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彼女の困り事 【詩】

個人で出しているフリーペーパーに掲載した作品です。

本が読めなくて、困る。

1 寝ても覚めても

 部屋の空気が冷え切っていて、毛布に丸まったまま動けないでいる。何事か考えていたような気もするが、幾つかの思いを追いかけているうちに見失って、ただぼんやりとしていた。ふと頬を触ると、いつの間にか濡れている。ここはあまりに静かだ。思い返すと昔住んでいた家では、自室にいると隣の居間の時計の音が常に聞こえていた。この家には時計がなく、静けさは眠気を連れてくる。ぼうっとしていたのかうたた寝していたのか泣いていたのか、自分でもよく分からない。頬がまた濡れていて、触ると確かに濡れているのだけれど、皮膚は寧ろ乾燥していく一方のような気がする。顔が干からびて、ひび割れていく。目もとても乾く。視界に亀裂が入っていって、断層のある空、切り刻まれた雲。黒い亀裂は四方にぐんぐん伸びていく。このまま暗闇に閉じ込められてしまうのだろうか。目が見えないと本も読めないので、困る。ともかく濡れた頬を拭くことしかできない。


2良くも悪くも

 週の頭頃から空気が柔らいで、隣家の梅が蕾をまんまるに膨らせている。芳香が我が家の窓まで漂ってくるのはまだ数日先だろう。鶯の声もまだ聞かない。

 ひどい乾燥で肌のきめが粗く老梅の樹皮の如くなった手の、ひび割れた指先。薬局で片っ端から買い漁り、朝に夕に塗りこめたハンドクリームも何の役にも立たなかった。血管はどこを通っているのかと訝ってしまうほど深い亀裂を眺めていると、その奥底から透明の蜜が湧いてきて指先に滲む。とろりとした液からは春を予感させるほのかに甘い香りが立ち上り、思わず頬が緩む。
 舌に乗せれば露はきりりと球を結び、いつまでも口の中を転がりながら、逸る気持ちとともにバウンドする。流れるままにしておけば、ひび割れた体に染み渡り、厳しい寒さによる傷みを癒すよう。それはとても心地の良いものだけれど、渾々と蜜が湧くので手の乾く間がなく、本が読めなくて、困る。

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