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Facebookの使い方にも文化がある

SNSとの向き合い方は世界中どこでも考えるべき課題であると思う。

都内で電車に乗っていると携帯の画面とにらめっこしている人はたくさんいるし、私もその一人。

目の前に友だちがいても、遠くの友だちと会話ができてしまう。
希薄になりつつある日本の人と人とのつながりをますます遠ざけてしまう。

世界を旅するといつも驚くのは、電気も通っていないような家に住んでいる人も携帯を持っているということ。そして若者の多くはSNSを使いこなしている。

インドの北部標高3500メートルに位置するラダックの友だちとも、石のお金がまだ残っているミクロネシアヤップ島の友だちともFacebookを通してチャットも電話もできることが奇妙に感じられることがある。

FacebookなどのSNSはしばしば世界の画一化を促進する「情報のグローバル化」を促すものの象徴として語られる。しかし、最近気づいたことはFacebookの使い方にでさえ「文化」があるということだ。

私はFacebookを私の知人との情報交換の手段として使っている。自分の考えていることを発信したり、友だちの近況を知る手段にしている。私のFacebookの友だちは基本的に知っている人たちで、知らない人からのリクエストは無視する。

私のFacebookの友だちには様々な国の人がいる。
ドイツ人・中国人・アメリカ人・インド人…大学の留学生や、旅先で出会った人たち。

彼らの投稿をみていると「使い方の文化」を感じる。

ドイツ人の友人はほとんど投稿をしない。
ミャンマー人の友人は1日に何度も投稿をする。
インド人の友人はシェアが多い。

チベット仏教徒はダライ・ラマの言葉をシェアし、
イスラム教徒はコーランの言葉をシェアする。

あくまでも私の友だちの傾向であるが、国や宗教ごとにカラーが見えて面白い。

最近ひとつ印象的な出来事があった。

インドネシアの村の青年が英語を流暢に話すため、どうやって英語を学んだのか聞いてみた。

すると彼は「Facebookでアメリカ人の友人を作ってチャットして教えてもらった。会ったこともない人だけどね。」と答えていた。

他の青年は、「僕は外国人の友だちが欲しくて適当にタイ人の女の子に友だちリクエストをした。そしたらなんてメッセージが来たと思う?彼女は僕がなにか騙そうとしているんだと思っていきなり怒りのメッセージを送ってきたんだ!」って笑っていた。

時々私にもくるどこの誰だかわからない突然の友だちリクエスト。これは危ない人たちだと警戒してすぐに削除してきた。

でも私の目の前にいる彼のような優しさとホスピタリティに溢れ、人と人のつながりの強いコミュニティに暮らす人なのかもしれない。海外に出るお金はなくても世界の人と繋がりたい彼らの希望がFacebookというSNSに詰まっているのかもしれない。と私は思い始めた。

少し考えてみると彼らは英語を学ぶ機会が日本に住む私よりも限られている。英会話教室にお金を払っていくこともないし、村に住んでいる外国人はほとんどいない。村に英語を教えてくれるような人もきっといないだろう。

こうした環境に暮らす彼らにとって英語を学ぶ機会は携帯の中にあり、FacebookなどのSNSが実践的な学びの場になるのだと思った。

村人を全員知っていて、ご近所さんのキッチンを自分の家のキッチンのように使えるような社会で生きる彼らの生活と携帯という小さな四角いものを通して彼らが広げる世界のギャップが面白い。

日本では携帯の依存症などが問題となり、SNSはネガティブな文脈で扱われることが多い。
でも彼らにとっては世界を広げる唯一の手段であり希望であるのだと思った。

国民性や文化的・社会的背景はFacebookの使い方にさえカラーを残しているのだ。

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