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15冊目-『82年生まれ、キム・ジヨン』

めずらしく話題の本。

話題になってるということと、「女性」がテーマであることだけは知っていたものの、実はなぜかノンフィクションかエッセイかだと思い込んでいて、手に取って初めて小説だと知ったりして。

韓国で2016年の秋に発行されてから100万部を超えるベストセラーになっているという本書。訳者あとがきによれば著者のチョ・ナムジュは「フェミニスト作家と呼ばれることを自然に受け止めており、今後もそのような視点を持って作家活動をしていくことを明らかにしている」という。

言葉通り紛れもないフェミニズム文学。「解説」(伊東順子)によれば「『これは、まさに私の話です!』読者層の中心である二十~三十代の女たちは力を込め、しかし、男たちはなぜか小声になるーというのが、二〇一八年九月現在の本書を取り巻く韓国の状況」であるなか、男性である私はこの本と、この本に描かれていること、同様に日本で起きていること、そして身の周りの女性たちに、どう向き合い、関わることができるだろうかと考えてみたりして。


チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子 訳,2018,筑摩書房)

これはキム・ジヨンという一人の患者のカルテという形で展開する変わった設定の小説で、その患者は産後うつ・育児うつのはてに他者の人格が憑依するという精神疾患を発症し、カウンセリングのなかで本人と夫から語られた話として、担当医が語り手となって物語は展開する。

この疾患自体は物語の大部分にあまり影響はしておらず、むしろ発症に至るまでの苦悩、そしてそれ以前の生い立ちや、さらに姉・母・祖母など家族の物語が主要な部分になっている。

キム・ジヨンは、その名前が1982年に韓国で生まれた女の子のなかで最も多かったところからとられているという由来が象徴するように、ごく「普通の」女性であり、そのことが多くの共感を得る要因になっているのだけれど、その「普通の」女性が、ただ女性であるということに起因して遭遇する困難の多さに、男性たちは「小声」になる。

出生の時点から母が姑に対して(男児でないことを)涙ながらに謝るところから人生が始まり、弟が生まれれば姉や自分よりも弟が優先され、小学校でも何かにつけて男子が優先、隣席の男子からのいじめに対して教師からは「男の子はもともと、好きな女の子ほど意地悪したりするんだよ」と諭され、中学・高校では痴漢・露出狂・つきまといの被害に遭い、大学での就職活動では男子学生が優遇され苦戦するうえに面接ではセクハラまがいの質問をされ、就職先では成績に差のない同期の男性社員が年俸・配属で優遇されて、取引先との会食でセクハラを受け、結婚すれば親類から「子どもはまだか」と迫られ、妊娠しても会社や地下鉄の車内で心ない言葉を吐かれ、出産に際して夫と議論に議論を重ねたが結果的には仕事を辞め、専業主婦となれば「ママ虫」(「マムチュン」育児をろくにせず遊びまわる害虫のような母親という意味のネットスラング)と呼ばれ…。


悪意はなくても

痴漢や暴言については論外だけれども、身近な人々に関してはそこに悪意がないということもこの物語の強度を高めていて、それは例えば子どもを持つことについての夫とのやりとりで。

「でもさ、ジヨン、失うもののことばかり考えないで、得るものについて考えてごらんよ。親になることがどんなに意味のある、感動的なことかをさ。それに、ほんとに預け先がなくて、最悪、君が会社を辞めることになったとしても心配しないで。僕が責任を持つから。君にお金を稼いでこいなんて言わないから」
「それで、あなたが失うものは何なの?」
「え?」
「失うもののことばかり考えるなって言うけど、私は今の若さも、健康も、職場や同僚や友だちっていう社会的ネットワークも、今までの計画も、未来も、全部失うかもしれないんだよ。だから失うもののことばっかり考えちゃうんだよ。だけど、あなたは何を失うの?」

大事に想っているというポーズが完全に裏目に出る夫氏で、終始こんな調子ですれ違う二人。

悪意や差別感情がなくても、むしろ「大事にしたい」と思っていても、「男が働き女が子育てする」という「常識」のフィルターを通すことで、そこにある不平等を温存・助長することに加担してしまう、そんな構造的な問題が暴露されていて秀逸で。

それは物語の最後、担当医による独白の場面にも見られることで、ADHD疑いの子どもを育てながら人が変わってしまった妻や、妊娠中の状態が安定せず退職することになったカウンセラーについて語るのだけれども、「私が普通の四十代の男性だったら、このようなことはついに知らずに終わっただろう」という、一見すると良識的に見える言葉から始まるからなおのこと、残酷なラストになっていて。

でも、急に彼女が辞めることになってみると、この病院の他のカウンセラーに引き継ぎする患者より、カウンセリングそのものをやめる患者の方が多かったのだ。病院としては顧客を失ったことになる。いくら良い人でも、育児の問題を抱えた女性スタッフはいろいろと難しい。後任には未婚の人を探さなくては……。

この「いろいろと難しい」の悪意のなさ、しかしそれが明らかに思考停止であることによってまた奪われる誰かの雇用機会。物語はこんなバッドエンドで、読者にカタルシスを許さない。

男性として

この本と、小川たまか『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(2018,タバブックス)を併せて読んだ女性の友人は、その感想をブログでこう書いていて。

やはりおかしいことだったのだ、と知れたことには意義があったなという気持ちと、戦うべきモノが意識に上がってしまった以上、戦わない選択をした時に今度は後ろめたさのようなものが発生してしまうんだろうなという暗澹とした気分の両方を抱きました。

私は生物学上も性自認も男性であって、だからこの彼女やキム・ジヨンに決して「共感する」とは言えないのだけれども、戦うべきときには戦い、この「暗澹とした気分」とも可能な限りともにありたいと願ったりするのであって。

たぶんそのためには、この不平等構造のうえで自分が否応なく抱えている「加害可能性」について自覚的であること、そして目の前の女性がすでに、明に暗に被害を受けている可能性について前提しておくこと、そんな心構えが必要かと思ったりしたのが暫定解で、しかしそれは当然ながら腫れ物に触るようなことではなくて、個人として与えられるべき自由と安全を当たり前に尊重すること、だろうかな、など。

男性がフェミニズムに関わることについてはこの↓記事が大変よくて、「『正しいフェミニズムを女性に教えてあげよう』などと言ってしまうような迷惑な男性には私はなりたくない」という言葉には激しく同意。

→ 女子学生が抱いた“ある嫌悪感”から考える「女子のフェミ嫌い」問題
 森山至貴(早稲田大学専任講師)


男女雇用機会均等法成立から30年以上が経って、ジェンダーギャップ指数2018で149か国中110位だったらしいこの国で、この構造はたぶん急には変わってくれなそうだとは思いつつ、次の30年、自分の子どもたちや孫たちをまたこの加害ー被害の関係のなかに押し込めてしまうことは誰も望まないだろうとも思うのであって、今から、せめて自分自身から、そして身のまわりから、この構造の解体に努めたいと思ったりするのです。


#読書 #推薦図書 #キムジヨン #フェミニズム #metoo

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