもなれない『今』”を生きていく方が、とても建設的だなと、今のわたしは思ったりするのです。

全力で生きることだけが今を生きることではないと、22年間生きてきて思った、この“点”に到達した感はすごく、わたしの生きてきた実感と言っても過言ではないと思う。
この先の人生も、もしかしたら空っぽな気持ちになることを何度も何度も味わう人生かもしれないけれど、それでも空っぽになるということは、そこに何かがあったということだから。
そんな自分ごと抱きしめて、歩いていこうと思う。焦らずに。

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