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芸能に於けるシャーマニズムの解体

1、笛の解体

 様々な芸能で、様々な笛が使用されています、篠笛・篳篥・龍笛・笙・能管・尺八・石笛など笛は多様に存在し、その存在は芸能に於いて必要不可欠なように思います。

 その必要性を能楽の世阿弥は、一調ニ機三声と名づけ、一に調を置き「先ず耳から入れ、目から入るな」と能楽の基本姿勢として書いています。目からではなく、耳から入ることで、見えないものを見る力が観客の中で起こり始めます。それはシテである舞手やワキの謡にも起こり、それが二の動作である機へと繋がり、声へと運ばれる、そこから展開される動作に、見えるはずのない風景が笛や鼓の音に乗り、目に見えぬものを追い付かせることが出来ると世阿弥は言います。このはじまりの「調」で最も要になるのが吹き物である笛です。

花鏡・一調二機三声

 「調子をば機が持つなり。吹き物の調子を音取りて、機に合わせすまして、目を塞ぎて、息を内に引きて、さて声を出だせば、声先調子の中より出づるなり。調子ばかりを音取りて、機にも合わせずして声を出だせば、声先調子に合うこと左右(そう)なくなし。調子をば機に籠めて、さて声を出だす故に、一調・二機・三声とは定むるなり」世阿弥「花鏡」より

 能楽で使用される能管は、シルクロードを渡って来たであろう横笛の文化と、縄文から続く石笛とを重ね合わせた形となっている。能管が出す、天高く伸びる高音は、神降ろしを可能にするとされる石笛の、ヒシギの音域を出すことを目的に造られている。神降ろしを行う為に、能管があると言う事であり、ここに世阿弥は、観客に見えないものを見せる手法、一調二機三声を用い、神降ろしと芸能を同時に成立させている。ここが世阿弥の凄いところではないでしょうか。

石笛欲しい

 見えないものを見せるために、耳から入る。その為に笛の役割は重要で、その日の芸の良し悪しは、笛の始まりの調子で決まる。ある意味で能楽は、普段見えていないものを、見せることが出来なければ、芸能の本質の半分を失うことにもなる。

 神降ろしに、ヒシギの音を取り入れるように、いろんな笛を吹いていると、笛にも層や次元があることが分かる。音が届いている領域と、届いていない領域があることが、笛を吹いていると分かってくる。横笛の音の領域は、鳥と似ているところがある。鳥たちも其々に、同じ空に住みながら、別々の時間や領域で生きていることが分かる。笛にも同じように層があり、音を届けたい世界や領域に合わせ、各笛が各芸能で選ばれている。

鳥たちが住んでいる世界と笛の音域
笛を吹き始めると、笛が増える現象。
能管・石笛はまだない。

 笛の世界にも秘伝の曲などがあり、芸を学ぶものでしか得られない密議が笛にもある。以前、雅楽を観に行った時、篳篥を奏でられた方が「先程は本来吹くことのない密伝の曲を吹かせて頂きました」とサラリと仰られて、周りの同僚の方々が「なんで吹いたの」と突っ込まれているエピソードがあった。

その時の雅楽の写真、蘭陵王。蘭陵王は鳳凰だと思う。

 笛を語るのに、層・領域・次元などと言っても、不確かなもので、感覚の掴めない人には、何を言っているのか分からない、訳の分からない話しかも知れないので、次はその辺りの説明を試みながら、シャーマニズムが別次元の空間を開き、層や領域を変え、何を行っているのかを、シャーマニズムの説明として、書いてみたいと思います。余計に訳の分からなくなる可能性は大ではある。 つづく

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