伊達政宗⑬
小田原での、秀吉への初の謁見で、政宗は懐に短刀を忍ばせていたという。
「まさか」
政宗が聞いたら笑うだろう。仮に秀吉を刺すことができても、政宗はこの21万の大軍の中から生きて出ることはできない。
そんな話は江戸時代にできた講談などで広まったもので、戦国時代の武将は、利害打算には実に執拗だが、どんな境遇でも常に生き残りを図っており、命がけの刺殺などよほどの窮地に陥らない限りしない。
しかし、政宗なりの「短刀」はある。
政宗の領国には、実質伊達家の傘下ながら、独自の大名扱いで小田原征伐の参陣を呼びかけられた大名達がいる。
政宗はその者達を国許に留めた。この大名達の主君は政宗だから、政宗が参陣すれば大名達は参陣しなくて良いという理屈である。
しかし政宗は小十郎と話し合って、これらの大名は参陣しなければ改易されると読んでいた。
秀吉は毛利、長宗我部、島津、上杉など、有力な戦国大名の元々の領地を温存しながら天下統一を進めてきた。
しかし秀吉の天下統一の本質は、国人や地侍といった中間搾取層を廃し、農民を直接支配することにあった。そのためには多くの大名を改易して、そこに自分の子飼いの家臣を大名に据える必要があった。
秀吉はこの小田原征伐に奥州の大名に参陣を呼びかけることで、関東だけでなく奥州も一気に傘下に治め、天下統一を完成させようとしていた。
もしここで政宗の首を打てば、伊達領は無主の地になり、周辺の大名によって分割されるだろう。しかしその場合、伊達家傘下の大名達が素直に秀吉に臣従する保証はない。つまり小田原征伐の後、もうひといくさしなければならないということである。それは秀吉が軍を動かせば、あれよという間に天下が統一されていくという印象を世間に与えたい秀吉としては面白くないことである。
さらに秀吉に従わない大名の勢力次第では、秀吉は自分で軍勢を動かすことをせずに、上杉などの近場の大名に討伐を命じることになる。その場合制圧した領地は、全て制圧した大名のものになる。そうなると秀吉の天下構想に少しずつ齟齬が生じてくる。
政宗は会津を出立する前に、弟の小次郎を殺している。
政宗の会津出兵の名目は、小次郎の蘆名への養子入りが佐竹によって阻まれたからだった。
しかしその小次郎ももういない。つまり政宗に、会津を維持する名目はなくなった訳だった。
残念だが、会津は取り上げられるだろう。
そして、政宗を生かしておけば、会津と政宗傘下の大名の領地がいくさ無しで手に入る。
これが、政宗が用意した秀吉への「短刀」だった。
秀吉は立ち上がり、杖を持ち上げ、その杖で政宗の首のあたりを軽く杖で叩いた。
「そちも命冥加よのう、もう少し参陣するのが遅ければ、そなたの首から上はなくなっておったぞ」
と秀吉は言った。
政宗はひやりとした。
政宗はまだ若く、天下を相手に命がけで駆け引きするのは初めての経験である。動揺しない訳がなかった。
「そちはこの小田原で何をするつもりじゃ?」
「はっ、それがしは田舎者にて、上方で流行の茶の湯を知りませぬ。此度殿下のお膝元にて参陣する機会を得たからには、是非とも御高名なる千利休殿に茶の湯を習いたいと思っておりまする」
政宗が言うと、秀吉は破顔一笑した。
秀吉は朱鞘の大太刀を鞘ごと抜き取り、
「そちにこれを授けよう」
と政宗に渡した。
「ははっ!ありがたき幸せにこざりまする」
政宗は両手でうやうやしく大太刀を受け取った。
「そちもこれほどの軍勢を目にするのは初めてのことであろう。よく見ておくが良い」
と言って、秀吉は小田原城に向かって歩いていった。
政宗は太刀を持って、秀吉の後をついていく。
そして秀吉は、大太刀を持つ政宗に無防備に背中を見せながら、布陣している各所を杖で刺しなから、あの陣はどこそこの軍勢、あの陣はどこそこの軍勢と説明をしていった。
政宗は秀吉の側にしゃがみ、太刀を膝の上に立てて秀吉の説明を聞いていた。
「どうじゃ左京大夫、このような軍勢は見たことがないであろう」
説明を終えて、秀吉が政宗に言った。
「はっ、まさに史上空前、奥州ではこのような大軍を集めることは叶い申さず、この政宗目が眩む思いにこざりまする」
秀吉は笑い、
「利休に茶を習うこと、指し許す」
こうして初の秀吉への謁見は終わった。
翌日から、政宗は千利休に茶の湯の指導を受けた。
それにしても、この小田原は政宗の目を見張るものが実に多かった。
秀吉は小田原征伐にあたり、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5ヶ国で5万石の米を買って兵糧に当てており、21万もの大軍を動かしてなお兵糧は潤沢だった。
長引く対陣で士気がだれるのを防ぐため、秀吉は遊女を呼び、兵士を遊ばせることで士気の低下を防ぎ、また大名には望む者は妻子を呼び寄せるように言い、自分もまた側室の淀殿を呼んでいた。
「このようないくさは儂は見たことがない」
政宗は若いだけに、さすがに度肝を抜かれていた。
「北条はどうなるのだろう」
と、政宗は小十郎に言った。
「ーーはて」
小十郎はしばらく考えて、
「関白殿下のご胸中は図り知れぬことでござりまするが、殿下は寛容であることで天下にその名を大いに売り出しておりまする。されど北条は100年続く名家であり、関東一円を支配する北条は関白殿下の天下統一の障りになるでありましょう。この小田原を兵糧攻めにしているのを幸い、北条家は取り潰しになさるのではこざりませぬか」
と答えた。
「なんと、北条が取り潰されるならこの関東はどうなる?」
政宗がさらに尋ねると、
「左様ーー」
小十郎はさらに考えて、
「北条は善政をもって知られ、並の大名では北条の旧領を受け継ぐことができませぬ。もし北条が改易されれば、いくさの経歴も古く、豊臣家で一番の大身である徳川殿を殿下は関東にお移しなされるのではありますまいか」
やがて政宗は、国許に帰ることを許された。
それにあたり密かに内意が告げられた。
「旧領を安堵する」
ということである。政宗の家督相続時の領土に加え、田村家は改易された上で政宗に与えられることになった。
(概ね、予想通りの結果となったな)
政宗は思った。
会津は、手放さなければならない。
しかし名目上同盟関係で、実質は政宗の傘下にあった田村家は、政宗と愛姫の間に子が生まれないことで、昨年も争乱の元になった。今は宗顕を当主代理としているが、長く当主代理の座にいれば野心を持つこともあり得る。
一旦田村家が改易されることで、田村領が政宗の所領となり、田村家の跡継ぎが生まれてから田村家を再興すれば良い。それだけの時間を政宗は得たことになる。
旧領と田村領の安堵との引き換えは、会津と伊達家傘下の大名領の平和裏の引き渡しである。
(嫌な役目だが、旧領を保つためじゃ)
天正18年6月14日、政宗は小田原を出立した。
帰路は関東をそのまま北上し、25日には会津に着いた。
6月26日、秀吉はかねてから小田原城からは見えないように築いていた石垣山城が完成し、木を伐採してその外観を小田原城の衆に見せた。世にいう石垣山の一夜城である。
政宗は米沢への居城の移転を進めた。
7月5日、北条氏直が秀吉に降伏を勧告した。
13日、秀吉は小田原城に入城し、徳川家康の関東入部が発表された。
その後秀吉は鎌倉、江戸を通り、宇都宮城に入った。
政宗も宇都宮に向かい、秀吉を迎えた。
この宇都宮で、秀吉は奥州仕置を発表した。
岩城、白河、石川、大崎、葛西といった大名達は改易された。
会津と政宗が征服した地域には、蒲生氏郷が、大崎、葛西の地には木村吉清が入ることになった。
秀吉は政宗の案内により北上し、8月9日に会津に入った。
政宗は苦心惨憺して手に入れた会津が人手に渡るのに腸が煮えくり返ったが耐えるしかなかった。
秀吉は12日には会津を発ち、亰に戻っていった。
こうして奥州の全てが秀吉の傘下に入り、秀吉の天下統一は完成した。
(ここまでは関白の思うようにさせた。儂の戦いはこれからじゃ)
政宗は小田原で、秀吉を中心に起こっている桃山文化を見た。
実に豪華絢爛、きらびやかな装いは、政宗の若い感性を激しく刺激した。
(あれは良いものじゃな、儂もああいう建築をそのうちしたいと思う。しかし今はそのことは後じゃ)
調べてみると、蒲生氏郷は織田信長の娘婿で、なかなか武勇に優れた武将であるらしい。
(蒲生氏郷は無理じゃな、とすると木村吉清の大崎・葛西領の方かーー)
木村吉清は元は5000石程度の身代しかなかったようで、それが一気に大崎・葛西領30万石を与えられたのだから、改易によって所領を奪われた武士達も、木村を軽んじること甚だしかった。
秀吉の奥州支配は、蒲生氏郷が支点となっているのは明白であった。秀吉は氏郷と吉清に、
「今後、氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清も氏郷を父とも主とも頼み、亰への出仕はやめて時々会津に参勤し、奥州の非常を警護せよ」と言ったという。
蒲生氏郷が、政宗の抑えであることは間違いなかった。
蒲生氏郷は会津黒川を会津若松と改め、城下町の町割りを行い、新しく城普請に取りかかっていた。
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