坂本晶の「後悔するべからず」

こちらは小説専門のブログです。歴史物が多い。はてなブログでも書いてます。https://blog.hatena.ne.jp/sakamotoakirax/sakamotoakirax.hatenablog.com/entries

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最近の記事

後白河法皇㉚

(ふむ……) 後白河法皇は考えた。(これで重衡が、義経に対抗するのは自分しかおらぬと思うておるのはわかった。また三種の神器が戻るなら、試してみる価値はあるであろうな) 「平家は屋島におるのだな?」後白河法皇は尋ねた。 「は、左様で」 「康信よ」 後白河法皇は命じた。「交渉に行かせるがよい。ただし重衡の郎党をじゃ」 「郎党を?」 こちらから重衡の価値を、平家に対し高く見せる必要はない。 「重衡が交渉せよと申すから話したまで。当方は重衡にそこまでの価値ありとは見て

    • 伊達政宗㊱

      「六右衛門を呼べ」 江戸屋敷に戻った政宗は、近習に命じた。 やがて1人の男が、政宗のいる表書院に現れた。 「お呼びでござりますか」 男は平伏した。支倉六右衛門常長である。 「うむ、六右衛門、かの者はいかがしておるか」 政宗は六右衛門に尋ねた。 「かの者と申しますと、あの五島の?」六右衛門が利き返した。 「そうじゃ、その五島じゃ」 その五島なる者は、元は岩淵又五郎といった。 生まれは陸奥国磐井郡藤沢、旧葛西家の家臣の家に生まれた。現在は伊達家の領内になる。

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      • 清和源氏の興亡⑨

        永保3年(1083年)、源義家は陸奥守として奥州に下向した。 康平5年(1062年)に、父の源頼義が陸奥守の任期を満了してから、21年ぶりの陸奥下向である。 この間、義家は出羽と陸奥を避けてきたとしか言いようがない。 あるいは義家は、この機を待っていたのかもしれなかった。 美濃で同族の源氏と何度か争い、完全にではないにしろ河内源氏の優位を示した。白河天皇との間に、個人的なと言っていい主従関係を築いた。 関東から畿内まで、河内源氏が武士の主君か、または河内源氏が優位に

        • 後白河法皇㉙

          『平家物語』では、義経の「鵯越の逆落し」に より平家勢が一気に崩れたように描いている。 しかし義経が払暁に奇襲をかけ、範頼軍が生田口で午前6時に攻撃をかけたなら、義経の奇襲と範頼の攻撃にはほとんどタイムラグがないことになる。 それで平家勢がしばらく攻撃をしのいだのなら、義経の奇襲は、すぐには平家勢の総崩れにはつながらなかったことになる。 鵯越の逆落しは、敵の平家の本陣に、小数の源氏の拠点を作ったようなものだった。 僅か70騎の、義経の源氏の奇襲は、緒戦こそ平家を大いに動揺さ

          伊達政宗㉟

          「先祖の願いではなく、我が望みにござりまする」政宗は答えた。

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          清和源氏の興亡⑧

          白河天皇の母は、藤原道長の四男藤原能信の養女藤原茂子だった。 摂関家の女性で、白河天皇自身、関白藤原師実の養女、藤原賢子を中宮とした。 白河帝の父の後三条天皇は、白河天皇の皇統が続くのを望まなかった。藤原北家御堂流(藤原道長の系統)の血を引く白河天皇やその皇子で皇統が続いては、藤原摂関家の力が強くなってしまうからである。 そのため白河帝の即位に際し、後三条帝は第二皇子の、自分と源基子の間に生まれた実仁親王を皇太弟とした。 さらに念の入ったことに、後三条天皇は実仁親王の

          後白河法皇㉘

          もっとも、当時義経に同行していた三善康信が根回しをしたのかもしれない。元々貴族である康信なら、後白河法皇にも作戦の概要を伝えることができただろう。そもそも康信の同行は、対朝廷外交を引き受けてのことだった。 義経は丹波路を進み、六甲側から平家に攻撃をかけた。この経路についても源氏の首脳部は知っていたはずである。 もっとも、首脳部といっても全ての武将が知っていた訳ではない。 梶原景時は作戦の概要を知っていた可能性が高いが、一ノ谷の戦いでは範頼軍の侍大将の土肥実平と交代してい

          伊達政宗㉞

          「わっはっは!石見殿、越前少将殿のご加増のないことが悩みでござるか」

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          清和源氏の興亡⑦

          ここに、清原貞衡という人物が登場する。 名前から見て清原氏で、清原武則の子あたりかと思うと間違えてしまう。 武則の娘婿、または武則の孫の真衡、さらに真衡の父、つまり武則の子である清原武貞の別名という説もある。 そして武則の娘婿だった場合、貞衡は岩城則道の子で、母は源頼義の娘徳姫だという。 これはちょっと信じられない。この徳姫についても、平正済室という説、清原成衡室説もある。 どういうことかを簡単に説明すると、清原氏は岩城氏になろうとしていたということである。それも取

          後白河法皇㉗

          後白河法皇は、義経と謁見した。 (小柄じゃな) 目の前の白洲で、鎧直垂を着て平伏している若者を見て、後白河法皇は思った。 挙措が田舎じみていない。 (義仲とは違う) 義仲は全身が精気でできているような男だった。 しかし義経は動きはきびきびしているが、義仲のような覇気は感じない。 義経の脇に、中年の男が控えている。 梶原景時である。 「こたびはようやった、追って褒美を取らすぞ」 後白河法皇が2人に声をかけたが、 「院、恐れながら」 景時が声を挙げた。「我

          伊達政宗㉝

          政宗は仙台に帰っていた。

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          清和源氏の興亡⑥

          後三条天皇の母は皇族の禎子内親王で、宇多天皇以来の、藤原氏を生母としない天皇だった。 そのため、皇太弟時代は関白藤原頼通・教通兄弟の圧迫を受けていた。 その1例として、東宮が所有する「壺切御剣」を、「藤原氏腹の東宮の宝物」という理由で、後三条帝が即位するまでの23年間もの間、帝に献上しなかった。 このような即位の経緯から、後三条帝は反藤原というべき政治を行うことになった。 延久元年(1069年)、延久の荘園整理令を発布した。 当時、藤原摂関家は広大な荘園を領していた

          後白河法皇㉖

          梶原景季は最初、「いけづき」を欲しがっていた。 景季は頼朝に「いけづき」を所望したが、頼朝は許さなかった。その代わり景季に「するすみ」を与えた。 代わりのものを与えられて面目が立ったと思った景季だが、「いけづき」佐々木高綱に与えてしまった。頼朝にすれば、新参の景季よりも、蛭ヶ小島の流人であった頃からの郎党である高綱に褒美を与えたかったのかもしれない。 「なんだあいつ」 景季は、自分がもらえなかったものが高綱に与えられたのに納得がいかない。 高綱の後をつけて、小高い丘の上で高綱

          伊達政宗㉜

          政宗は天海について、各所に探りを入れてみた。

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          清和源氏の興亡⑤

          この後の、厨川柵攻めのエピソードは、ほとんど皇国史観である。 康平5年(1062年)9月17日、頼義は柵の火攻めを決意した。 近隣の村々から木材や藁を集めると、頼義は南西に向けて拝礼した。 南西は都のある方向である。 「かつて漢の将軍の忠節に呼応して、枯池に水が溢れて軍の窮状を助けたと言います」 と、頼義は言葉を発した。 頼義は言葉を続ける。「今、我が国においても天皇のご威光は新たかです。このご威光により大風が起こり、我が忠節をお助けくださいませ。八幡の神々よ、何とぞ風を起こ

          後白河法皇㉕

          法住寺合戦の2日後、木曽義仲は新政権作りに腐心していた。 後白河法皇を脅せば院宣を発給させることができるが、それだけにこの手はあまり使いたくない。より気脈の通じた人物を傀儡にしたい。 天皇は幼帝だから、天皇を直接に傀儡にはできない。傀儡にするなら、抵抗する後白河法皇よりも藤原摂関家がいい。しかし後白河法皇と縁の深い近衛基通が摂政では具合が悪い。 そこで義仲は、前関白松殿基房に注目した。基房は一度は平家の都落ちに従ったが、平家の陣営から抜け出して京に戻ってきていた。 しかし現摂