伊達政宗㉙

「左様でござるか。辰千代殿が豪儀なお方とは頼もしい」
政宗は、長安の話に合わせた。話は少しずつ不穏な方向に向かっているが、まだ話題を避けなければならないほどではない。
「ところで少将様はご存知でございますか、近頃上様が」
と、長安は家康を「上様」と呼んだ。徳川家内部では家康を「上様」と呼んでいたが、実質はともかく、名義上主君になっていない外様大名には、徳川家はまだ「上様」とは呼ばせていなかった。
「上様が、紅毛人に扶持なされたのを」
「ほう、上様が」
政宗は、小さい声で「上様」と言った。
紅毛人とは、南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルの人々に対し、イギリス、オランダの人々のことを指す。スペイン、ポルトガルなどラテン系の人々が、黒髪、褐色の肌であったのに対し、金髪、碧眼であることに特徴がある。
宗教も、南蛮人がカトリックであるのに対し、プロテスタントである。
家康が雇ったのは、イギリス人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンである。
二人は、オランダのリーフデ号に乗っていた。
リーフデ号は、ロッテルダムから極東を目指した5隻の船団の中の1隻だったが、船団は航海の途中で様々な危難に遭い、極東に到達した時は、船団はリーフデ号のみになっていた。リーフデ号も、オランダ赤痢や壊血病が蔓延し、インディオの襲撃で船員が殺されるなど、惨憺たる状況で航海を続けた。
リーフデ号は、関ヶ原の戦いの約半年前の慶長5年(1600年)3月16日、豊後国の臼杵に漂着した。
家康は大坂でアダムス達を引見し、アダムス達を気に入って江戸に住まわせ、幾何学や数学、航海術などを家康の家臣に教えさせ、また外交交渉の通訳をさせたりした。
当時、秀吉によってキリシタンは禁令となっていた。
カトリックのイエズス会が、スペイン、ポルトガルによる世界の植民地化の手先となっており、日本でも九州の大名が土地の一部をキリシタンの領土としたりしていた。
家康は彼ら紅毛人がカトリックでなく、キリスト教の布教の意志がないことを知ると、アダムスとヨーステンを重用し、アダムスには三浦按針、ヨーステンには耶揚子の名前を与えた。
「ほう、それでは上様は、南蛮人とは貿易をなさらぬご所存か」政宗は言った。
「いやそれが、そうでもございませんでして」
長安は言った。
長安によると、家康は秀吉以来のキリシタン禁令は引き継いでいるが、禁令に基づいてキリシタンを処罰する気はないらしい。
またアダムスを外交顧問とした家康は、フィリピン総督に宛て、公貿易船の証として、日本からフィリピンに渡海する朱印状を交付することを伝えた。
(なるほど、こちらから出向くのか)
日本に入国した南蛮人相手に貿易をするのでなければ、日本でのキリシタン布教の弊害も、最小限にできるだろう。
(儂も貿易ができればな)
前回、秀吉の貿易の方法について述べたが、秀吉が木綿を買った後は、他の大名や商人が南蛮人と貿易してよいことになっていた。しかし秀吉が最大の取引を行っているので、残りの貿易で得られるのはコバンザメの利益にすぎなかった。
それに南蛮船は、大抵は九州までで、来ても堺までが限度であり、奥州まで来ることはない。奥州の大名は、貿易をする機会がなかった。
しかし大名や商人が自ら船を仕立てて、フィリピンまで行って貿易をすれば、貿易の利益は全て自分のものとすることができる。そして奥州の大名でも、貿易ができるのである。
「長安殿、どうであろう、儂もその朱印状で貿易をしてみたいのう」政宗が頼むと、
「それはよろしゅうございます。それがしから上様に申し上げてみましょう。少将様はすぐにも朱印状を賜るでございましょう」
と、長安は請け合った。
(天下を狙うなら、貿易をせぬ訳にはいくまい)
政宗は思う。前回の秀吉の貿易の例に見るように、たとえ秀吉が全国の金銀鉱山の全てのを得ていなくても、貿易によって、秀吉の富は他を圧するものになっていたのである。しかし一方で、
(この長安という男は、なぜこうも安請け合いできるのだろう)
と思っていた。
長安は、政宗を罠にかけるために家康が遣わした男である。
(家康に言い含められているのか。それとも長安自身、家康に騙されているのか?)
長安が騙されているなら、長安は政宗を道連れに破滅するということになりかねない。

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