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金・コネ・語学なしの私が、フランスで社長になるまで【海外移住までの前編】

こんにちは。

フランス・パリ生活4年目のSAKIです。

今日は、わたしが日本で住んでいた頃から、海外に渡ってフランスでライター・バイヤーになり、果ては1ミリも想定していなかった「社長」というものになるまでの話をしたいと思います。

ワーホリビザで渡仏したはいいが、渡仏1日目でずっと住む予定だった家を失う。

このままフランス生活を終わらせたくない!という負けず嫌いな性格から、日本に帰国はせず、もともとのライターの仕事に加えて、ファションオンラインショップを開設。理由は、フランスのものを日本に輸出したらお金になりそうだから。完全に生活のためでした。

でもバイヤーの仕事を始めて、いつの間にか、自分で道をきりひらけることに夢中になって、1年目で1人で年商4,000万円に引き上げました。

それからフリーランスという身分から、株式会社を立ち上げ、フランスに来てから2年経つ頃、社長になりました。

そんな私の自己紹介的なヒストリーを、徒然なるままにゆっくり振り返って綴ってみたいと思います。

コーヒーを片手に、ごゆっくりお読みいただけたらと思います。


誕生秘話・生まれた時から振り返ってみる

5月、初夏のある日、南大阪の下町に誕生。

長女として生まれました。

生まれた時、父はローマに出張中。

そんな中、母は初めての出産を頑張ってくれたそうです。

父は、国際電話で無事に私が生まれたことを聞き、母にこんな手紙を送っています。

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今ならすぐに写真をLINEで送って、1秒で届いて赤ちゃんの顔を鮮明に見ることがますが、たった30年前にこんな感じだったなんて、時代は矢のごとく変わる…ですね。

でも顔を見れないからこそ、父が想像して、書いて、送って。こんな素敵なメッセージが生まれたとも思います。

なんだか縁のあるローマにいつか家族で行きたくて、パリからは近場なんですが、まだ行かずにとっておいています。

生まれた瞬間はそんな感じで、その後すくすくと育ちました。

大人になったいま、私は発想のままにどこまでも行動していく人なんですが、それは、両親に「やめなさい」「こうしなさい」「こうでなければ」とか「それはダメなんじゃないの」と言われたことがほぼないからだと思います。

親には「言っても聞かないから諦めている」と言われますが「信用して、任せる」っていう、愛が大きいからこその、育て方をしてくれているんじゃないかって思います。

親は心配性なので、不安だったこともあると思います。

でも、私が金髪に染めた日も、アフロにした日も。(笑)

そのせいで、両親がいまは亡きおじいちゃんにめちゃくちゃ怒られたときも。

親は、おじいちゃんに怒られたことは私に言わずに

「不良になってないです、あの子は考えはしっかりしているので、大丈夫です。」と言ってかばってくれたそうです。

急に海外に飛び出したときもそう。心配そうでしたが、止められることはありませんでした。

なんでも私のやりたいことを、止めずにやらせてくれて、とても素敵な環境でした。

過保護にしないかわりに、責任を持つなら、好きなことをとことんやらせてくれました。


笑いすぎて椅子から転げ落ちていた学生時代


箸が転げてもおかしい年頃、ご飯の時や部活の休憩時間には、毎日友達と死ぬほど笑っていた記憶があります。

笑いに厳しい大阪の土地で「面白いこと」をいつも追求していて、笑いすぎてよく椅子から落ちてました・・・。今でも、鮮明に思い出すことができます。

そして、勉強が好きでした。

「新しいことを知れる」「わかるってことが楽しい」って思いました。

「牧場みたいに伸び伸びとしていて、とてもいい高校」と評判の、憧れの学校に入りました。

枠にはまる必要がない、自分を表現できる古着ファッションに命をかけ、文化祭や体育祭を全力でやったり、毎日教室でも校庭でも公園でも笑いまくって。

毎日寝るときには、明日が楽しみすぎてドキドキして寝れないほど(大丈夫?笑)の高校生活。

マクドナルドで劣等感を感じる女子高生


ただ、高校一年から私の生活は変わりました。

これからは、自立して生活していく、ということを学ぶために、お小遣いはなしで、お金が必要なら自分で稼ぐこと。自分に責任がある代わり、自分の好きなようにしていい、と言われました。

楽しかった部活を一時的にやめて、週5日ほど、バイトを始めました。

でも本当は部活をやりたかったので、バイトは全然楽しくなくて。。

焼肉屋で働いたのですが、お肉が全部同じに見えて全然種類覚えられなかったし。(笑)

肉は同じだし、鉄板は熱いし、何で私だけ、楽しい高校を早く出て、熱い肉屋で働かないといけないんだろう?(焼肉屋に罪はない。ごめん。笑)

みんなとマクドに行っても、みんなはお小遣いでセットを頼む中、私はバイト代の余りで、単品しか頼めなくて。ジュースじゃなくて水で。。って。

それに劣等感を感じていました。その頃マクドの前を通るといつも、胃がみぞおちあたりに落ちてくるような、グッと重くなるような感覚がしました。

恥ずかしいし、みんなが羨ましかった。羨ましいを通り越して、お門違いにも恨んだりしていた。。

お小遣いももらって、部活もできる状況って、いいな。。とかね。心の中でね。思ってた。(笑)

今思うと「知らんがな!」って感じですよね・・。ただの嫉妬。恥ずかしい・・・。

今思うと、この頃の経験が、私を経済的に自立させてくれるきっかけになったので、両親にはとっても感謝しています。


人より頑張らないといけない?


当時は心の整理が大変でした。

今読むと大したことありませんが、自分だけが、人より頑張らないと同じところにいけないってことを受け入れられなかったので否定したかったし、なんとか自分の頑張りを意味のあるものと、肯定したかったし、自分目線での人との平等を保ちたかったんでしょうね。。

購買でパンを変えない、学校帰りに友達と寄り道して買い食いができない、そんな、些細なことだけれど。

「人より頑張らないといけない」

「人に頼ってはいけない」

「自分で稼がなければいけない」


今思ったら、些細なことかもしれないんですが、当時の私にとっては大きな大きなことでした。センシティブ思春期・・・。


本命一発の大学受験

それで、大学受験もお金がかかるし、行くのは手に職をつける専門学校ではないし、滑り止めも受けずになんとか一発で受からなければと、張り詰めていました。

受験も、一つ受けるのに3万円とか受験料がかかるので、滑り止めを受けずに、本命の大学だけを受けました。

私には夢がありました。マスメディアの業界ではたらきたかった。だから大学に行く必要があったんです。本当に本当に、大学に行きたかった。本当は東京の大学に行きたかった。

「とりあえず大学に行く。」って感じの人が周りに多くて。それなのに、みんな親にお金出してもらって、塾も全教科通えて、滑り止めも受けられて、遠くの大学も受けることができて、いいなあ、ずるいなぁって、思っていました。今なら、正論に見せかけたただの嫉妬ってわかるんですけどね。うら若き女子高生でしたから。。


けれど、一人暮らしをしなければ行けない遠さのところは候補からは外しました。実家から通えるところで、偏差値のマックスなところ。行きたかったぜ東京・・。

幸いにも勉強は好きで、目標ができたら爆走できるタイプの私には、受験という制度が合っていたので夢中で、集中できた。

その結果、受けた2つの大学どちらもで特待生になれたので、無利子の奨学金で学費を払うことができました。

社会人になってから、少しずつ返しています。

出る杭は打たれた会社員時代

高校生の時から、ずーっと働くことに憧れていました。楽しそうだし、人に頼らなくても生きていける!

就活が終わり、やっと働ける!

入社が楽しみすぎて、入社式の挨拶で「この仕事に関われてハッピーです。」と言ったら、失笑を買い、以後「ハッピーちゃん」というあだ名がつけられました。。(笑)

楽しみすぎて、浮いてました・・・。

その後、会議でふらっと発言した一言によって、社長に気に入られ、1年目としては異例の社長案件の大役を任されました。

ただ、右も左もわからない1年目。

しかもその時の社長の方針が「君の独創性を生かせ。先輩たちの言うことなんて聞かなくていいんです。」って言われて、新人がやるべき掃除や倉庫整理などを全て免除されました。

加えて私は、会社員として足並み揃えて、規定のペースで仕事ができるタイプではなかったので、仕事できないわけのわからない新人が贔屓されている、ということで、かなりお局様に嫌われました。

人生で初めて「面と向かって話しかけても無視される」って経験を何度も何度もして、めっちゃショックでした。

決定権のある先輩に話してもらえないので、仕事の返事を決められなくて、クライアントに白い目で見られたりしました。

繊細な私はそれで辛くなり、身動きが取れなくなりました。

出る杭は打たれる感じがしました。

だから、出る杭にならず、地味にひっこもう、と思って、ひたすら社長に嫌われるようにしました。積極的に発言しない、結果を出さないなど・・・。すると1年ほどで、見事に嫌われひっこむことができました。

そこからはなるべく目立たないように、相手がやりやすいようにをポリシーに掲げ、仕事をしていました。

そのうちに、当たり前ですが目標なんてなくなり、どうしてこの仕事をやっているかわからなくなってきたのです。

また、小さい頃から社会になんの疑いもなく、先生や世間が言うことは絶対正解だと思っていた私が、初めて「こんな、自分の意見を言ったら叩かれる社会って正解なのかな?均一化が絶対の世界って、良いのかな?」って想いを持った時かもしれません。

毎日深夜まで働く営業職。自分の意見を、人生を、考える時間なんてなくて。それも苦しかった。どこに向かっているかわからなくなってきた。働き詰めで、プライベートの時間もほぼなく、自分がなくなっていくような感覚でした。

「辞めたい。」

こんな気持ちが、ひたひたと、心の中を占拠していきました。

情熱を失ったことに加えて、知らない人に社交辞令ができない。

リスペクトがない接し方をされて嫌なのに笑うとか、興味がないのに話しかけるとかが全くできず、すなわち接待とかが本当に苦手。

会社員として、バランスは取れていませんでした。

今はその繊細な特性を生かして、感受性が豊かなために人の痛みがわかる記事をかけたり、誰かを救える特性である、とポジティブに捉えていますが、当時はそんな風に、すぐに感じ取る自分を、うまく隠して振る舞えない自分を、ずっと責め続けていました。

会社を辞める理由を考えろ

3年目くらいで、その当時の上司に勇気を出して「辞めたい」って言いました。とてもいい上司に恵まれていました。

彼が言ったのは「もし本当に辞めたかったら、止めはしないけれど、逃げたい気持ちでもし辞めたら、次でも絶対成功しないと思うけど。」

その言葉が、とても刺さって。

「確かに、何か次の希望があって辞めたいのではなく、逃げたいだけだな~。」って思うことができました。

それから、「自分はどうしたいのかなー」って思いながら、働き続けて、続けて、考えて。ついに自分がやりたいことを見つけられたので、4年半の会社員生活に終止符を打ちました。

ただ一つ、言っておきたいのは、会社の上司や先輩や同僚は今でも大好き。クライアントも大好きな人は多いです。

自分が会社員という枠にハマるのが苦手だっただけです。今でも帰国したら飲みに行く人は、仕事関係の人が多いですね。

送別会を盛大にやって頂きました。今でも頑張り時などには、この時の写真や動画を見て元気をもらっています。

私が生まれた時から会社員になった時までを文字でまとめようと思うと、長くなっちゃいましたね。

続きは、【後編】でまたお会いできたら嬉しいです。

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