伊達政宗⑪

政宗は南下し、安子島城に入った。
この時である。蘆名氏の重臣猪苗代盛国が政宗に内応してきたのは。
時に天正17年6月1日。
盛国の離反の理由だが、これがなかなかひどい。
実は盛国は、天正13年(1585年)に嫡子の盛胤に家督を譲っており、この時は隠居の身だった。
しかし盛国は後妻の子の宗国を溺愛しており、後妻の讒言もあって、盛国を廃嫡しようと画策した。
そして今回の政宗の進撃を利用して、居城の猪苗代城ごと寝返ってしまったのである。
哀れなことに、嫡子の盛胤は居城を父に奪われた挙げ句、蘆名側に取り残されてしまった。
実に醜いが、そこは戦国の世、非情な時代である。当然そんな事情での寝返りも政宗は受け入れるのだったーー。
さらに政宗は、原田宗時を米沢から南下させていた。北と東から会津黒川城を攻撃する態勢である。原田軍が合わされば、伊達勢は23000にもなった。
一方、蘆名は佐竹や二階堂などの諸軍を合わせて16000ほどの軍勢を集め、田村領に侵攻しようとしていたが、政宗が黒川城に迫っているのを見て黒川城に撤退した。
政宗は6月2日に本宮城に入城した。
「ーー蘆名は黒川城に籠るということはあるまいな?」軍議の席で政宗が言った。
「蘆名も兵力は充分、まず一度は野戦を挑むでございましょう」小十郎が言った。
「ふむ、である、な」
4日に猪苗代に入った。
5日、蘆名義広もまた猪苗代の方に進出してきて、日橋の北の丘に陣の敷いた。

敵味方双方の兵力を直接にぶつけ合う大会戦は、その戦いに勝利した方が大きく領土を広げるチャンスとなり、古今東西、多くの名将が大会戦での勝利により、歴史に名を残す功績を挙げている。
日本では、源義経が一ノ谷、屋島、壇ノ浦と3つもの大会戦を勝利することで、平氏を短期に滅ぼすというかつてない受勲を挙げた。
しかし戦国時代になって、このような大会戦に恵まれた武将はそんなにいない。厳島の戦いの毛利元就くらいのものである。
戦国の覇王織田信長でさえ、桶狭間、姉川、長篠という3つの大会戦に恵まれながら、それが領土の急拡大に直結していないのである。
それだけ稀有な大会戦に、政宗はこれから突入していくことになる。

蘆名勢に対し、伊達勢は先手猪苗代盛国、二番手片倉小十郎、三番手伊達成実、四番手白石宗実、五番手が政宗の旗本、六番手浜田景隆、左手大内定綱、右手片平親綱という陣立てだった。
蘆名勢は伊達勢の先手と二番手を崩したが、自らも押されて摺上原に後退した。
数の上では、伊達勢と蘆名勢の差は僅かである。
強いて言えば宮城伊達勢は大崎、葛西の鉄砲衆がいるため、その分鉄砲の数が蘆名より多いと言えるだろう。
長引けば蘆名が不利、ということは蘆名もわかっている。しかしそれまでには、伊達勢も相応の手傷を負っているだろう。
頃合いを見て、蘆名は撤退する。その撤退も手順をちゃんと踏めば、被害を受けることなく黒川城に帰城できる。
(これはそういう決まりきったいくさじゃと、蘆名に終始思い続けさせるのが肝心じゃ)
と、采配を握りながら政宗は思った。
三番手、四番手も突進したが、蘆名の旗本は突破できなかった。
(4年前の人取橋では、橋を壊しておけばああも無惨に負けはしなかった)
こうして旗本同士の戦いになったところで、風向きが西から東に変わった。
史書ではこの風向きの変化で勝負が決まったというが、鉄砲伝来以前ならともかく、鉄砲が主力の戦国後期には、風向きはそこまで重要ではない。鎧も鉄砲に強い当世具足が普及しており、弓矢に殺傷力はないに等しかった。
風向きの変化は、砂ぼこりが目に入る程度の不利に過ぎず、数時間に及ぶ戦闘で疲れ、死傷者が増えてきた中で、この辺が潮時を思ったに過ぎない。
蘆名勢は引き鐘を叩いて撤退した。日橋を渡れば安全に撤退できるはずだった。
川を渡ろうとして、蘆名勢は唖然とした。
橋が壊されていたのである。蘆名勢が戦いに気を取られている間に、猪苗代盛国の手勢が橋を破壊していた。
兵士達は朝から戦って疲れており、橋を渡って城に帰還すれば人心地がつけると思っていた。
しかし橋が壊されていることで、兵士達は恐惶を発した。
恐怖に取り憑かれた兵士は、もはや戦闘の用に立たない。
蘆名勢は川に飛び込んだが、疲れきった体と重い当世具足ではろくに泳げない。
そこに伊達勢が背後から攻撃を仕掛けたので、蘆名勢は壊乱と言っていい様相となった。蘆名勢は騎馬で300騎、徒士(かち)が2000討ち取られた。
摺上原の戦いは、人取橋の敗戦を教訓とした、政宗の数年間の戦いの集大成だった、
蘆名義広は黒川城へと戻ったが、損害が大きい上、兵士の士気が低下しており、さらに相次ぐ裏切りにより、城を守りきれないと判断した。
10日の夜、義広は黒川城を捨てて、先に義広が養子になっていた白河に戻りさらにその後佐竹に戻った。
猪苗代盛国の嫡子だった猪苗代盛胤は、その後仕官することなく、猪苗代にある内野村で終生過ごし、寛永18年(1641年)に77歳で死んだ。よほど元の領民に同情されたのだろう。盛胤の子孫は会津松平家に仕えた。
政宗は翌11日に黒川城に入った。
南会津の蘆名の旧臣達は、上杉景勝を頼って伊達の進撃に抵抗した。
景勝は秀吉から、
「惣無事令もあることゆえ、蘆名のために兵を出してやれ」
と命令されていたが、裏では、
「伊達とはほどほどに戦って引き、会津は伊達にくれてやるように」
と内命を受けていた。蘆名の旧臣達は、9月までには伊達の軍門に降った。
こうして政宗は旧蘆名領の哀津郡、大沼郡、河沼郡、耶摩郡の4郡全てに、安積郡の一部、下野国塩谷郡の一部、越後国蒲原郡の一部を手に入れた。
会津だけではない。
白河の結城義親、石川昭光が政宗の傘下に入った。
須賀川の二階堂氏は当主がおらず、政宗の伯母の阿南の方が須賀川城主となっていた。
阿南の方は先々代の二階堂盛義の正室で、盛義の死後嫡子の行親が継いでいたが、行親が急死したため城主となっていた。夫の盛義の死で得度し、大乗院と号していた。
大乗院は蘆名義広の前々当主の蘆名盛隆の母、蘆名亀王丸の祖母でもある。
つまり伊達家出身でも蘆名と関係が深く、また佐竹との関係も深い。
政宗は大乗院に何度も降伏を進めたが大乗院は受けつけず、徹底抗戦の構えを見せた。
10月になって、政宗は須賀川城を包囲した。
須賀川城には岩城と佐竹からも援軍が来た。しかし政宗が会津を手に入れた以上、南奥州の大勢は伊達優位で決しており、佐竹としては、惣無事令に反抗してまで形勢を逆転するための加勢をする気はなく、あくまで義理の加勢だった。
須賀川城は激しく抵抗したが、重臣の守屋俊重が政宗に内応し、本丸の隣にある二階堂氏の菩提寺である長禄寺に放火すると、火は城に燃え移り遂には城が全焼して落城した。
政宗は大乗院のために、母の久保姫(つまり政宗の祖母)の住む杉目城に住むように配慮したが、大乗院はよほど伊達家に保護されるのが嫌だったらしい。
大乗院は甥の岩城常隆(常隆の父の岩城親隆が大乗院の兄)を頼って岩城に行き、翌年岩城常隆が死ぬとまた甥の佐竹義宣(母が伊達晴宗の娘宝寿院)を頼って常陸に移った。
ここにきてとうとう、岩城常隆も政宗の軍門に降った。
こうして、南奥州で伊達家に従わない大名は相馬だけとなった。
会津は、古代からの交通の要地である。
日本最初の実在の天皇だと推測される崇神天皇は、四方に四道将軍を派遣して日本の大部分を統一したが、そのうち北陸に派遣したのが大彦命、東海から関東に派遣したのが大彦命の子の
武渟川別(たけぬなかわわけ)だった。この二人は会津で落ち合い、そのためにこの地は会津と呼ばれるようになった。
政宗は拠点を米沢城から黒川城に移し、母と愛姫ら妻妾も黒川城に移った。
「殿はご大身となられましたからには、この城はいかにも手狭でございます。他家からの使者も多くなりました。今のままでは外聞が悪うございます。この際御普請をなさって、城も城下の町も整えるのがよろしゅうござりまする」
と重臣達は言ったが、
「儂はいつまでもここに腰を据えようとは思わん。これからは関東に打って出て、少しずつ領地を広げようと思うておる。そなた達の所領も少しずつ増やしていくつもりだ。今は体裁など気にせず、奉公に励むが良い」
と政宗は言った。
政宗の鼻息の荒さが聞こえてくるようである。
しかし片倉小十郎は一人、浮かぬ顔をしていた。
(うまく行き過ぎている。このまま伊達の伸長を関白殿が認めるものかどうかーー)
九州征伐から3年、もはや西には秀吉に逆らう者はなく、徳川家康は既に秀吉に臣従し、北条は独立の体を保っているが、惣無事令により、秀吉の圧力は強まっている。
(今後もこのまま、関東や奥州の大名の独立は認められるのかーー)
そんな小十郎の心配をよそに天正18年の正月7日、政宗は連歌の会で、
「七草を 一手によせて つむ菜かな」
と句を詠んだ。
春の七草を一手で摘み取ると、いかにも春をことほぐ歌のようだが、この七草とは仙道七郡、つまり信夫、安達、安積、田村、岩瀬、石川、白河の七郡のことである。「摺上原の戦いで仙道七郡を一手に取ってしまった」という、政宗の得意な心境を表した句であった。
その石高は70万石。元の領国と合わせて140万石となり、押しも押されぬ奥州の覇王だった。

しかし関東では、既に政宗の野望を覆す事件が起こっていた。

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