後白河法皇㉙
『平家物語』では、義経の「鵯越の逆落し」に
より平家勢が一気に崩れたように描いている。
しかし義経が払暁に奇襲をかけ、範頼軍が生田口で午前6時に攻撃をかけたなら、義経の奇襲と範頼の攻撃にはほとんどタイムラグがないことになる。
それで平家勢がしばらく攻撃をしのいだのなら、義経の奇襲は、すぐには平家勢の総崩れにはつながらなかったことになる。
鵯越の逆落しは、敵の平家の本陣に、小数の源氏の拠点を作ったようなものだった。
僅か70騎の、義経の源氏の奇襲は、緒戦こそ平家を大いに動揺させた。未明の奇襲により平家は敵の数がわからず、平家の者が多く討たれたが、日が登り、敵の数が少ないとわかると、平家方は冷静に対処するようになった。しかし生田口に範頼の軍勢、夢野口に多田行綱の軍勢とそれぞれ交戦していたため、平家方は義経の率いる軍に充分な対処ができなかった。
一の谷の戦いでは、平家勢は50000〜70000いたという。
いかに奇襲で本陣を突いても、70騎で勝利できる数ではない。
時間が立てば、70騎は討ち取られて終わっただろう。奇襲による本陣の混乱は源氏方に有利に働いたのは間違いないが、戦闘全体の大勢を決するほどではなかった。
熊谷次郎直実らはたったの5騎で、塩屋口で平家を相手に戦ったが、多勢に無勢で危うく討ち取られるところに、土肥実平の7000騎が駆けつけた。
義経は奇襲で平家が壊乱しなかった場合に備え、実平を海岸沿いに東に向かわせ、塩屋口を突くように命じていたのである。
塩屋口に直実達を向かわせたのも義経で、表と裏の両面から塩屋口の門を破らせるためだった。わずか5騎でも、義経が本陣を突いていれば、実平が着くまで持ち堪えるだろうというのが義経の計算だった。
塩屋口は激戦となったが、平家方は熊谷達によって陣形を乱されている。
まもなく、平家の塩屋口の門は打ち破られた。
それでも平家勢は粘った。実平の軍勢は、押しつ押されつしながら、少しずつ一の谷の平家の本陣に向けて前進していった。
義経の65騎は、塩屋口へと向かう平家勢を背後から襲い、そのたびに平家勢の士気を乱した。
平家勢が義経らに襲いかかると、義経らは逃げた。しかし実平の軍勢に押され、また実平を相手にせざるを得なくなる。そこにまた義経らが戻って、後方をかき乱した。
同じことを何度か繰り返し、平家方の旗色が悪くなってくると、義経勢は火矢を放ち、各所に火をつけた。
総大将の平宗盛は、安徳天皇や建礼門院徳子と共に、沖合いの船にいた。
一の谷の本陣の様子は、宗盛の元にも報告が届いている。しかし宗盛は命令を与えず、大将軍の知盛に指示を仰ぐように命じた。
安徳天皇を擁する以上、宗盛が安徳天皇の側にいるのは決してまずくはない。しかし本陣が奇襲を受けるのを想定していないのは明らかであり、状況に応じて指揮を執るには、海上は遠かった。
知盛に指揮を委ねるのも正しいが、知盛は生田口におり、一の谷の本陣は知盛の背後になる。知盛の集中力が前面から削がれるのは、戦略上良くなかった。
宗盛には清宗という、当時15歳になる嫡子がいた。
同じ平家一門でも、安徳天皇を任せるのは危険と考えるなら、清宗に安徳天皇を守護させ、自分は本陣にいるべきだっただろう。清宗の若さを危ぶんだのだろうが、宗盛の軍事への暗さ、自身の無さが、ここでマイナスに働いた。
また知盛の指揮権を超越して、生田口から大軍を割いて奇襲部隊を殲滅し、素早く知盛に指揮権を返すという手もあった。そういう芸ができないから、宗盛は海上にいるのだが。
土肥実平が塩屋口に到着したのは、午前8時を過ぎることはなかっただろう。それよりも遅れていたら、熊谷ら5騎は全滅したはずであった。
平家勢の動揺は、一の谷の本陣から東へと、波のように伝わった。
平家一門の中で最も軍事に優れた平重衡は、西の本陣の情勢を聞いて敗北を悟った。
すぐに本陣に向かって態勢を立て直さなければと思い、生田口を共に守っていた知盛に任せ、本陣に向かおうとした。
が、すぐに本陣は総崩れになって立て直せないとわかり、重衡は夢野口に向かった。敗勢を立て直すためではなく、兵を安全に海に逃がすためである。
塩屋口にいた平忠度は、逃げようとしたところを岡部忠澄に組まれた。
なお忠度が優勢だったが、忠澄の郎党が駆けつけて忠度の右腕を斬り落とした。
死を覚悟した忠度は端座し、念仏を唱えた。忠澄は忠度が念仏を唱え終わるのを待って、忠度の首を刎ねた。
午前11時頃、範頼は一の谷の平家の本陣から煙が挙がっているのを見た。
実平の塩屋口への到着から、平家勢は3時間は粘ったことになる。
範頼は後詰めを投入し、全軍に総攻撃を命じた。
こうして、勝負は決した。
まず、塩屋口の平家勢が船に向かって殺到した。
しかしこの時代、平家のように水軍を持つ勢力でも、全軍を収容できる船を拠点に持つことはない。
兵が殺到しても船が足りず、溺死者が続出した。
宗盛は敗戦を悟ると、安徳天皇、建礼門院と共に屋島に向けて出航した。
平重衡は、夢野口の兵を立て直して船のあるところまで連れていくことができず、馬を射られて梶原景時と庄家長に捕らえられた。
知盛は嫡男の知章と郎党1人の3騎で逃げ、源氏の児玉党に追いつかれた。
知章は児玉党の大将の首を取ったが、源氏の兵に囲まれて壮絶な戦死を遂げた。享年16。知盛はからくも追手を逃れた。
熊谷次郎直実は、塩屋口での戦闘の後も、なお敵を探していた。
すると海に馬を乗り入れ、沖の平家の船に向かって馬を泳がせていく1騎の武者がいる。
「そこの武者、敵に背を向けて逃げるのは卑怯であろう。お戻りなされ」
と、直実は武者に呼びかけた。
武者は引き返してきて、直実と組んだ。
しかし百戦練磨の直実である。武者は簡単に組み伏せられた。
武者の顔を見ると、うっすらと化粧をしており、平家の公達とわかる。
直実は武者の首を取ろうとしたが、若い武者の顔を見て、思わずためらってしまった。
(若い……我が子直家と同じくらいか)
と思った直実は、
「物その者で候わねども(大した者ではないが)、武蔵国住人、熊谷次郎直実」
と名乗った。しかし若武者は、
「お前のためには良い敵だ。名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやか首を取れ」
と叫ぶのみである。
直実は若武者を逃がしたかったが、直実の後ろからも、源氏の武者が迫ってきている。
(逃がしても、とても逃げ切れまい)
と思った直実は、かくなるうえはやむなしと、泣く泣く若武者の首を取った。
若武者の首実験をしたところ、若武者は平清盛の弟経盛の末子敦盛、齢は16とのことだった。
直実は世の無常を感じ、後に高野山で敦盛を供養し、法然に帰依して出家した。
(なんとーー)
報告を聞いた後白河法皇は仰天した。
(義経とは、はたして相当のいくさの才のある者なのか?)
後白河法皇にはわからない。
最近でこそ、武力を持つ武家に密かな敬意を抱くようになった後白河法皇だが、長年の間、自らがいくさでの武将の強弱を判断できるようには、後白河法皇は自分を作り上げてこなかった。
(頼朝はどう思っておるのじゃろう。自分の弟を才ある者と思うておるのじゃろうか)
頼朝が義経の才能を認めているなら、後白河法皇としては、義経の取り込みに積極的にならざるを得ない。
(清盛や義仲なら、義経をどう思うのであろう。武家同士、いくさの才についてわかり合うものがあるのじゃろうか。武家でなくてもーー信西ならどうであったろうか)
後白河法皇は、信西のことを思い出した。後白河法皇の乳母の夫で父のような存在であり、保元の乱を企画した信西。数で劣勢でありながら夜襲の提案を退けた敵の藤原頼長に対し、優勢ながらも夜襲で事を決した信西。
武家でないのに、武家のようにいくさを進めた信西なら、武将の優劣について、他の貴族とは違う視点を持っていただろうか。
(基準が欲しい。わからぬというのは気を揉むことじゃ)
と後白河法皇が思っていると、三善康信が参上した。
(はて?)
康信は頼朝の対朝廷外交の担当者である。
(この時分になんの用じゃろう)
康信を通すと、康信がいかにも当惑した表情で現れた。
「実は、先三位中将(重衡)が申すことありと」
康信は述べた。
「なんと?」
「先三位中将は、おん身と神鏡剣璽(三種の神器)を交換するよう、先内大臣殿に建議せよと言上しており申す」
「はて……」
平静を装ったが、後白河法皇は実は、飛び上がらんほどに驚いている。
(なるほど、重衡は平家にとって重要であろう。されどその取引、成立するのか?)
三種の神器が京都朝廷へと返還されれば、安徳天皇を廃帝とすることも可能なのである。既に平家追討の院宣により平家は賊軍となっているが、「三種の神器を持つ我らこそ正統」と平家は主張できる。三種の神器を失えば、平家は完全な賊軍扱いで、体勢を立て直すこともできないまま滅亡するだろう。
(先三位中将は、三種の神器より平家にとって重要であるのか?)
今までで強い武将は、一番は義仲だった。この時代は争いの期間が短く、わずか1勝で名将となれたが、義仲は倶利伽羅峠の戦いでの鮮やかな勝利が大きかった。
義仲の次に名将と呼べるのは、やはり重衡だろう。重衡は墨俣川の戦いで、連戦連勝の源氏の進行を止めた点で、義仲に次ぐだろう。
(先三位中将は、自分でなければ義経に対抗できないと思っておるのか?たとえ三種の神器を失ったとしても)
後白河法皇は考えたが、実感のないことである。
目の前に三善康信がいる。
(……聞いてみるか?)
康信を見て、後白河法皇は思った。
(しかし、頼朝にこちらの意図を見抜かれるのは……)
逡巡し、後白河法皇は意を決した。
「もそっと寄れ」
後白河法皇は命じた。「先三位中将は、正気に見えたか?」
「まろも先三位中将を拝顔してはおり申さず」
康信は答えた。「されど、梶原平三(景時)の申すところでは、至って正気であったと」