一領具足⑯

(なんだろう、この気持ちは)

秀吉に謁した元親は、自分の気持ちがわからなかった。

秀吉は、元親を長く苦しめた信長の後継者であり、元親を屈服させた張本人である。

それなのに、眼の前にいる秀吉に対し、ある種の感動さえ覚えているのである。

拝謁の儀には他の諸大名も列席している。

儀式の最中、饅頭が出た。

他の大名達は、その場で饅頭を全部食ったが、元親だけは饅頭の端をちぎって食って、残りを紙に包んだ。

「その饅頭をどうするつもりじゃ」と、秀吉は元親に尋ねた。

「関白殿下に頂いたありがたい饅頭でありますので、持って帰って家来共に分け与えたいと思います」

と、元親は答えた。

「そうか。そんなに気に入ったなら、残りを全てそなたにやろう。家臣に分け与えるがよい」と秀吉は言って、大名に出すために用意していた饅頭の全てを台所から持ってこさせて、元親に与えた。

(今回、儂は関白に屈した。しかし他日機会もあるやもしれぬ。その時のために、この関白から学び取らねば)

と、元親は秀吉に感じている忠誠心らしきものを、秀吉への対抗心と謙虚に学ぶ姿勢と解釈した。


(さて、ここからじゃ)

と、秀吉は思った。

秀吉の作る中央集権的国家は、諸大名が参加する敷居が低くなければならない。

そのためには、最も臣従させにくい人物を臣従させなければならなかった。すなわち、徳川家康の臣従。

それも、戦闘の可能性を最大限回避した上での臣従である。

秀吉はまず、妹の朝日姫と家康を娶せた。妹といっても既に初老であり、実質的に人質にすぎない。

家康に武力を用いることも、家康の領土を削減したりもしないという意志表示だった。

それでも家康が上洛しないので、秀吉は母の大政所を人質に送った。

もはや、中部から山陰山陽、四国に至るまで、秀吉に敵対する者はいない。しかし秀吉が九州まで足を伸ばすには、家康をなんとかしなければならなかった。

家康は観念し、上洛して秀吉に臣従した。

(これで良い)

これで、九州を攻めることができる。

秀吉は、九州征伐に取りかかった。

天正14年(1582年)4月、豊後の大友宗麟が島津氏に責められて窮し、大坂まで出向いて、秀吉に拝謁して救援を求めた。

秀吉は島津氏に大友との停戦を命令した。世に言う惣無事令である。

不思議なもので、大名が惣無事令に従うだけで、大名は豊臣政権に参加した気分になり、世も平和になった気分になり、豊臣政権が強化されていく。

秀吉は、島津を征伐することにした。

天正14年4月、秀吉は毛利輝元に九州への出陣を命じた。惣無事令の執行を見届けるためである。しかしこの時の惣無事令は、島津が無視した。

毛利の軍監として、黒田官兵衛がついていた。

官兵衛は秀吉が出陣する前に、島津勢に調略をかけていたが、寝返る者は少なかった。既に九州の大半を制する島津相手に優勢に事を運ぶには、もっと大軍を必要とした。

9月、秀吉は四国勢に、九州に向かうように命令した。すなわち長宗我部元親、仙石権兵衛秀久、十河存保。

元親は暗澹とした。元親の四国統一の戦いで、徹底的に抗戦した者達である。

秀吉は、以前はこのようなことはしなかった。

しかし、敵対した大名を間口広く受け入れていく、関白秀吉による新豊臣政権は、政権内に取り込んだ大名達を、空気圧を高めることで飼い慣らさなければならなかった。

特に、長宗我部元親。

豊臣政権で、四国を統一した元親に匹敵する功を挙げた武将は、元親の他にいない。

元親は、秀吉のかつての主君信長には手玉に取られたが、それは環境のせいだとも思っている。

元親が四国という狭い天地でなく、東海の家康のような立場にいたか、九州や奥州にいたなら、どれほど秀吉を手こずらせたかわからないと思っている。

だから元親を手に合うように矯正しようと思っていたが、秀吉は元親が煙たかったのではない。

秀吉が毛利から小早川隆景を引き抜いて独立の大名にしたように、元親も自分のために働く有能な家臣としたかったのである。


戸次川の戦いは、仙石権兵衛が強硬策を主張したために敗北したと言われる。

権兵衛は利に敏いが、名誉心が強く、長期の逆境に耐えられず、逆境で鬱屈すると、それを華々しい武功で挽回しようとする。

秀吉も、その権兵衛の性格は知っていた。

しかしそれでも、逸る権兵衛を元親が抑えてくれると思っていた。また元親が抑えられなくても、十河存保がいる。存保なら元親と仲が悪くても、感情を抑えて、元親に同調して権兵衛を止めてくれると思っていたのである。


10月、元親は十河存保、仙石権兵衛と共に、大友宗麟の嫡子義統が守る府内城に入った。

府内城に入った四国勢は、およそ6000。

「府内城を守り、野戦は行わず、持久戦に持ち込むように」

と、秀吉から指示が出ていた。

島津勢は、肥後から豊後に入る島津義弘の軍と、日向から豊後に入る島津家久の軍とがあった。

家久の軍、20000。

家久の軍は利光宗魚の守る鶴賀城に向かっており、宗魚からは救援の要請が来ていた。

元親達四国勢は、鶴賀城の救援にいけなかった。

豊臣軍はまだ兵力が足りないため、秀吉が率いる本軍を待たねばならなかった。

元親、この時48歳。

(儂も老いた)

元親は思った。(若い頃は「姫若子」と呼ばれ、臆病な心に鞭打って戦場を馳せたが、とうとう天下には手が届かなんだ。いや、織田という新しい天下が生まれ、その天下に打ち勝とうとして、ついに敵わず、関白殿下の軍門に下った。儂には及びもつかない、強力な力だった。しかし今は、関白殿下に忠を尽くすのが何より儂の為すべきことじゃ)

この頃には、元親は秀吉に負けた恨みも薄れ、すっかり秀吉に心服していた。

秀吉の人心掌握術の根幹は、「人は序列化されることを求めている」である。

さらに元親は、思う。

(儂は若い頃から功名を求めたが、何とか手元には土佐一国が残った。後はこれを、嫡男の弥三郎(信親)がつつがなく受け継いでくれることが何よりの望みじゃ。そのために儂は関白殿下に尽くす。いや殿下に忠を尽くすことが儂の生きがいなのじゃ)

元親は長年苦心して経営した、四国を失ったことによる精神の均衡をつけかねていた。

(それにしても辛いものじゃ)

元親が思ったのは、仙石権兵衛と十河存保と向き合うことである。

元親も苦手な人間はいたが、常に主君として、目上の立場で接してきた分、まだ楽だった。今は苦手な相手でも、同輩として付き合わなければならないことがある。

「くそ!」

と、権兵衛はいらいらしている。廊下を歩く時も、ずかずかと踏み鳴らして歩いていく。

(権兵衛は持久戦が苦手じゃ)

元親も、苦しい時はあったが、そこを辛抱強く耐えて、様々に画策をして逆境を跳ね返していった。

(権兵衛が四国に派遣された時の四国の形勢は、秀吉が権兵衛を派遣したくらいでは、儂の勢いを止めることができなかったのじゃ。それだけのものを儂は積み上げてきた。しかし権兵衛はその積み上げに耐えようとせぬ)

フロイスの『日本史』によれば、府内城に籠もる勢は上の原という場所に城を築くこととなっていた。

府内城に鶴賀城、それに上の原に城を築いて防衛線を形成すれば、秀吉が来るまでの間、島津の猛攻に耐えることもできたかもしれない。

しかし仙石権兵衛は、上の原の築城に熱心ではなく、兵士達は昼間から酒を飲み、遊女を呼び、博打をして暮らしていた。

権兵衛がそのようだから、元親嫌いで意気投合していた、権兵衛の与力の十河存保も同様にしていた。

(なんということを、ここに城を築けば万全なのに)

これでは元親も、自分の兵に真面目に作業をするようにとは言えない。そもそも築城は分担作業だから、元親の持ち場だけ完成しても意味がない。

(いっそ儂が一手で築城を引き受けようか)

と思ったが、元親にはまだ、四国の覇王としての矜持が残っている。仇敵の持ち場まで引き受ける、能臣としての柔軟さは元親にはなかった。

「なぜ本軍は上方から動かぬのだ!」

と、しばしば権兵衛は言った。

(島津が疲れるのを待っているのだ)

と、元親はかつて独立した大名だったから、秀吉と同じ視点でものを見ることができる。

秀吉は歴史上未曾有の大軍を、九州に送り込むだろう。しかし大軍だけに、特に兵糧の心配があり、長期の滞陣はできない。

だから毛利や長宗我部などの先鋒隊が、島津の兵力をできるだけ減らしてくれるのを期待しているのである。

また元親は、人事からも秀吉の意向を知ることができた。

九州征伐の先鋒は、西国の大名で構成されている。

しかし四国軍には、阿波の蜂須賀が入っていない。

先鋒は毛利、長宗我部、十河といった、新規に豊臣政権に参加した元独立大名、そして仙石権兵衛である。

権兵衛は秀吉の子飼いの武将ながら、秀吉に充分に評価されていない。そのことは、この府内城での権兵衛の働きからも充分に察せられる。

秀吉は、元独立の荒大名と、働きの乏しい権兵衛を、苦労と犠牲の大きい先鋒に配置したのである。

蜂須賀や加藤清正、福島正則といった子飼いや、徳川家康のような別格の有力大名は、大軍に属して楽な役目を負う。

(それがわからねば、権兵衛はずっと貧乏くじを引くだけじゃ)



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