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8~13冊目-ユーラシア横断宗教本の旅~『アルケミスト』から『親鸞と道元』まで(前編)

なんだか一気に「冊数」の数字を稼ぎにいったみたいなタイトルなのだけど、さにあらず。

2月は思いがけず「宗教本強化月間」となったのでその記録をつけておこうと思ったところが、全部バラバラにするにはもったいない感じの連関性だったので、まとめてみたというわけ。

そして後から気づいたのだけど、この一連の読書がヨーロッパの西端からアジアの東端つまり日本までの「旅」のような軌跡になっていたという発見があり、その道程を辿るように綴ってみるという試みで。


パウロ・コエーリョ『アルケミスト 夢を旅した少年』(1997,角川文庫)

始まりの地はスペインのアンダルシア地方。

イベリア半島の南端、地中海の出入口にあたるジブラルタル海峡に接するこの地で、羊飼いを生業とする少年サンチャゴが主人公の小説である。

パウロ・コエーリョといえば『ベロニカは死ぬことにした』だけ高校生のころ読んだことがあって、精神病棟を舞台とした物語に子どもながらに衝撃を受けたのを覚えているけれど、『アルケミスト』はその10年前に書かれた彼のいわゆる出世作で、ブラジル国内で20万冊を超え、その後38ヵ国語にも翻訳されているという。

訳者あとがきによればその内容は「子供たちは学業に追われ、自分の本当の夢が何であるか、覚えている暇も見つけだす機会も失っています。夢を諦めずにその夢を生きることがいかに大切であるかを、この本は私達に教えてくれるのではないでしょうか」とあるのだが、はっきり言って、断じてそんな内容ではない。

確かに、サンチャゴが夢で見たエジプトのピラミッドに眠る宝物を追い求めて、海峡を渡ってモロッコから北アフリカの砂漠を東へ旅する物語ではあるのだけれど、それはたとえば「野球選手になりたい」とか「プロの歌手になりたい」みたいな夢を諦めずに努力を続けて生きる、というようなものでは決してなくて、これを一緒くたにして「子供から大人まで、すべての方々に楽しんでいただきたいと思います」などと推薦する訳者は、読者を侮っているか、そうでなければよっぽどお気楽な人だと思われる。


サンチャゴの旅がそのような軽薄な人生訓でないことは、序盤ですでに明らかになっている。アフリカにわたる直前、セイラムの王様を名乗る老人が少年に言う。

「これからおまえがやってゆくことは、たった一つしかない。それ以外はないということを忘れないように。そして前兆の語る言葉を忘れてはいけない。特に、運命に最後まで従うことを忘れずにな。」

この「前兆」や「運命」という言葉が、先の「夢」や「努力」のような言葉と住む世界が違うのは容易にわかる。特に「前兆」という言葉が繰り返し印象的に使われ、そこに宗教的な意味合いを察知することもまた難しくない。

しかも古い寓話のようなエピソードが随所にちりばめられており、禅問答のような場面も多い。


5分の1ほど読んだところで「これは宗教の本だ」と悟った私。

いったん読み進めるのを中断し、モロッコから北アフリカ・エジプトを越えて、中東に飛ぶことにした。


船本弘毅監修『地図とあらすじでわかる!聖書』(2009,青春出版社)

思えばちゃんと中身まで読んだことがなくて。聖書。

舞台はもちろんイスラエルとその周辺。イラク、ヨルダン、シリア、北はトルコまで。南はモーセの「出エジプト記」が語られるエジプトまで。

アラブ人とユダヤ人がアブラハムという共通の父祖をもつということや、そのユダヤ人系統の祖・ヤコブ(のちイスラエルと改名)の12人の子どもたちがイスラエル12部族の長となったこと、そしてこの12という数字がのちに「完全」を表す数字になったことなど、初めて知ることも多く。

イエスの最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし)なんかは、昔そんなタイトルの映画があったけどこれだったのか、みたいな発見もありつつ。


しかし『アルケミスト』との関連で重要なのは、旧約聖書が、ユダヤ・イスラム・キリスト、3つの宗教の聖典として認められているという点で(新約の方はキリスト教だけ)、つまりそこに語られる「神」は、のちに呼び名が違ったり性格を違えたりするけれども、もとは同じ「神」だったということ。

そしてその旧約聖書の冒頭、「創世記」における「光あれ」から始まる天地創造の物語を、おさえておく必要がある。

第1日 光と闇を分け、昼と夜を生んだ
第2日 大空を創り、大空の下と上に水を分け、大空を天とした
第3日 水を集め、陸と海を創った
第4日 太陽と月を創り、天の星を散りばめた
第5日 空と海の生き物を創った
第6日 地上に獣・家畜・人間を創り、人間をすべての生き物の支配者とした
第7日 すべてを創り終え、休息した
(図説からの引用)

すべてを覚えておく必要はないのだけれど、ただ6日目を知っているかどうかで、『アルケミスト』のクライマックスの見え方が大きく変わってくるのだ。

北アフリカ、ピラミッドまであとわずかまで迫ったサンチャゴのもとに帰ってその場面を見てみる。


「すべてを書いた手」

砂漠の部族の軍隊に敵方のスパイと疑われ囚われの身となった、少年と錬金術師。生き延びるための首領との交換条件は、三日間のうちに自分を風に変え、野営地を破壊するほどの風を起こすこと。

一日目は不安のまま過ぎ、二日目はじっと砂漠を見つめ、自分の心に耳を傾け続ける少年。

そして三日目、砂漠と対話を始め、続いて風と、そして太陽へと相手を変えていく。それは対話というには生ぬるく、徐々にそよ風が吹き、だんだんと強風に、そして砂嵐に変わっていく描写はまさに激闘といえるほど。


そんな場面のなかで、太陽が言う。

「もし、すべてを書いた手が、天地創造の第五日目で作業をやめていれば、すべてのものが平和のシンフォニーを奏でていただろう。しかし、第六日目もあった」

少年が返す。

「すべてを遠くから観察しているから、あなたは賢いのです」と少年は言った。「しかし、あなたは愛については何も知りません。もし、第六日目がなかったら、人間は存在しなかったでしょう。(中略)それぞれのものは自分自身をより良いものへと変えて、新しい運命を得なければなりません。そしていつの日か、大いなる魂と一つになるのです」

太陽、その力は自然界のすべての調和を司っている。ただ人間を除いては。

「わしは創造物の中で最も賢いものだと言われている」と太陽が言った。「しかし、わしはお前を風に変える方法は知らない」
「では、私は誰に頼めばいいのですか?」
「すべてを書いた手と話してみなさい」

このセリフをきっかけに、風はさらに吹き荒れ、「少年は大いなる魂に到達し、それが神の魂の一部であることを知った。そして神の魂はまた彼自身の魂であることを悟った。そして、一人の少年が、彼自身が、奇蹟を起こすことができると、知ったのだった」。


この「すべてを書いた手」が「神」に対応していることは疑いないのだけれど、物語の中で何度か出てくる「マクトゥーブ」という言葉と照らし合わせるなら、それはイスラムの神に近いものと思えたりして。

アラビア語で「すでに書かれている」を意味するこの言葉は、物語のなかで砂漠のらくだ使いが「アラーの神しだいです」に続く形で使ってもいる。

しかしそれは、この物語が、少年がムスリムとしての目覚めを得る物語だったことは意味しない。実際、砂漠のキャラバンに初めて参加する際「かしら」に「どんなことがあろうと私の命令に従うと、誓ってください」と求められたとき、少年は「イエス・キリスト」に誓っている。

実はこの前の「かしら」の言葉に、この小説の本質のヒントが語られているように思うのだ。

「ここにはいろいろ違った人たちが集まっている。そして、みんなそれぞれ自分の神様がいる。私が仕えるのはアラーだけだ。彼の名に誓って、私はもう一度、砂漠に勝ち抜くため、できる限りのことをすると誓う。あなた方もそれぞれが信ずる神様にかけて、どんなことがあろうと私の命令に従うと、誓ってください。」


砂漠の神、その<バージョン>

それぞれの神がいる、それはごく当然のことのように思えるかもしれない。

しかし思い出してほしい、旧約聖書によれば、アラーも、キリストの神も、ユダヤの神も、もとは同一だったことを。

この砂漠の地で、旧約の神はそれぞれの民のために/によって名を変え、性格を変えてきたけれども、それはいずれの人々にとっても、「大いなる魂」であり、「前兆」をもたらす「大きな意志」であったのではないか。

アンダルシアからエジプトへと渡るサンチャゴの旅は、旧約の神のこうした<バージョン>をたどる「宗教的ロードムービー」として読まれるべきではなかったろうか。

いや、そうであったからこそこれだけ多くの人々の心に届き、愛されたのだと思うのであって、決して「夢をあきらめないで」的なメッセージに世界中の人々が魅了されたわけではないと、そう信じたい。


…とか言ってたら2冊分でこんな長くなってしまった。

まだ日本までははるか遠い。旅は続編に続きます。


#推薦図書 #本 #パウロコエーリョ #聖書 #宗教

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