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*1. noteを書く理由 ──自分の記憶をつなげるための作品鑑賞

noteを書き始めたきっかけ

noteを始めて大体一ヶ月が経つ。更新頻度のゆっくりな新参者ながら居心地の良さを感じているのは、自分が書く理由に自信を持てたからだと思う。文章を書くのが好きというだけでは続けられなくて、そこに何か「こだわりの理由や意義」を求めていた私がたどり着いた「やっぱり文章を書き残さなきゃ」という強い気持ち。

noteやブログを書き悩んでいる人にこの文章が届くことを願いつつ、その背中を支えるような言葉になればと、ちょっと胸の内を明かすような気分で、記事にまとめることにした。私という人間の内面が透けているので自己紹介も兼ねて。

この1ヶ月を振り返れば、4本の記事を書いた。はじめの2本くらいは勢いで書いたけれど、3本目辺りからちょっと立ち止まり、このまま書き続けてよいのかな?と迷いながら、キーボードを打つ手が止まっていた自分を思い出す。それでも結局、3本目、4本目とそれぞれ15,000字程書いているのだから、書き出したらガガガッと前進していく自分には少々猪の気があるらしい。

なぜnoteを選んだのか、から話を始めるのがよいだろうか。登録する前からSNSを通じて話題になっている記事を読んできたので、ここは、有益な知識や個人的な体験を面白おかしく為になるように書く才能と努力を積み重ねた人が沢山いる「凄い」コミュニティのようだという印象があった。もちろん文章に限らない創作物全般にいえる話で、そんな人たちの作り出したものに手軽に触れられる世の中はとても気持ちが良い。応援の気持ちを気軽な♡やお金に替えて伝えたり、作り手自身のことを深く知れるのは素敵な社会だ。主張の強い広告もないし、良質なもの、自分の好きなものを探し出し掘り当てる過程も楽しい。

だから、(1)読みたい文章がそこに多かったからという単純な理由と、(2)読み返したいお気に入りの記事をリストアップしたかったのと、そして、(3)ちょうど購入したい記事もあった、という、これだけ要因が揃って今やらずにいつやるの?という状況で会員登録してみた。それだけのつもりだったのが、しばらくしたら自ら書き始めることに。

文章を書く習慣はついていたと思う。ただし短文。SNSの使い方としては珍しいかもしれないけれども、実は私は自分用のSNSアカウントを作り、誰に言うでもなく毎日沢山の思いつきを記録しストックしている。これを続けて大体3年半。そんな普段つけてる思考のメモ帳をもう少しちゃんとした形で文章にまとめてもよいのではと考え始め、「そうだ、note、自分でも書こう」と決めたのだった。「備忘録としてSNSを使う人あんまりいないよ。悪口とかじゃないし人に見せればいいのに。」と開かずのアカウントの存在を知っている親しい友人に言われることもあるけれど、私はこのスタイルに愛着がある。心のモヤモヤを発散するわけではなく、「今これが気になる」「日常で見つけたちょっと嬉しい話」を一人でぽちぽち書きためてきた。ただそれだけで、後で見返せる日記がデジタルの綺麗な型に収まって表示されるのはささやかな楽しみで、これからも続けていくつもり。

さて「そうだ、note」の流れで「つくる」をクリックした訳だけれど、ひとまず内容は、趣味の美術鑑賞に焦点を当てることに決めた。その決意表明は、こちらの記事にある。まとめると「今年は最低20の美術展に行くよ、感想を記事にまとめるね。」という話。(この表を作っていた頃にはコロナの影響なんて想定もしていなかった。閉幕日は突然やってくる…)

文章を書きだしたはよいけれど

そんなこんなで書き出した私は、はじめに述べた通り、3本目辺りでPC画面に没頭してはいられぬ、とふと顔を上げることになった。いくら、書きたいことがあり、何かしら書き連ねることはできたとしても、これを続ける理由ってなんだろう?他にも山ほどやりたいことがある中で、趣味として文章を書く時間(大体一週間に8,000字くらいは書くペースを想定)をこんなに取ってもよいのかな?そんなことを改めて考えているうちに、人様に私の文章を晒すのも今更恥ずかしくなってきた。

それでも私は、「気になることは調べる、考える、調べたことは書く、思いついた質問は書く、とりあえずその問いに向き合う」という探究心のギアを強めに振って生きているので、「私なんで書いてるんだろう?」と思いつつも好奇心のままにせっせと何千字と書き進めていたわけである。

余談だけれども、中世の神学者ベルナルドゥスは著書の中でざっくりとこんなことを述べていた。「欲求のままに好奇心から色んなことに興味が出て精神的にさまようのってよくない。意図的に、大事なものを記憶するスペースを作るために、要らないものをしっかりと忘却しなければ。大切な記憶を妨げるのが好奇心だ。」これはまずいのでは。完全に精神的にさまよっている不敬な人だと言われている。

書く理由 ー自分の記憶を繋げる行為

ベルナルドゥスは記憶の話をしているが、私が好奇心にふらふら流されながらも書く理由はまさに「記憶」への執着といえる。もっと言うと「自分の記憶」そのものへの関心。

結局のところ文章を綴るのは、頭の中に芽生えた考えを記録して残しておきたいから。ただ、じゃあなぜ考えるのか、なぜ考えたいのかというのが、よっぽど「書く理由」そのものの本質的な理由だと思うので、ここから先はそのことについて綴っていく。そしてやっぱり私の文章は長くなってしまいがちなので、導き出した結論を先に言うことにする。

私が書くのは、「自分の記憶」を中心に据えて、今と過去と未来の自分を繋いでいきたいという思いから。具体的に言うと、生活の中で見聞きした事物や経験からふと気づいた・気になったことについて、その場でじっくりと考え、わからなかったことはそれとして書き残しておくことで、後々それを種に別のことを思いついたり、思考が深まったりするのを期待しているから。

そう思い立ったきっかけの一つ目は、先に挙げたSNSアカウントがすくすくと分身のように育って、見返すことで色々な思いつきに派生していくのを実感したこと。さらにいうと同じようなテーマをずっと何年も考えていたんだなということにもハッとした。二つ目は、そもそも私が芸術鑑賞そのものを「自分の記憶の断片をつなぎ合わせる時間」として捉えていることに気づいたこと。三つ目は、もう少し後で種明かしするとして、会社員になってわかったことだ。

自分の記憶の断片をつなぎ合わせる時間、というのは抽象的なフレーズだけれども、その心は。

このところ、いやこの数年ほど、鑑賞中に作品から感じたもの、その場で思いついた問いや答えが、大分時を経てから何かの着想に繋がった、あるいは逆に日々の生活で見聞きしたことに作品を通じて別の意味を見出した、という体験が増えてきた。同じ作品をしばらくしてから見たときには、全く違う印象を覚えることもある。

今自分が見聞きしているものに、過去の記憶が引っかかって何か意味づけをするということ。私が思うに、芸術と向き合う醍醐味はそこにあるのではないだろうか。

これは芸術、美術に限らず、本を読む、音楽を聴く、テレビドラマを見る、食事をする、そんな日常生活の営みにも当てはまる。たしかに、展覧会や劇場などの集中できる空間はより刺激を得やすいけれども、そうでなくても世界は新しい発見に満ちている。あのドラマで心に残った台詞の意味が、時代や場所の設定も全く異なる小説を読んでいてすーっと心に染み込んできたとか。CDを聴いていたら、子供の時の思い出が脳裏に浮かんできたとか。漫画や料理でもなんでもいい。

開かずのアカウントに気になったことを短文で書いておくだけでは収まらず、その断片的なメモを元に膨らんだ考えを文章として残しておかねばもったいない。その気持ちはずっとどこかにあったけれど面倒に感じていた。でも書き始めてみたら、楽しくてその気持ちさえも忘れていたようだ。

こうして、未来の自分への手掛かりとして、作品から得た刺激について文章を書き残したい、という思いがはっきりと芽生えた。

なにを書きたいのか

とはいえ自分の日常での発見についていちいち書いていたら身がもたないので、noteではテーマを絞ることは大事だと思った。美術について書くことは初めての記事で決意した通りだけれど、では何を書き残すのがよいか。作品から得た刺激とはなんだろう。

以前どこかで、同じものを見ていても人は自分の知っているものから連想できたものしか見えない、読み取れないのではないかという意見を目にした。具体例として、ある同じグラフを見せた時に人によってそこに何を読み取ったのかの違いを図解していた。この元ネタは知識の多寡を重要視していたけれど、ある知識があるかないかだけでなく、人によって過去の経験が全く違うことも読み取り方には大きく影響すると私は考えている。

何かを見聞きしているとき、そこに意味を見出すには、自分の頭の中の知識、記憶が鍵となるのではないだろうか。

例えば、知っている言語であれば読めるけれど、知らない言語であれば意味のない文字列あるいはイメージとなってしまう。さらに言えば、自分が知っているかどうかに限らず、どの言語を使って世界を見るかで世界は大きく異なる。よくいわれる、言語による世界の分節化の話。これは言語の違いに限らないことだろう。同じ日本語を使って世界を見ていたとしても、人によって語彙は異なるし、感じ方もそれに対する応答としての表現も異なる。それは、人によって過去の体験が異なるからではないだろうか。

そのような理屈でいうと、ある作品を鑑賞した際の感想というのは、必然的に個性的だし、今のその人にしか生み出せないものだと考えられる。その感想を書いておけば、なるほどあの時私はこんなことを考えていたのかと知ることができる。

いや、ちょっと待った。そう単純なものなのか?

小中高の学生の夏休みの宿題の定番、読書感想文。感想を書けと言われても、何を書けばいいんだと困ったことはないだろうか。はい、私がそうだった。小学生の時にほとんど要約文でしかない読書感想文を書いて、今思うに「面白くない」作文を提出していた。それを読み返しても、当時の自分は見えてこない。

思うに、何も考えずに書いているだけでは、感想といっても、見たままの印象、調べたことをただ羅列したものに陥りがちである。それはそれでキュレーションとしての基本的な価値をもつけれども、後から振り返った時に自分が何を考えていたのかを探るには心もとない。観察や情報整理と、解釈は異なるわけで、私がしたいのは解釈の方だ。ある程度、思考の筋道のはっきりした感想。

どうやったら書きたいものが書けるのか

とはいうものの、やはり解釈にはそれ相応のインプット、経験や知識が必要になるから容易ではない。だから、現状できているかといえば、自分の文章には満足していない。それでも書き続ければもっと満足できるものに到達すると信じて、投稿を続けていこうと思う。書き続けないと伸びないから。

自分はどこに難しさを感じているのだろう。
まず、未知の分野については必然的に情報整理の方向になりがちだし、問いを立てるのも難しくなる。最近でいうと私にとってはやきものがそうだった。量的に経験値(他に見たものとの比較だとか)が低いので、深堀りがうまくできない。そこで、素直に展覧会を通じて勉強した内容が、それ自体今の自分にとって情報価値があると思い、こんなことが気になって調べ考えてみたら面白かったという意味で書き入れた。

一方で見慣れているジャンル(前近代の西洋絵画)はというと、まだ記事を書いてはいないが、書くことになればハードルの高さを予感している。そもそもオールド・マスターの場合背景知識がなければ鑑賞の意味がないとまで言うのは語弊があるが、かなりのミスリーディングになる。そういった、ある程度見方の定まった作品について、知識の羅列やありがちな解釈にならずに、「今の私を書き残すような文章」を成立させるにはどうすればよいのだろう。まだ書いていないので何とも言えないけれども、私の場合はあくまで自分のために文章を書き残しているというスタンスを信じて、読者のためだからなどと講義録のような文章を書かないようにだけは気を付けたい。(それに、美術に疎い人にまで私の記事はリーチしないような気もしている。)

作品の解釈の出来というのは、どれだけのものを自分の中に持っているか、そしてその蓄積の中からどううまく引き出すか、が鍵を握っているように思う。どちらも大事だけれど、特に後者は意識的に考える時間を作らないとうまくいかない。問いが立たなければ書けないし、問いができ頭の中の知識を総動員し関連書籍まで読んだ、さあどうだといっても、一向に解が見えてこないこともある。

noteで定期的に記事を公開することにすれば、まとまった文章にするために考える時間を生活の中で取る習慣ができる。明確な締切はないのでプレッシャーは感じないけれども、この記事は今週中にまとめよう!と決めたら、書いていない時でもそのことを頭の片隅においておける。怠け癖の私には締め切りは大事だし、そもそも私の頭はそんなにしっかり働かないので、一回で書ききるのが不可能。書いては他のことをして、ふとした時にアイデアが出てまた書いて、寝て仕事をして…のようなスタイルでゆっくりと原稿に向き合っていきたい。三上って言葉、結構言い当てていると思う。

書いたものを公開する理由 

さて、ここまで読んでいただければ、いかに私がnoteの記事を「自分のために」残しているのかがわかると思う。それをわざわざ公開する理由を改めて考えてみた。

自分で書きためたnoteは、記憶の積層という意味では、私というちっぽけな人間の中の、時を重ねたちっぽけな集合知といえるかもしれない。ただ、集合知といえば、それこそインターネット空間は時空を超えた集合知そのものではないのだろうか。

私が自分の頭の中を一部こうして外に出すことが、未来の自分だけでなく、他者のアイデアにも繋がるかもしれない。究極的には自分のためだけれど、そんなことを考えながら文章を紡いでいる。だからこそ私は自分の眼差しを他者と共有することにしたし、もちろんその逆も望んでいる。ひとの頭の中を覗き見するのは、私にはないアイデアがそこには溢れているから、いつもとても学びが多い。

そして記事の公開を始めてみて。ダッシュボードをたまに眺めていると、私の記事を読んでくれる人は数としては少ないけれど、その数に対してスキという意思表示をしてくれる人が予想していたよりも多くありがたいなと思う。多くの人の目に触れることも大事だけれど、わざわざ目を止めて読んでくれた人の期待に応えることも私にはすごく大事。そのためにも表現力を磨き中身も熟考して文章を創り出したい。誰かしら読者がいると思うと気も引き締まる。

読者のいる文章、他人に読まれる文章を書くといえば、仕事でも文書作成は日常的にしているが、これほどまとまった量の内容を書くというわけではない。何千字と書いていて思い出すのは学生時代のレポートや論文課題だ。

ただ、noteはそういったアカデミックな文章を書く場ではなく、文体が話し口調になっていたり、根拠が多少不確かで、参照元をしっかりと書かない(これについては多少迷っているところもあるけれど、脚注機能がないし、いちいち〜が〜で言っているようにと書くのも読みづらいと思う。でも無断引用はしないように気をつけている。)などの粗さが目立ったりしていてもよいかと考えている。どちらかというと、高校までに沢山学校の課題で書いてきた読書感想文や行事の感想文、日直日誌に近いような印象だ。山ほど課題として出された書き物も、今思うと当時の自分を写し出すアルバムのような存在だ。なんとも恥ずかしくて読み返したくないけれど。

未来の自分への期待

終わりに近づいてきたので、大したことではないのに先延ばしにしていた、三つ目のきっかけのお披露目。それは、会社員になってから学生時代に読みかけていた学術書を以前より理解できるようになったと感じたときのこと。積ん読として残していたり、内容が難解で途中でやめていた本を読めるようになった、いや、読めている・理解できているとははっきり言えないけれども、前よりもその中身を吸収できているのではないかと思えた。学部を卒業して3年間、そんな経験は少なくない。実は、嬉しい想定外。

卒業前の私は働くことを楽しみにしつつも正直言えば、会社員になることで、アカデミアへの関心は薄れ、ナントカ大学出版会の出している定価6000円~の博論本など読まなく…なっているのではと思っていた。社会人を甘く見ていたし、学生の慢心だなと思う。そんな訳がなかった。会社勤めだからといって本が読めないことも知的成熟度が落ちるということもない。むしろ精神は成熟している、はず(自信はない)。それだけ仕事に没頭するつもりだったのか、当時の浅はかな考えが恥ずかしい。

学生時代には全くゆかりのなかった業界での今の仕事は、新卒からのキャリアプランが見えづらく勉強と模索の繰り返しである。甘い世界ではないけれど、プロジェクトペースで毎日発見が多いのは飽き性の私に向いているかもともちょっと思っている。
人文系の学科で学んできたことが直接役立つ仕事ではないとしても、仕事の経験も学生時代の経験もどちらもが互いに影響を及ぼしながら私の糧になっているのだという実感がある。

結局のところ、自分の体験、過ごしてきた年月を生かすのは自分次第。何をしていたとしても過去の自分が置き去りになるというわけではなくて、組み合わさって今の私がいるのだということを、会社勤めになり仕事という一本の新しい軸ができた今は思う。

未来へと時を進める、つまり歳を取ることは良いことばかりではないかもしれない。二十歳を過ぎると誕生日が嬉しくない、若さが失われるのが辛いと言う人は実際私の周りにもいる。でも個人的にはもう十分若さの恩恵は得たような気がする。むしろ歳を豊かに重ねた人は魅力的だ。

だからこの先にいる自分が、今とは違うどんな考え方をしているのだろうと、自分のことながらちょっと期待してしまうのである。

作品鑑賞とは?という質問に対しても、以前の自分は上に書いたようなことは考えていなかった。美術館に出かけると、「新しいものと出会いたい」「好きなものを見つけたい」という好奇心が前面に出ていたように思う。いくらか歳を重ねる間に自分の内面へと関心が向いたのだろうか。また数年後には違う意味を見出しているように思う。だから、その時までnoteを続けていられれば嬉しい。

人生とは成長なのか

最後に、成長について。ここまで書いてきたことは、過去が未来の糧になる、とか、記憶がつながることで新しい発見を呼ぶ、などと未来志向な言葉が多い。進歩史観に通じるような内容に取られるかもしれない。

人が成長すると言えば聞こえが良さそうだが、要は、人は変わる。それも自分で予想していた通りのまっすぐな道を進める人など、いないのではないだろうか。経験を積み刺激を受けることで、私の嗜好や価値観は変わりうる。でも、必ずしも過去と未来(今)の自分、どちらかが良いということではないのだろうと思う。変化はコントロールの効かない仕方のないことだし、自分にできることといえば、変わった今の自分を信じることではないだろうか。期待していた人生を歩めなくても構わない。

そして変わるのは自分だけではなく他者も同様なのだから、他者に対しても同じように信頼の念を持って接することができたらと思う。

ちなみにこの記事は、先日の「やきもの入門」展の記事↓の末尾あとがきをベースに、大幅に内容を見直して単体の記事として出しました。

そして(ほんとの)最後に、見出し画像の紹介。
こちらは2018年に長野県御代田町で開催された浅間国際フォトフェスティバル(プレ開催)の展示風景を撮った一枚(水谷吉法の「HDR_nature」の展示)。メルシャン美術館跡地の敷地と建物を使った良い催しだったので、いつかnoteでも触れたいと思っていて、取り急ぎ画像を先に使ってみた。昨年の第一回開催時は残念なことに見逃してしまったが、知名度もある国内外からの作家が出展しており、地方活性化の一例としてこれからさらに盛り上がる予感がするので是非注目したい。
ちなみにメイン会場は軽井沢駅から3駅の御代田駅から徒歩圏と、首都圏からのアクセスも良好。

あとがき:
この記事のように、たまには美術展のことだけではなく、ふと思いついたことや派生して気になったテーマについて書いてみることにしたいと思います。そのためのマガジンとして、「20の美術展のあとがき」を作ってみました。

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