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【暴論6】飛び級への反論と自由研究への応援

しばしば日本の教育において飛び級の必要性が言われることがある。基本的に私は飛び級には反対の姿勢である。私のことを知る人からすればこの意見は意外に思うかもしれない。私自身義務教育は遅いなと思っていた方であるが、だからといって飛び級すれば良かったかと言われるとそうでもない。

飛び級のメリットとしてあげられるのは、できる人はどんどん先に進めて学習能率が上がることである。実際少なくない人は学校教育の進捗速度が遅いを感じただろう。だがこの問題が飛び級をすれば解決するかというと疑問がある。

この問題は各個人の理解度の速度差があることに起因する。これは一学年上にすればいいという単純な問題ではない。数学と日本史で理解度が異なる場合もあるだろう。逆に一学年上にして着いていけなかったらどうするのだろうか?

少なくとも現代、特に新型コロナによって生じたリモート教育においてその解決策はある。ドワンゴが運営するN高では完全リモート教育を実現しており、ここでは必須科目を完了すればあとは好きなことをやっていい。生徒によってはプログラミングやイラスト、外国語など好きなことをやっていいし、そのためのサポートもある。


神童も20歳過ぎればただの人という言葉がある。幼少期に著しい成績を上げていてもそれはたまたま成長が一時的に早いだけかもしれない。そういう人を飛び級させると過剰な期待をすることになり、本人にとっても周りにとっても不幸である。こうなると自意識だけが課題になるか、失敗のトラウマを生涯引きずる結果に陥る危険性がある。正直政府や学校の都合で少し成績がいいだけの生徒を飛び級させることもありうる。

飛び級には反対するが、ギフテッド教育には関心を持っている。そのために必要なのは、飛び級ではなく好きなこと興味のあることを自由にやらせる、つまり自由研究であると思う。これはもちろん科学に限らず文系的なものもビジネスのような実務的なことでもいい。

大人がやるべきことは進む道や方法がわからない時に手を差し伸べることだけで、あとは放置するべきである。参考になる本や方向性を示すだけで、過剰に干渉してはいけない。親や教師だけでは不可能ならインターネットで探せばいい。今なら簡単にそれができる時代である。

天才というのは多くの場合万能ではなく一点突破するものである。飛び級は結局全てを早く伸ばそうとするだけで、ギフテッド教育とはいえない。また自ら好奇心を持って成長できない人間は天才とはいえないし、そのような人間はこれからの時代に必要ない。自由研究を年中やらせられる環境を整えるのがこれからの時代の教育に必要だと思う。

自分も天才を育成する一助になりたいと思う。


#いま私にできること

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