坂本晶の「後悔するべからず」

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坂本晶の「後悔するべからず」

こちらは小説専門のブログです。歴史物が多い。はてなブログでも書いてます。https://blog.hatena.ne.jp/sakamotoakirax/sakamotoakirax.hatenablog.com/entries

最近の記事

伊達政宗㉚

慶長8年(1603年)3月12日、徳川家康は伏見城から二条城に移った。 徳川家と朝廷の蜜月を強調するためである。伏見城は、関白を辞めた豊臣秀吉が朝廷と距離を置くために造った城で、天守閣もあり、天皇が行幸できる場所ではなかった。 洛中にある二条城には天守閣もない。天皇との蜜月関係を築いて、天下は徳川のものだと、家康は大坂にいる豊臣秀頼の生母淀殿に見せつけていた。 3月27日には、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を集めて将軍就任の祝賀の宴を行った。 家康のやり方は巧妙である。 征

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    • 清和源氏の興亡③

      今為時は、安倍富忠を調略するように、源頼義に進言したのである。 安倍富忠は、安倍の姓を名乗っているが、頼時の安倍氏との関係は不明である。 おそらく、安倍氏の勢力が北方に伸びたことで支配下に組み込まれた在地の族長で、安倍姓もその時に安倍氏から下賜されたのだろう。 安倍富忠は、下北半島に勢力を持つ豪族だった。 今為時は、安倍氏の奥六郡を、北は安倍富忠ら津軽の俘囚と、南からは源氏の、2方面から挟み撃ちにするように画策したのである。 為時の献策を頼義は喜び、早速為時を使者として派遣し

      • 後白河法皇㉓

        源氏や平氏が、武士の旗頭としてこの時期に台頭した理由がわかる。 ある武士のことが気に入らなければ、貴族はその武士の一族を系図から外して、 「あれは我が一族の者ではない」 と言うことができる。 しかし、その武士が源氏か平氏の棟梁を主君としていれば、 「我が家は実は源氏(平氏)である」とすることができるのである。源氏でも平氏でも、貴族の末裔なら、つまり平民でなければ、それに見合った権利を享受できる。 それに加えて、頼朝は荘園を本社、本主に返すと言う。 確かに、荘園は戻ってくる。

        • 伊達政宗㉙

          「左様でござるか。辰千代殿が豪儀なお方とは頼もしい」 政宗は、長安の話に合わせた。話は少しずつ不穏な方向に向かっているが、まだ話題を避けなければならないほどではない。 「ところで少将様はご存知でございますか、近頃上様が」 と、長安は家康を「上様」と呼んだ。徳川家内部では家康を「上様」と呼んでいたが、実質はともかく、名義上主君になっていない外様大名には、徳川家はまだ「上様」とは呼ばせていなかった。 「上様が、紅毛人に扶持なされたのを」 「ほう、上様が」 政宗は、小さい声で「上様

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          清和源氏の興亡②

          安倍氏は、蝦夷の俘囚である。 俘囚とは、朝廷による蝦夷征伐の後、朝廷の支配に従うようになった者達である。 安倍氏がどういう出自であるのか、中央豪族で、崇神天皇の叔父の大彦命の後裔の安倍氏の一族であるとか、神武天皇と争った長髄彦の兄、安日彦の子孫だとする説もあるが、定説はない。なお、元内閣総理大臣の安倍晋三氏は、前九年の役の反乱の首謀者、安倍貞任の弟宗任の子孫であると称している。 安倍氏は、元からの奥州の豪族だろう。 安倍氏は、俘囚長として奥六郡を支配していた。奥六郡とは、胆沢

          後白河法皇㉒

          公卿会議は続く。 頼朝、義仲、行家の三人に、それぞれ位階と任国が与えられることになった。 しかし、頼朝は功第一とされながらも、未だ上洛していない。 そこで官位は頼朝が上洛した時に与えればいいという藤原経宗の意見と、直ちに頼朝を賞すべしという、九条兼実が対立した。 (兼実はとことん反院政じゃのう) と、後白河法皇はにがりきった。 兼実の嫡子の良経は、一条能保の娘である。 一条能保の妻は坊門姫、源義朝の娘で、頼朝の同母妹である。後に兼実の家系から、鎌倉4代将軍九条頼経が出る。 要

          カノジョに浮気されて『八犬伝』かおとぎ話かわからない世界に飛ばされ、一方カノジョは『西遊記』の世界に飛ばされました 全話

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          伊達政宗㉘

          「されど」 と、政宗は声を励まして言った。「未だ百万石のお約束は果たされており申さぬ」 秀忠はきょとんとして、本多正純と目を合わせた。そして、 「わっはっは!」 と笑った。 「少将殿は豪儀な御方じゃ」 と、正純も笑った。 「お若いの、ご覧じられよ。加増はこうやってねだるのじゃ」 と、政宗も笑った。 蒲生秀行も笑っている。 政宗は道化を演じることにした。 (話はわかった。儂にとって脅威はない。されど百万石の話は別じゃ) 政宗は、徳川家にとって「困った人」を演じようとしている。

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          清和源氏の興亡①

          長元元年(1028年)、平忠常の乱が起こった。 平忠常は、新皇になったことで有名な、平将門の近い親類である。 将門の父が良将で、良将の弟に良文がいる。良文の子が忠頼、忠頼の子が忠常である。 この年の6月、忠常は安房国衙を襲撃し、安房守平維忠を焼き殺した。 平維忠は、仁明平氏、つまり仁明天皇の子孫の平氏らしいというわずかな情報が、かすかに伝わっている低度の、つまらない下級貴族である。 名前から見て、安房国の国司だったようだが、この時代によくある、受領と在地領主の争いにより、忠常

          後白河法皇㉑

          「おお、よくわかった。すぐに準備をしよう」 と、後白河法皇はいかにも乗り気な様子で言った。 もちろん、宗盛を油断させて逃げるためである。 後白河法皇はこの時のために、宗盛と協調体制を取ってきた。 宗盛も公家の協力を得なければこの難局を乗りきれないと思い、公家の意見を聞き、後白河法皇の要求も聞き入れてきた。 北陸では、源氏に好意的ながらも源氏のために兵を供出しないことで、源平双方に対しバランスを取った。北陸の状況が平家に味方することを許さなかったのもあるが、宗盛はそれを良しとし

          伊達政宗㉗

          「ふむ?」 政宗はしばらく考えていた。小十郎が何のことを言ったのかわからなかったが、 「ああそのことか」 と思い当たったようで、政宗は話し始めた。 政宗は和賀忠親を扇動して一揆を起こさせたが、本来この手の陰謀は、相手方に証拠を掴まれないのが肝である。しかし岩崎城に籠城する和賀忠親に、政宗は伊達家から援軍を送った。 「そもそも、内府殿の天下は内府殿一人の力によるのではない」 政宗は言う。家康一人の力ではなく、加藤、福島、黒田、藤堂といった有力な大名が家康を支持しているから家康の

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          (よし、いいぞ、これでバケモノはどの方向からも狙われる。体格差のせいで致命傷を与えることはできないが、小さな傷をつけていけばーー) と佑月が思ったところで、 「ーー広目天」と、バケモノが叫んだ。 すると、背中に炎の光背を背負った、甲冑を身につけた厳めしい顔の男が、天から雲に乗って現れた。 (ーーえ?あれって仏像じゃ) と佑月が思うと、 「持国天、増長天、多聞天」 と、バケモノは次々と名前を呼んだ。 (え?四天王?) 天から雲に乗って、三人の神が降りてきた。 四天王のの四人は、

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          後白河法皇⑳

           当時、北陸では白山比咩神社を中心とする反平家の闘争が起こっていた。 北陸には、白山神社が多い。 白山比咩神社を中心とする、白山神社の僧兵と、在地の北陸を武士が手を組んで、平家に反逆して自立しているというのが北陸の実態で、木曽義仲は横田河原の戦いで城氏に勝ったと言っても、この僧兵と在地武士達の上に緩やかに乗っているのであって、強い統制力は持っていなかった。 平家軍は、4月26日に越前国に入り、27日に火打城を取り囲んだ。 しかし火打城は、川をせき止めて作った人口の湖に囲まれ

          伊達政宗㉖

          伏見で、政宗は家康に謁見した。 謁見、というのがまさにふさわしい。 政宗と家康は、形式的には豊臣政権内の同僚だが、実質的な天下人となった家康との関係は、主従関係に近くなってきている。 「おお、大崎少将、よう参られた」 と家康が言うのに、 「ーーご尊顔を拝し、恐悦至極に存じまする」 と、政宗も主君に対する挨拶になっている。 「どうじゃ、近江の新領には参られたかな?」 家康は言うと、 「は、結構な所領を頂き、ありがたき幸せにござりまする」 と一応は礼を述べた。 「されど」 と政宗

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          男達は殺し合って、どんどん数を減らしていった。 そしてとうとう残り5人になったところで、男達は殺し合いを止めた。 男達は、佑月の前に集まって跪いた。 「なんなんだお前達は……」佑月は青い顔で、声を震わせて言った。 「我々のことは、スパルトイとお呼びください」と男の一人が言った。 「その者達はお前様を主と認めて跪いている。受け入れてやりなされ」 と老人が言った。 「ふざけるな!こんな目の前で殺し合いするようなおかしな奴ら……」 「これから戦おうというのに、己だけ正気を保とうとい

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          後白河法皇⑲

          平宗盛は治承5年(1181年)8月、平貞能を鎮西(九州)に、平通盛と経正を北陸に派遣した。 この2つの作戦のうち、より重要性が高いのは、より京に近い北陸の鎮定である。 しかし、兵力が足りない。 宗盛は城資職を越後守、藤原秀衡を陸奥守に任じた。 国司は、中央の貴族または武家が任じられるものであり、地方の豪族が任じられるものではなかった。九条兼実はこの人事を「天下の恥」とまで言っている。 しかし、宗盛は情勢の変化に応じる努力をしていたのである。つまり地方武士と中央の平家との間に格