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27. ロートレアモン全集 【散文詩】

退廃、厭世といった語に惹かれる人は読んでおくべき、というような紹介を見掛けて読み始めた本書。
代表作「マルドロールの歌」のほか、「詩学断層」と資料・解説の全470ページほど。二十歳そこそこで亡くなったので、作品はとても寡作です。
が、しかし最初の頃とんでもなく読みづらくてその2作を読み終わるのに二ヶ月半もかかりました……。

ロートレアモン伯爵、本名イジドール・デュカスは生前はほとんどその作品を評価されないまま謎の死を遂げた詩人です。死後も長らく無視されていたのがなぜか発掘され、20世紀のシュルレアリスムに多大な影響を与えました。昨今は熱心な研究によりその素顔が少しずつ明かされているようですが、わたしの読んだ1968年初版発行のものではまだ大したことは明らかになっておらず、またわたし自身作家のプライベートにさして興味がないのでそこには触れないこととします。


「マルドロールの歌」は神を蔑み、人間を憎み、悪逆非道の限りを尽くす主人公マルドロールを一人称と三人称が混ざったような独特の口調で描き出している散文詩です。

詩自体は「よく分からない」としか言いようがありません。通常の思考では結び合わさらないようなものたちが繋げられ、理解不能なイメージを作り出しています。同じ文章、同じ思想がくどいほど繰り返されるのに、連ごとの関係性は不透明で、続き物のように読める箇所もあれば突然全く関係のないことを言い出すこともあります。解説によると自動筆記(この単語自体はシュルレアリスムの時代に生まれたようなので、こう呼ぶのは適切でないかもしれないですが)を用いており、思いつくまま書いた部分とふと我に返って自身で振り返っている部分があるとのことなので、わたしのこの印象は間違っていないでしょう。
前述の、神の冒涜・人間の呪いは全編に共通しているのですが、それを表現するイメージは連によって全くバラバラで、ロートレアモンがそれぞれ何を意図してそのイメージを用いて書いたのか明白にするのは無意味なことのように思えます。(そもそも自動筆記によって、意識下にあった最近見聞きしたことが引き出されてきてるのであって、そこに彼の明確な意図が存在するとはわたしは考えません。表層のイメージだけを追いかけても不可解なだけなのはシュルレアリスムと同じだと思う。)

「詩学断層」では一変、神を崇め人間の正しさを信じ、主にパスカルなどの、人間の善良性に懐疑的な文章を引用しては意味を反転させたり部分的に書き換えたりした短文が羅列されています。
「マルドロールの歌」の後にこれを読むと言っていることが正反対で面食らってしまいます。
極端な悪と極端な善は、どちらも気持ちが悪く、本人も人間という生物をどう捉えどう向き合えば良いのか模索していたのかなと勝手に考えながら読んでいました。実際には、「マルドロールの歌」では究極の絶望を書くことによって逆説的に正しさへ辿り着こうという意図があった、「詩学断層」では方法を変えて希望や幸福や義務だけを歌うことにした、というようなことを本人が書簡などで語っています。彼の中には既に“あるべき人間の姿”が完璧に描かれていたわけですね。


すべてを読み終えてみると、ロートレアモンの作品は安直に言ってしまえば厨二病的でした。
最初が恐ろしく読みづらく、次第にその文体や思想に馴れてくると、ある程度テンポよく読めるようにはなりました。でもその内容的に、学生時代までに読んでいればハマったかもしれないけれど、今こういう暗い熱情がわたしにはないので、捲し立てられても寧ろ白けてしまうのです。若い感性からすでに自分が遠ざかりつつあることを思い知らされます。

ただ、怒涛の言葉の洪水の中で、わたしはこのためにこの本を読んだのだと断言できる一節がありました。

「マルドロールの歌」第三の歌の中の、娘を失い気の触れた母の手記(p.149〜156)です。
この死んだ娘というのは、マルドロールに陵辱された後殺されたのですが、生前の描写の何とも甘美なこと! 作品の中の唯一の清廉な泉と言っても過言ではありません。だからこそ一層、マルドロールの残忍な所業が際立ち、わたしたちに苦々しい思いを残すのですが、ここでは一片の悪もない、まだ人間ですらないような少女と母の対話を引用しましょう。

あの娘が、この空気は糸杉と菊の心地よい香りがするといいながら、墓地のお墓のことを話しかけた時にも、私はそれが間違いだとはいわないでおきました。それどころか、墓地は鳥たちの町で、そこで鳥たちは暁から夕方のうすやみがおとずれるまで歌をうたうのだし、またお墓はかれらの巣で、夜になると、大理石を持ちあげて家族と一緒に眠るのだと話してやりました。

こんな空想だけでずっと過ごせたら、どんなに幸せなことでしょう。生も知らず、死も知らず、美しいものに守られて。
それはマルドロールによって壊される儚い夢ではありますが(或いは、そんな理想はそもそも存在しないのだと言いたいのかもしれないけれど)この部分だけは文字が光り輝いて見えるほどでした。全編を通して、ここほど闇と光の対比の激しい箇所はないと思います。

その他、印象的な描写が二箇所あったので、列挙しておきます。

p.147
ねえ、君は泣いているのか? もちろん、さぼてんの花のように美しい君の顔に涙がみえるわけでもないし、君の目蓋は河床のように乾いているが、それでもぼくには、君の瞳の奥底に、血のあふれた大桶がみえる、そのなかで、大型の蠍に首をかまれた君の純潔が、悶え煮えたぎっている。烈風が大釜を熱する焔におそいかかり、神々しい瞳孔の外にまで暗い焔をふきだしている。(中略)眼をとじたまえ。さもないと、君の顔は火山の熔岩のように(※)焼され、灰となってぼくの掌の凹みに崩れおちてしまうだろう

※この箇所脱字のため不明

p.243
やい、ぼくの原因性の、ぞっとするようなスパイめ! ぼくが存在しているからって、ぼくは、ぼくいがいの者ではないんだ。ぼくは自分のうちにそんなあやしげな複数性は認めないぞ。ぼくはしたしいじぶんの推理のなかにたったひとりで住みたいのだ。

文体は全然違うけれど、上記二点ともわたしの気に入った文章です。

上はそのイメージの美しさ(特に「ぼくの掌の凹みに崩れおちてしまう」という言葉の響きから喚起されるイメージ!)が、下は理論的に解釈するのは難しいながら同様の感覚を自分の中にも見出せる気がするところが、刺さったのじゃないかと考察しています。


他、この本がわたしの中に起こした変化や気付きは、まず前々から気にはなりながら手を出せずにいた哲学・思想家の著書をきちんと読まねばならないという気にさせたこと。
特に「詩学断層」で多く引用されているパスカルや、解説に出てくるフロイト、ニーチェを。あと個人的に気になっているバシュラールも。個々の哲学者についての造詣を深めるついでに全体の流れも掴めたら良いのだけれど、果たしてわたしの頭でついていけるのかは甚だ疑問であります……。全力を尽くそう。

もう一つは、久々に自動筆記という執筆方法に触れて、自分でも取り入れてみようかと思いを巡らしました。

これはわたしの思考の仕方や創作に関わってくることなのだけれど、「考える」という行為を意識して考え始めるといつも、無意識のうちに観念として考えたことを、明確な言語に置き換えて頭の中で朗読するように繰り返している自分がいることに気付きます。わたしが今何を考えているのかと考えても、「わたしが今何を考えているのか」と脳内朗読がそれをなぞるので、非常に気持ち悪い。
文章を書いている時もわたしは常にそういう書き方をしていて、そもそも創作の場合はまず映像が頭の中にあって、それを無意識で言語化して、そこからさらにそれを文字の形としてアウトプットするのです。意識すると書けなくなるので、普段は極力それを意識しないようにしています。
でも自動筆記で脳に考える暇を与えずに書いたら、気持ち悪さを突き破って新しい書き方を体験できたりしないかしらん。そんな期待が生まれたわけです。実際にやるかどうかはまだ分かりませんが、一つの実験として面白そうです。


今回読んだのは1971年発行、栗田勇訳の人文書院から出ている版です。
幾つか誤字脱字があったので気になりました。また、新訳の方が読みやすいらしいので、どう変わったのか気になります。(疲れたのでしばらく読むことはないだろうけれど……)

最初の十数ページを耐えれば些か読みやすくなると思うので、引用部分などを見て気になった方はお手に取ってみてはいかがでしょうか。

ではまた。


ところで今回よりタイトルの最後に記事で扱っているジャンルを書いておくことにしました。何もない方がすっきりして好きだったのですが、分かりやすさに歩み寄ろうかと思ったので。
これまでの記事も時間のある時に直す予定です。が、嫌になったらやめるかも。

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