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書けない輝き (in 心のたからばこ)

次女が 1 歳になった。
家族写真を撮りながら、涙が出た。

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いつも、いろんな心を note に書かせてもらっているように、なにか、1 歳になったときの気持ちも、残しておきたい…と思っていた。

でも、どうにも、書けなかった。

この気持ちを、言葉にしようとして、その感覚に触れようとすると、どこか、この感覚がこわれてしまいそうで。

1 年前、次女をまさに出産しようと、病室でがんばっていたとき、
昨今の状況下なので、立ち会いができなかった、夫と長女 (当時 1 歳) は、病院からほど近くの寺社で、鯉を眺めていた。5 月だけど、暑い日だった。

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夫には夫の、長女には長女の、私には私の、あの日がある。
それぞれの目線で感じた、あの一日。

私は、私にしかないその日の感覚を、忘れまいと、次女が生まれてすぐのときに、覚え書きをしておいた。

それを、この 1 歳のお誕生日に、読み返していた。

ただ思い出すだけのために書いた、あの日の感覚。
それを読み返したところで、なにかが新たに生み出されるわけでも、なにかが得られるわけでも、考えとかが導かれるわけでもない。

ただ、大切に、大切に。
自分の心の奥底に、ふだんはしまっているあの日の感覚を、
次女の 1 歳の記念の日に、とりだして、撫でるように、味わって、
また、心の奥底に、しまう。


その感覚は、自分がむやみに触ってしまって、こわしてしまいたくない、あの日のままの、とても繊細で、大切に保っている感覚のように思う。

ずっと、あの日のまま、とっておきたい感覚。

だから、もしいま、言葉にしようとすると、どうしても「今の自分」がその感覚に立ち入ってしまって、その感覚が上書きされて、変えられてしまうような気がする。


あの日、自分自身の目線で見たこと、感じたもの。
他の人には伝えることのできない、自分だけの感覚。
自分がいなくなれば、自分といっしょに消えてなくなる感覚。

そんな、他のひとに伝えることのできない、そして自分自身も触ることのできない、「書けない」感覚は、自分のなかで、大切に愛でて、心の奥底で、静かに生かしている。

ただ、ひとつ気づいたことは、そういう「次女の生まれた日」みたいな、とくべつに鮮明な日のことでなくても、ただ漠然と、この 1 年間を思い返しただけで、涙が流れたということ。

覚え書きをするほどでもなかった日々の小さな積み重ね。
そんなことも、次女の生まれた日とおなじく、言葉にしようとしても書けない輝きの積み重ねだった。

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次女が生まれて思ったのだけれど、2 回ある感覚なんて、ない。

授乳とか、離乳食とか、長女のときにやったこと、ぜんぶ、もう一回やるのかな、と、以前漠然と思っていたことは、実際には、ぜんぶ、はじめてだった。はじめての、2 回目、というか、次女にとってはじめてのことは、やっぱり私にとっても、はじめてで。

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この 1 年をふりかえって、本当に書きたかったことは、書けない心の奥底の輝きだった。

昨日のことのよう、として、思い出される、この 1 年のさまざまな感覚を、1 歳の誕生日に、心の奥底から掘り出しては、しまい、掘り出しては、味わい。

そしてまた、心の奥底に大切にしまって、何事もなかったかのように、日常のあわただしさに、戻る。
ほんとうは、そのあわただしさの中に、まさにそういった輝きが、ひそんでいるのだけれど。

1 歳のお誕生日に、そうやって、自分にとって大切な感覚を、心の近辺で出し入れしていると、心の奥底にはひみつの宝箱があるように思えた。

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