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最後と思わないまま経験する最後

9 ヶ月の次女が、先日、卒乳した。

長女も 8 ヶ月で卒乳(断乳)したので、次女も 9 ヶ月のうちには、というのがわが家の方針だった。けれど、先日、ふと授乳なしに寝た日を機に、
『そうだ、今日でもう卒乳にしてしまおう!』
と思い立ち、実行する事にしたのだ。

だから、最後に授乳をしたのは、実はその前の日の晩だったので、『それが最後』、と思わないまま、人生最後の授乳を終えていた。

授乳というものをあまり知らない人にとっては、ちょっと理解し難いかもしれないのだけれど、生まれた直後から赤ちゃんとずっと一緒にやってきた、とても愛情深いことなので、それを終えるというのは、とても寂しいことなのだ。

それを、最後と思わないまま、いつもどおりに経験し、終えてしまった。

以前、ベビーベッドを最後に使った日、その気持ちを書いたことがある。


でも、そんなふうに、最後を『最後だ』と意識することって、ほとんどないまま、多くのことは、最後を迎えている。

たとえば、旅行だって、生きている間にそこを訪れることは、この先、もう一生なくて、これが最後の、その土地を訪れている時かもしれない。


上の子は、まだベビーカーには乗るけれど、抱っこひもには、いつの間にか、入らなくなっていた。最後に抱っこ紐で抱っこしたのは、いつのことか。
もう思い出せないほど、最後と思わないまま経験した最後の抱っこ紐だった。

『そうやって大きくなっていっているんだな』と後から思う。


私は夫と今の家に来るまえ、長年、単身赴任をしていた。
だから、今の家は、夫と合わせて 8 軒目の家で、これまでいろんな地域に住んできた。
いろんな家に引っ越すとき、それまで、短いながらも、その地域に馴染んで、日常を楽しんで、あたりまえのごとく、その地域で暮らしてきた。

でも、いざ引越し、となると、引越し作業で慌ただしく、この日常が最後、と思わないまま、そこでの最後の日を終え、引っ越していた。

だから、以前住んでいたあの土地を、ふっと思い出すとき、いまも、変わらない日常が、その土地で繰り広げられている光景を想像し、不思議な気持ちになることがある。

最後、を意識しなかったから、まだつながっている日常が、そこにある。

最後、って思わないほうが、寂しくなくて、いいな、と思うときもある。
でも逆に、卒業式のように、思い切り最後を祝うときもある。

この 3 月で私の父は 65 歳になって退職する。
前にいったん 60 歳で退職した時には、次の仕事場への異動などでバタバタしていて、ほとんど退職の実感がなかったようだ。
最後と思わないまま、長年勤務していた職場での最後の勤務を終えて、新しいところへ異動していたそうだ。

でも、今回の 65 歳の退職は、本当に仕事を終える最後の退職だ。だから、先日、父を呼んで、ささやかな退職祝いをした。
すると、あぁ、本当に最後なんだな、と、実感が湧いてきたらしい。
最後を、感じたようだ。

私はもうすぐ育休が明けて職場復帰するのだが、それまで、「あぁこんな休みはもう終わり。これから一生、フルスイングで働き続けるんだな」と思っていた。
でも、父を見て、「一生じゃなくて、働くのにも、最後があるんだ」と知った。

そんな大きなことでなくても、日々、私たちはさまざまな最後を経験している。

この春、咲く桜は、2 歳と 0 歳、という年齢の娘たちと一緒に見る、最初で最後の桜だ。ちょこまか動く 2 歳と、まだ抱っこの 0 歳と見る桜。

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来年見る桜は、 3 歳と 1 歳の子たちと見る桜になっている。また全然ちがう桜になっているだろう。少しは落ち着いて歩けるようになっているかも? しれない 3 歳と、よちよち歩いているかも? しれない 1 歳と。一緒に見上げる桜。なんだか想像もできないな。

今日、この子たちと歩くいつもの道は、1 年後には、また全然ちがう道に感じられているはずだ。

今日という日は、明日にはない、今日で正真正銘、最後の日。
いつも、同じようで、いつも、最後の日。
だから毎日は、最後と思わないまま経験する最後でうめつくされている。

そんな当たり前の毎日で、最後をちょっとだけ想う。
すると、小さなことを、ちょっと大切にできるような気がした。

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