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短編「紫の月」

 男は紫の光の下で照らされていた。家々が寝静まっているのを、河川敷の少々小汚いベンチに座りながら、男はその紫の光源を眺めていた。その光はは梅雨も明けた雲一つない空から、彼の眼へと届けられていた。満月が紫の色彩で光を放っていたのである。
 それは紫陽花といったような花などが持っているような味わいのある紫ではなかった。どこか人を不安にさせるような、禍々しい、人が毒という語を耳にした時に脳裏で連想するといったような類の紫色であった。
 男は河川敷のベンチに腰掛ける前に寄ったコンビニで購入した、チューハイの飲みかけの缶を手に、その禍々しい、この世のものとは思えないその真円にも近い満月に圧倒されていた。男はさながら異世界に迷い込んでしまった、本来ここにいてはいけない存在にも関わらず何かの手違いでここにやってきてしまったような思いがした。しかしだからといって不思議の国のアリスよろしく、ベンチやブランコが意思を持ち、踊りだすなんてことはなく、男の眼前にはただ静かに流れる川と、何の面白みもないコピーアンドペーストを繰り返したような住宅街が広がっているばかりだった。街はいつもと変わらぬ調子でそこにあった。違うところと言えば、ただ紫色をそこに宿しているということだけだった。
 男は自分の頭か、この世界のどちらかがおかしくなってしまったのだろうと安酒で揺れる頭で思考を巡らせた。おそらくだが男の生きてきた僅かばかりの生涯で月の光が毒々しい色に染まった試しはなかったはずである。そこで、自分か世界のどちらかが間違っているか問えば、男の経験則に言わせると自分の頭に違いないのではあるが、しかし間違っていたとして何になるだろうかと男は心の中で吠えた。男の見立てではどうやら本当に色が変わっただけらしいのである。イルミネーションの色を変えるのと何ら変わりはない。そこには何の啓示も暗示もなかった。人を誑かすことも、操ることもその月はしないらしい。しかしいくらそうだからといって、ただ単に飲みすぎであるとか、そういったことで今宵の月が紫に光ることを片付けたくはなかった。紫に光る今宵の月は不思議の国の産物であってほしいと心から男は願った。毎日同じ時間に飽きもせず種々の乗り物を走らせる、代わり映えのしない、退屈な世界には月が紫に光るぐらいのユーモアは必要だ。月の方も毎日毎日同じ色で光らず、今日みたいに色んな色で光ってくれれば、少し世界が滅茶苦茶になってくれれば、男の抱える言いようのない焦燥感もどこか紛れるかもしれない。石と土塊の地球と永遠と思えるような時間を同じ色で光り続ける月。どこまでいっても世界は石と火の玉でしかないとしたら、ないとしたら、、、
 塞ぎ込むような思いを振り払うように、もしかしたら月には光を照射する役割の存在がいて、今日は何百年ぶりかの新人が入って色を間違えてしまったのだろうかなどと考えてみる。揺れる頭では精一杯の不出来なおとぎ話だったが、今の男にとっては悪くはなかった。ただ男は世界が一定であることに飽き飽きしていた。そうした思いから解き放ってくれるものを渇望していたのである。ここではないどこかに。少なくとも今宵はその「どこか」にいるらしいのだと感じていた。男は今までにいた「ここ」にはもう帰りたくはないと望んだ。
 安酒を飲み干すと共にベンチから立ち上がり、男は家路に着いた。歩を進める男の背中を照らす、紫の月の光は男の足元に濃い影を落としていた。
 
 次の日に男が見上げた夜の月はいつもの退屈な様相を呈していた。せわしなく繰り返すその不変の世界の中で過ごす内に、男はいつしかその紫に光る月を思い出せなくなっていた。
 

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