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『エリカによろしく』レビュー/しらす

アート系webマガジン「artscape」にて批評家の山﨑健太さんが、先月上演されましたイエデイヌ企画「エリカによろしく」のレビューを投稿してくださいました。

作品が人の手で上演されるだけでも大変ありがたい機会ですが、観てくださった方の目と手によってこうして形が残ることは本当に幸せです。
上演内容はもちろん、戯曲のストーリーラインにもとても丁寧に触れていただいています。
足を運んでいただいた方も、気になっていたという方も、ぜひ読んでみてください。


以下日記

食事中、パッケージの「国産しらす」という文字を眺めていたら、「知らしめる」的な意味の「しらす」に見えてきて怖くなった。

もやのような半透明のパッケージの奥から、白灰色のミイラが、黒く乾いた目をこちらに向けて、押し黙っている。
夥しい数だ。
一体何をしらすというのだろうか。

瑞兆であろうか。
それとも、大災害の前触れだろうか。
警告なのだろうか。海からの。
大量の稚魚をふりかけ感覚でパックするというのは確かに、風刺画的なグロテスクさを孕んでいる。

こうなると「国産」の方も「産土」的な神霊的なワードに違いないと思えてくる。

イメージに抵抗するために一匹を取り出してじっくりと眺めると、真っ白と思っていたしらすにもグラデーションがあることがわかる。
餌の関係か、お腹が桜色をしている。目とそのの周りは黒ではなく、綺麗な銀と濃紺で、美術館に展示された陶器のように、見る角度によって色の深さと煌めきを変える。
水の流れ等を感じる側線らしきものがこの状態でもしっかりとある。
体を幾何学的に捩らせて固まっている。干物のように流線型を保って乾いていないのは、多分この小さな一つの体に、乾燥しやすい部位としにくい部位があるせいで、そうした見ることのできない要素にも大量のグラデーションがある。
一口で何匹食べているのかわからない。床に落ちたら「ほこり」と同じジャンルと見なしてしまうものなのに。

職業柄、小さな子供に食べ物を美味しく食べようと諭す機会が多い。
「おさかなさんが食べてほしいなーって言ってるよ」などと屍肉専門のドリトル先生を演じることもある。
それは半ば本心でもある。食べなければ焼却してしまうのだから、食べて生命のエネルギーになった方が良い。それに当然、功利主義的な意味合いだけでなく、食べ物に敬意を払うのは大切だと思う。

しかしそのこととはぜんぜん別方向の、到底人間の感性ではうけとめきれない無限のシチュエーションが、一匹のしらすの中にあるのだ……ということに圧倒された。
そのことへの感受性の低さは子供も私も全く同じだなとおもった。共に学んでいきたい。

しらすを見ていたらコーヒーを飲む時間がなくなっていた。
コーヒー豆……。

冷蔵庫にしらすらを戻す。
それにしても本当に、予言でもしそうな目をしている。




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