堕天使の金星|金牛宮と天秤宮

同じ金星をルーラー(支配星)とする金牛宮と天秤宮ですが、それぞれ全く異なる特質を持ちます。

前者は地のエレメント、女性サインのフィクスド(不動宮)です。

後者は風のエレメント、男性サインのカーディナル(活動宮)です。

そして、高揚(Exaltation)する天体(惑星)が、金牛宮は月、天秤宮は土星という、ルーラーでは巨蟹宮と磨羯宮という対極の関係に相応します。

その違いが人間の社会活動においてどのように現れるのかを、描写していると思われる箇所を、今村氏の著書から以下に引用します。

まずは、金牛宮で月が高揚するケース

人間存在の根源とは何か。現実に存在することは、まわりのもの(「自然」として要約される)を自己のものとして関わることである。この関わりを所有と呼ぶなら、現実に存在することは、まわりの生存条件を所有しつつ存在することである。存在することと所有することは同じ事態である。人間であること、人間として存在することは、社会のなかで、社会を作りつつ存在することであり、個人がそのなかで存在することは、個人が物(生存条件)に対して「自分のもの」として所有する形で関係することであり、それが他者によって承認されることである。(中略)自然と人間との相互行為(生産的活動)は、人と物の関係に凝縮して言えば、生産者と生産条件との結合である。
 それは具体的な身体的生存の本来の姿であり、支配と従属の政治関係の下によこたわる基礎的な関係である。なによりもまず人間は身体的存在であり、身体を再生産するためには、生産する身体と生存条件を結合しなければならない。人間の原初の存在は、身体とその環境との結合であり、この結合行為は、環境をわがものとして関わる行為であり、それを所有という。(中略)所有とは、二つの身体への関係である。自分の有機的身体と自分の外にありながら自分の身体の延長である非有機的身体への二重の関係、それが「生きること」であり、生産することであり、所有しつつ存在することである。
p.264-266 今村仁司著『交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学

続いて、天秤宮で土星が高揚するケース

挑戦と闘争が生まれるのは、与えられる物が「人格的所有」であるからである。贈与関係では、自分の人格を物の形式で相手に譲渡するのであるから、受け取る人は、与えられた物をけっして所有できないで単に占有するのみである。受け取る人が物の一時的な使用と用益を許されることを「負債」という。この負債は物体ではなくて、負債を負ったという負い目感情である。(中略)
 したがって原理的には受け取り手は、この負い目感情を消すことはできないにせよ、与えた人に何か与えかえすことによって、相手に同等の負い目を負わせ、負い目を共有させる、あるいはお互いに負い目をもつ者として同等であるという感情をもつようにする。要するに、受け取り手もまた自分の人格と生命の一部である「人格的所有」を相手に提供して、相手に負い目を負わせるのである。ここから贈与の相互供与の現象が生まれる。
 このように贈与行為は、けっして仲良しクラブのような親切心の発露ではない。贈与とは生命の供与であり、相手への挑戦であるから、はじめから敵対と闘争の契機が含まれている。(中略)
 贈与の交易がおこなわれ、「生命」のやりとり(相互行為)が生まれてはじめて、負い目の共有が実現する。婚姻関係や軍事同盟は、こうして形成される。それらは敵対の解消の結果である。それらは負い目の共同性である。
p.185-186 今村仁司著『交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学

このように、金牛宮と天秤宮の金星は、関係性によって異なる意味を帯びます。

ひとことで表すなら、金牛宮は人格的所有を担い、天秤宮は贈与による負い目の共有を担います。

金星はルシファー(堕天使である悪魔の首領)を表します。

現代社会における金星の役割を理解することは、今後の展開を見据える上で有益なことかもしれません。

次の引用箇所は現代社会を金星の役割の観点から的確にとらえた記述だと思います。

 この二重性は共同体に帰属するかぎりで、それに媒介されるかぎりで、自己の身体と外部の「延長身体」に対してわがものとして関係する「人格的所有」のあり方から生じる。つまりこの「わがもの」は、共同体の「わがもの」なのか、個人の「わがもの」なのかを決定できない。このことが贈与の論理を支えるものであった。譲渡と非譲渡の関係(譲渡不可能な人格的所有を与えつつ、所有の権利を留保する関係)は、この原初的事実としての生産条件への人格的な関係から生じるのであった。
 以上のような意味で、贈与体制の所有関係は、種々の偏差はあっても、基本的に、生産する人間(個人と集団)と「わがものとしての」生産条件との分離不可能な結合として定義できる。この上に展開してきたすべての歴史的諸形態が崩壊すること、それが生産者と生産手段の分離という現象である。
 この分離が出現するとき、そしてそのときのみ、一つの大転換が生まれる。それが私的所有の体制である。土地も人間も、すべては商品候補存在に転化する。物の移動は、そのつど決定的な移動になり、二度と元には戻らない。「分離」という一見ささやかな現象のなかに人類のすべての経験(所有と存在の関係の意味での)が文字通り「含まれている」のである ーー消極的に変形されて含まれている。これが資本主義と市場的商品交換の発生の所有論的意義である。
p.267 今村仁司著『交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学

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