一領具足②

「殿!」

秦泉寺豊後に呼ばれて、

「ーーああ」

と、元親は頷いた。

内向的な人間は、空想癖が強い。

『MASTER KEATON』でも、主人公が自分の空想癖に嫌気がさして軍隊に入ったという場面があるが、キートンが優れた軍人であったように、決して現実に適応できない訳ではない。

ただ、現実への適応に対する痛みが強い。

元親は、意識が空想へと逃れようとするのを必死に堪えている。しかしそれがうまくいかず、しばしば意識が空想へと飛んでいく。

しかも空想は、理路整然としていないことが多い。空想は所詮現実逃避の産物なのである。

しかしそういう者が、巨大な空想力を生むのである。

(一領具足は、強い)

と、元親は考えていた。

確かに、一領具足は強い。

幕末でも、階級に依らない奇兵隊が上士軍より強かったように、下層の階級を軍に取り入れるほど、軍は強くなる。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と『孫子』にも言う。

元親は、長宗我部家の強みを考えていた。


近代以前、戦国の世が日本人が最も自由であったことは間違いない。

それでいて、日本史上最も規制が多かった時代である。

一見矛盾するようだが、日本史の真実である。

戦国時代。当然中央政府はない。

その上、国として必要なものを、この国は全く作っていなかった。

それは、貨幣である。

外貨はある。明銭、つまり中国の貨幣で、中でも永楽通宝が最も良質とされた。

しかし明朝は宝鈔という不換紙幣を使っていた。

紙幣を使っているのに、銅銭を鋳造していた理由はよくわからないが、元親の時代には宝鈔さえ使っておらず、地丁銀制という銀本位制になっていた。

当然明銭も鋳造されておらず、日本の貨幣は供給不足に陥っていた。ルイス・フロイスは「美濃国は鐚銭ばかりで酒も買えない」と『日本史』で述べている。

戦国時代は、いかにも商業が発達したかのように言われているが、それ自体は事実である。

しかし戦国時代の商業の発達は、座と各地の関所、貨幣がないという悪条件の元で、人間の活動の活性化によって商業が発達したのである。

もっとも日本には好条件があった。貴金属の産出である。

ちなみにゴールドラッシュは、江戸時代に入った1604年に佐渡金山が発見されてからである。

金もそれなりに産出したが、この時代は何よりシルバーラッシュである。何しろ世界一の産出量である。

オーストリアのアウグスブルクにフッガー家という富豪がいたが、メキシコでポトシ銀山が発見され、銀革命というのが起こって銀の価値が下がり、フッガー家が没落したということがあった。

この時代に起こった世界的事件だが、日本の銀産出量はそれより多く、全世界の3分の1の産出量を誇っていたのである。

戦国時代は人の暮らしが質素で、決して豊かではないが、それでも華やかに見えるのは、銀の産出量が異常だったからである。


土佐は上方から見て遠国であり、古来、流罪人が流されてきた場所である。

江戸時代になってこそ、材木などを商品として売るようになったが、この時代、上方に比べ商業が発達しているとは言えない。

また海に面しているとはいえ、瀬戸内ではなく太平洋側である。商業の発達する土地柄ではない。

つまりは農業以外の収益は乏しい。近隣の大名に比べ、経済的な長所はない。

(やはり一領具足か)

と、元親は思う。しかし一領具足にも欠点がない訳ではない。

一領具足は、農繁期には駆り出せない。農繁期にいくさをさせると、農地の収穫量が減る。

長浜の戦いの後、元親は神田、石立を落として、本山茂辰を朝倉城と吉良城に追い込んだ。

本山氏の勢力は衰え、長宗我部が優位になった。

(しばらくは、いくさを避けて力をつけることじゃ)

国親の代に、元親の次弟の親泰を香宗我部家の養子にした。

近隣の吉良家の吉良宣直には、娘がいても息子がいない。

元親は、長弟の親貞を吉良家の婿養子にする話を進めていた。

ここまでが、永禄4年(1561年)の話。

翌永禄5年(1562年)9月16日、一条氏と共同して朝倉城攻めを行うが、本山茂辰は嫡子の親茂が奮戦して敗北、

18日には鴨部の宮前で長宗我部、本山の両軍が衝突するが、決着はつかなかった。

しかし本山決着の勢力の縮小を見て、本山から長宗我部に鞍替えする者が続出する。とうとう茂辰は朝倉城を放棄し、山深い本山城に籠もった。

元親に帰順する者達への対処に忙殺されながら、元親の意識は東の方を注視していた。

東と言っても、上方ではない。

上方より東、尾張、美濃の方である。

近頃、尾張の織田信長が、盛んに美濃に侵攻している。

美濃では斎藤義龍が死に、斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に侵攻し、森部の戦いで勝利した。

(なぜ美濃に?)

元親の初陣の長浜の戦いとほぼ同時期の永禄3年5月19日、桶狭間の戦いの戦いで、信長は今川義元の首を取って勝利した。

(敵の大将の首を取った?)

この情報に、元親は首をかしげた。軍勢は今川の方が織田より多かった。

数が多い方が負けることはある。しかし負けて首を取られるというのは、よほどの大敗北でないとありえない。

話によると、今川方には油断があったという。

今川方が丸根、鷲巣の両砦を落として、勝利の気分に浸っていたというのである。そこに信長が奇襲をもかけたというのである。

(信長が奇襲をかけた?)

元親は、このことに疑問を持った。

この時代、騎兵というものはない。長篠の戦いで壊滅した武田騎馬軍団というのが存在しないのと同じ理由である。

大名をは家臣の兵を動員し、家ごとに馬乗り身分の者、徒士の者などがいる。馬乗り身分だけを集めて騎兵を作るということはできない。

敵味方の兵制に大きな違いはない。それなのに、日中に奇襲をかけられるほどの機動力のある部隊をどうやって作れるというのだろう。

元親は、信長について情報を集めた。

若い頃は、うつけと呼ばれていたという。

(俺も「姫若子」と呼ばれたが、信長のようなことができるだろうか?)

ちょっと、できるとは思えない。

その信長が、桶狭間に勝って、今川領に攻め込んでいない。それどころか、今川義元の家臣だった松平元康(徳川家康)と同盟を結んだという。

その上で、美濃侵攻である。

さらに集めた情報では、信長は舅の斎藤道三から、美濃一国の譲状をもらっているという。

(美濃一国の譲状?そんなことがあるのか?)

敗軍の将の道三の譲状など、絵に描いた餅にすぎない。

それでも信長は、美濃の潜在的な主権者ということになる。

(信長は舅の遺言を実行しようとしているのか?)

元親は道三についても情報を集めた。

道三は、大きな釜を広場に据えて、罪人を釜茹でにしたという。

(はあんーー)

このエピソードに突き当たって、元親は思い当たるところがあった。

先に述べたように、戦国時代は、人が最も自由な時代で、最も規制が多かった時代である。

しかしそれだけに、優れた戦国大名の多くは改革者である。

改革志向の大名は、楽市楽座や検地などを行っているが、いかんせん、それも抵抗勢力の多さによって進まないのが現実であった。

(今、尾張と美濃に何かが起こっている。ひょっとしたら、それが日本を揺るがす何かになるかもしれない)


元親は一人者である。

何しろ元親は「姫若子」と呼ばれていたから、今まで結婚の話が出てくることはなかった。

それでも領主の嫡子なので、今までに何人かの女性と通じはしたが、側室に上がった者もいない。

当然子もいない。

(美濃から嫁を貰おう)

と元親は思った。

元親が信長に注目している以上、織田家からか、信長の家臣から嫁を貰うべきだったが、それだと他日、信長が天下に名を馳せた時に業っ腹だと思ったのである。美濃の武将の娘ならば、将来美濃が信長のものになっても、早くから信長に媚びていたことにはならない。

もっとも土佐を平定していない元親としては、仮にも一国の主である信長の織田家とは、家格が釣り合わない。

色々物色して、石谷光政の娘にしようと決めた。

「儂も嫁を貰おうと思う」

と、元親は家臣達に言った。

家臣達は、気色を浮かべた。

家臣としては、跡取りがいないというのは気が揉めることだったのである。

しかし、

「美濃から嫁をもらう」

と言ったので、家臣達は仰天し、反対した。大名の結婚は、近隣の大名との政略結婚と決まっているからである。

「殿は色に狂われたか」

という者もいた。元親の話によれば、石谷光政の嫁は評判の美人だった。

しかし元親は、

「天神地祇にかけて、その者の容色が優れているからではない。美濃には英雄豪傑が多いと聞く。かの娘も英雄豪傑の血を引いている。ならばその腹には、英雄豪傑にあやかった子が宿るであろう」

と言った。

この頃、元親は意識して、話を大きくしようと努めている。

自分を身の丈より大きく見せることで、家臣を心服させ、また自分もそのようになろうと努めることになる。

遠い美濃から英雄豪傑の血を引く娘を嫁に貰うという話は、いかにも戦国武士の心を掴む大きな話だった。

(これでよし)

まだ美濃を併呑していない信長の話をしても、話はまとまらない。

(これで、他日信長に接近する足がかりができた)

石谷光政の娘の異父兄が、明智光秀に仕えた斎藤内蔵助利三で、斎藤利三の娘が、後の春日局である。

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