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劇的な別れは劇中だけのものか

別れたい人とか離れたい場所にコストを支払うのはしんどいものだ。
それを押してでも受けた辛さを味わわせてやりたい、痛くても今後のために離れなければならないとかなら話は別だが、楽しさや新鮮さがなくなってきて義務感が湧いて、あるいは嫌気が差してみたいな流れなら、意識的かどうかはともかくフェードアウトしていくこともあろう。

バイト先、なんとなく合わなかったサークル、昔の仲間うち程度の人と離れるときは実際そうしてきたし、そういう温度感のコミュニティから去る人を見送ったときも多くは入江の潮が引くように緩やかだった。

覚えている限り個人対個人として喧嘩別れした経験もない。
せいぜい、重たい空気が流れがちになり、二人で会わなくなった程度か。
それが最後になるなんて思わず呑気に笑って、呑気に気まずく感じ、適当なまたねを言っていた。
疎遠になってしまったと後から気づいて、けっこう好きだったのになーあの人、とか思っている。


あくまで自分比だが、子どもの頃は気持ちを雑にぶつけ合っていた気がする。

むかつく、寂しい、もっと遊びたい。怖い。悲しい。好き。楽しい。とりあえずこっちを不快にさせたんだからお前が悪い!

本当はこれぐらい単純で、ときには相手からすると理不尽なくらいのわがままな気持ちを今でも持っているはずなのに、理屈をこねてヘンに小難しい話にしたり、黙って飲み込んで、黙って離れたり。
賢くなっちゃったなあと思う。

他人と衝突しない&不快な思いをさせないとかお互いのコミュニケーションコストを減らすという面でいえば立派な成長だけど、本音でぶつかり合うことが減るっていうのが一概にいいものだとも思えない。

まあ、本音でぶつかり合うことを他人にわざわざ推奨してくる人が自他境界ドロドロで押し付けがましいだけの人間であることも多いなとは感じる。自戒を込めて。

ともかく、クサい(例えば熱い・ウエットな・繊細な)本音を伝えるのは本当に、本当に気力のいることで、だからこそ恋愛ものに限らず「本心の告白」は物語の山場になりうるのだろう。

逆に言えば本心を伝えることが物語の山場やラスサビになりうるのはその行いが人々の心を惹きつけるものであり、相応のパワーを持っていて、魅力的だというのを何よりも証明しているのではなかろうか。


人に、こと大切な人や心を強く惹かれる相手に切実な感情を明かすのは、相手にガラスの工芸品を差し出すようなことだと思う。

撥ねつけられてしまえば粉々になるし、相手からしても間柄によっては差し出されても感激するどころか困る。

でも、だからこそそういった恐れを飛び越えて明け渡すこと自体が信頼の証になる。
最終的に受け取ってもらえたとしてもそうでなかったとしても、一つの経験として記憶の中できらめく。

この喩えでいうなら私は大小さまざまなガラス細工に囲まれている。
受け取った言葉。受け取ってもらえなかった言葉。玉砕したあとの欠片。渡せないままの言葉。
それらがひしめく中でまた新たな切子やらビー玉を作っている。


ずいぶん話が逸れたけどやっぱりフェードアウトでの別れは寂しいと感じる。
遠くないうちに、会いたい人には「会いたい」というガラス細工を渡したい。
会えなくてもいいから。

別れるも別れないも、会うも会わないも、劇じゃないからさして綺麗な流れにはならないけど、劇じゃないから、生きているうちははっきりとしたエンドマークもない。
適当に都合がついてまたするっと会えたりするんだ、きっと。

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