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日記「焼きそば/代用魚」

焼きそばのそば部分は、小麦粉製の細い麺ということになる。中華そばも小麦粉の麺だし、そばと蕎麦はちがうんだな。

我が実家では、大晦日は必ず瓦そばというものを食べる。
そばを鉄板で焼いて一部分をパリパリにしてたべる。

あれはたしか蕎麦だったはずだ。君こそが真の焼き蕎麦なのだ。
気づいていないだけでそういうものは日常の中、無数にある気がする。

似たようなものでパッと思いつくところだと、ししゃも(からふとししゃも)、あるいは赤貝(サルボウ貝)などの言葉にそれを感じる。
どちらもスーパーなどで代用魚介をそっと表記する際の、独特の表現方法だ。

焼きそばのそばは「そば(に似た小麦粉製の食品)」の略で、
ししゃもや赤貝も、「ししゃも(に似た別の魚のからふとししゃも君)」「赤貝(にそっくりなサルボウ貝)」の略といえよう。

しかし焼きそばや中華そばのそばが、「そば(に似た小麦製の食品)」として蕎麦とは異なる独自のアイデンティティを確立している一方、ししゃも(からふとししゃも)や赤貝(サルボウ貝)などは、その存在そのものが本物にもたれかかって存在している、完全なる代用品。
そばは太麺細麺と、思い思いに個性を表現している。
しかし、ししゃも(からふとししゃも)、赤貝(サルボウ貝)にはからふとししゃもらしさ、サルボウ貝らしさは求められず、本物に似ているということのみが価値になる。
もし赤貝(サルボウ貝)の缶詰に知性があったら、ミュウツーのごとき自問自答と人間の身勝手さへの恨み、本物の赤貝へのルサンチマンをその密閉された缶の中で熟成させているに違いない。

そしてやがてはスーパーの陳列棚から出奔し、「米・小麦粉」の列に代用魚だけの帝国を築き、本物への復讐を企てる。
そこへ、かつては蕎麦へ似た思いを抱いていたがそれを乗り越えた焼きそば(3個入りパック)が立ちはだかる。
うなるプルタブ、舞い散る乾麺。迫る発泡トレーの大船団。禍々しい「半額」の文字を刻印された老兵最後の大舞台……。
幾多の犠牲を出しながら辿り着いた「調味料」列の決戦において、すでに本物の赤貝もシシャモも食卓から姿を消したという事実を知った赤貝(サルボウ貝)たちは……という物語だ。

私がこの世で最も好きな魚の一つ・パンガシウスも「白身魚」としか呼ばれないが、これは焼きそばも、赤貝(サルボウ貝)たちさえも超えてもはや「白い粉」と同等の域にある。これ以上ラスボスにふさわしい存在はない。


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