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元気をもらったあの食事

#元気をもらったあの食事

 24年前の冬。あのころはまだ、スマホはもちろん、携帯電話も手元になかったように思う。音楽をCDラジカセで聴いていた。実家は遠く、周囲に頼れる知人はいない。夫の社員寮であった鉄筋コンクリートのアパートは狭く、寒々しかったことを思い出す。第一子を妊娠中の私は臨月を迎えていた。
 何もかもが初めてで、分からないことばかりだった。話す人は夫しかいない中、陣痛の予兆。冷静にならねばという理性、恐怖と不安、痛みと焦りがごちゃ混ぜになっていく。
 もう我慢しなくてもいいだろう、そろそろ産まれると思うんですがと病院に行ったら、あらまだまだですよと帰された。時間を測ってね、何分間隔になったら来ればいいから。なんて言われたように思う。何分と言われたかは忘れてしまった。若いから大丈夫よ。旦那さんもいてくれるみたいだし。不安になったら電話してね。助産師さんの笑みがありがたかった。でも怖かった。
 そう、夫がいてくれた。彼も初めてで、初産婦を目の前にして不安だっただろうに、一所懸命に世話をしてくれていた。できるだけ平気そうにしていた。今になって振り返ると、そうだと思う。彼も心の中ではじたばたしていたはずなのに。
 病院からアパートに帰宅して、陣痛と陣痛の合間に、彼のためてくれた風呂につかり、彼のつくってくれた鍋のうどんを食べた。アルミの鍋いっぱいに作られた、野菜も肉も山盛りにぐつぐつ煮えていた鍋物だ。その鍋に入っていたうどんの味を、私は忘れない。間違いなく私に元気を、活力を与えてくれた。熱くて食べられないよと言っている間に陣痛が来て、痛くて食べられなくて、すぐ冷めてしまって。
 でもちょっとずつ、一筋ずつ、うどんを食べた。とてもおいしかった。陣痛と陣痛の間に、元気をもらったあの食事。思い出すたびに、ありがとうって、笑顔になれる。

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