一生後悔することを想像してみたら。優しくしたい人のそばにいたい。
私は 地元に戻って5年経った。
私は 美大に進学した。 けど持病が見つかり治療しつつ大学に通った。 投薬治療で体調が変化し、夜眠れなくて朝起きれなくて快適に受講できず悩んだ。コンプレックスを育ててしまい、創作や制作に活発になるのがこわくなった。体調と体力に自信が持てず、人に気を遣ってしまうのでグループ展なや個展やアルバイトなども避けていた。
私は 卒業後就活も進学も考えられなかった。 すっかり自分に自信が持てなかった。ただずっとデッサンを習っていた実績の自信と、[アートが好きでその才能みたいなものはある]という希望・自負・根拠はぶれずに持っていた。半年間研究生になって版画を習った。
線を彫っている間は本当に楽しかった。
私は コンビニのアルバイトをはじめてみた。もうリアルにその時の心は思い出せないけど、とても子供っぽく怖がっていた心だった。レジでお金を預かり、数え、会計するのが死ぬほど怖かった。「ん?」「え?」と感じるときは胃がヒュッとして、手指が冷えて、足が震えそうになる。
タバコの番号を伺ったらお客さんに怒鳴らて泣きながらレジをした。そのあと帰ってひとり、部屋に向かって
「うわぁぁぁあああん
こわかったよおおおぉぉぉ」
と大泣きした。
私は その2年弱くらい後にバイトを辞めて、地元に戻った。ずっととれないもやもやした体調、沈んでなにかと不安になる気持ち、会話するとき必ず愚痴を挟んでしゃべる自分が嫌で、両親と話していたら「帰っておいで」と落ち着いた。
私は 実家に暮らすことに目的みたいなものがあったから、自分の本心で帰ることを決めた。
祖父母の死に目にあいたい
自然とこの望みが自分の中にあった。
20代真ん中のこの頃、[社会人]という自分の姿に憧れやイメージや、[こうはなりたくない]という想像をたくさんしたけれど、明確な望みがこれだった。
私は 三人きょうだいの末っ子で。
姉と兄とは 少し歳が離れてて、私は子供っぽくて甘えたで、体力もへぼな3番目だったから上手に2人とコミュニケーションをとれなかった。今ではそれでしょうがなかったと思える。
姉と兄は落ち着いていて、自分で働き姉は結婚もして赤ちゃんもいた。
そんな上のきょうだい2人をみて、自分が末っ子である意味を感じた。
私は 実家の中でいちばん若い。
私以外の家族は歳をとっている。
これを使命に感じた。
実家の環境は、ただみんなが暮らしていた。しかしやらなきゃいけないこと(仕事)がたくさんあった。
私は 箒をかけた。毎日やってもふっくら埃の塊があつまった。
私は 埃を拭き取った。
私は 積みあがっていた物を取り出した。
私は 押し込められていた物をひとつひとつ取り出した。
私は 整頓をした。
私は 模様替えをしてみた。
私は 私が使いやすいように、置き方を考えた。
私は 鈍くなったばあちゃんの、歩きやすい物の配置を思った。
私は 一度も掃除されたことがない祖父母専用のボットントイレを清掃した。
私は 共働きで家事の意識に差がある両親と祖父母の食い違いを学習した。
私は 分厚く埃のたまった古い布製のカーテンを変えた。
私は 頼まれてもないことをたくさんやった。
それは自分の健康のためで、その次に家族のためで、これで当たり前に過ごしてきた家族たちにはできないことだと思ったからだ。
私の、子どもの頃からずっと住んでた環境は。不衛生で、掃除の習慣も片付けの習慣もなかった。そのシンプルな事実に私の仕事があった。
ばあちゃんは胃ガンになって弱っていき、ばあちゃんを介助するじいちゃんも同じ歳で、ボケてるばあちゃんとの会話は乱暴になることが普通で。じいちゃん自身も体が鈍く不自由になり始めていた。
そんなじいちゃんを、ばあちゃんがデイサービスに行ってる間にドライブに連れて行って出かけた。これも私の役目に感じたから。
じいちゃんは免許を返納していて、釣りが趣味だった。釣り場へ連れていくとよく釣り仲間と話し込んでいた。
ばあちゃんが亡くなった時には、掃除と整頓をして本当によかったと思えた。ばあちゃんを惜しんで集まってくださった人々に、快適な空間の中で見送ってもらえたから。
私は 「いい子じゃない」と思われることが昔からこわかった。
私は、実家に戻ってすぐに働きに行けなかった。レストランの給仕のバイトをしてみたけど、失敗した選び方だった。その次は働くことにビクビクして、恩師の先生に付き添ってもらいはじめてハローワークへ相談に行った。
短期のバイトや職業訓練を受けて、けど就職を生活の真ん中に置いて考えられなくて過ごしていた。それを悪いことだとは自分で感じなかったが、[他人から見て指をさされることだろうか]と悩んだり心配していた。
幸いなことに、責められたことはなかったけど心配はかけていただろう。今もかけているんだろう。両親もじいちゃんも、時々会う姉と兄も私の現状や姿勢を否定しないでくれた。それをありがたく感じている。
私は 末っ子で甘えんぼだった。
ちゃんと仕事に就いて、外に働きに行き、疲れて帰ってきて家で過ごす。
それよりも
つまづきやすい家の中の環境を変えることを使命に感じた。そこが[役目]だと思った。
幸いなことに、貧窮しているわけではなかった。だからできている。
私の働き方。最期のその時までの元気に過ごせる時間を出来るだけ共有していたい。いちばん年上の祖父母たちのその時まで、余裕をもって接していたい。じいちゃんとばあちゃんに優しくしたい。そう感じたことがきっかけで、私は実家で不器用なフリーターをして、家事に頭と体力を使えるように自然体で過ごせるように工夫をしている。
[給料]が出ないと仕事じゃないかもしれない。
けれど私は私の[精神収入]を選んだ。
じいちゃんとばあちゃんの死に目に合えなかったら、それは一生後悔することだと心が素直に思ったから。
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