クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン《最後の教室》 ー大地の芸術祭の思い出ー

クリスチャン・ボルタンスキー展"Lifetime"を見に行きました。その感想を書こうとしたら、『大地の芸術祭』で見た《最後の教室》が思い出され、そのことばかり先に書いてしまったので、ポストを分けることにしました。ボルタンスキー展のポストの、ボーナストラック的に読んでもらえたら嬉しいです。


声に出して言いたくなるような名前のこのアーティストを初めて知ったのは、昨年行った『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018』でのことだった。

疲れと寝不足で、ツアーバスで居眠りしてしまい、目が覚めたらバスは待機場所に停まっていた。運転手に道を教えてもらって、雨が降る中、山道を急いで下りていく。見えてきた廃校からは、心臓音と思しき低音が聞こえてくる。玄関で受付を済ませ、人々が吸い込まれていく扉を開ける。一瞬、暗闇と、生暖かい空気に包まれる。強烈な匂いと、足元の柔らかさを感じる。順路はこれで合っているのだろうか、と不安に苛まれる。どうやらここは体育館で、足下に敷き詰められているのは藁のようだ。不意に鼻腔を刺激した藁の匂い。慣れなくて一度出た。何なんだここは。


別の部屋に、新作の《影の劇場》が展示されていると知り、気を取り直してまずこちらに向かう。壁の穴から部屋を覗くと、中にはドクロや、人型とか、いろんな形の人形がぶら下げられてて、それにライトが当たり、壁にその影が大きく映されている。そういえばガイドブックとかでも何度か見た作品だ。よく分からないけど可愛らしい。


もう一度体育館へ入ろう。やはり暗闇と、強烈な藁の匂いに包まれる。体育館は上から電球がぶら下げられている。藁じきの床にはところどころベンチが置いてあり、その上には扇風機が鎮座している。扇風機はゆるい風を起こし、電球が不規則に揺れている。そういえばここも、ガイドブックで見た気がする。

藁の匂いにやられそうになりながら奥に進んでいく。電球が等間隔に並び行き先を導いてくれる。奥には強い光源と、換気扇のようなファンがゆっくり回っている。

階段を上がる。この辺からは記憶が曖昧だ。外から聞こえていた心臓音は、校舎の端の理科室から鳴らされていた。近くまで来ると爆音で、鼓動に合わせて部屋の照明が明滅している。クラスの教室には、ベールのような白い布と、白い蛍光灯が床で光っている。水槽のようなものも置かれている。

奥には、何も写っていない、何も描かれていない、真っ黒なパネルが無数に並ぶ部屋。部屋の奥には、廃校になったこの学校の思い出の品が置かれていた。どの部屋も、誰かいるような気配を感じるが、そこには鑑賞者の他には誰もいない。

同じルートを辿り入り口へ戻る。ふたたび、いや三たび、藁じきの体育館。少し慣れてはきた。ステージに上がれるようになっていて、上にもベンチが置かれている。そこでカップルと思しき男女が、何を話しているのか、話していないのか、並んで座って体育館の方を眺めている。なんかちょっと羨ましく感じてしまって、ここへ来てもそんなこと感じる自分に呆れる。しかし、ここにカップルで来たとき、自分は何を思うのだろうか、と考えもする。


クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン《最後の教室》。廃校全体を使ったこの作品と出会ったことで、僕は、この『大地の芸術祭』の意味とか、インスタレーション、芸術を体感する、体験する、ということを知った。その日まで色んな作品を見たし、その日以降も数々の作品を巡ったが、視覚に加え、音、匂い、空気までをも感じさせる作品は、僕が巡り、記憶に残る限りでは他に無かった。


クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会を知ったのは、大阪展に合わせて図録が刊行された時で、まだ本屋で芸術書を触っている頃だった。本屋を辞め、東京展が始まり、そろそろ行かなきゃなーと思っている頃。《最後の教室》の印象が忘れられず、越後妻有の旅の時にDLしたガイドアプリをなんとなく見返した。《最後の教室》のガイドの書き出しに、驚き、大きく頷くしかなかった。

「クリスチャン・ボルタンスキー。大地の芸術祭を訪れた旅人たちは、必ずやこの作家の名前を覚えて帰ることになる。」


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