伊達政宗⑩

政宗が三春城にいる間、8月になって上杉景勝は、庄内に軍を進め、最上義光が迎え打ったが、義光は十五里ヶ原の戦いで敗れ、最上は庄内地方を上杉に奪われた。

義光としてはもはや大崎を助けて伊達領に侵攻するどころではなくなった。

大崎を離反した氏家吉継は大崎に帰参することで決着し、義光は大崎から泉田重光を山形城に引き取った。

(関白め、もっと早く上杉が庄内に侵攻していれば良かったものをーー)

政宗は思ったが、あくまで秀吉は、政宗に南に侵攻する隙を与えない。

その後、政宗は米沢に戻った。

愛姫は母が居城を退去させられたことでひどく動揺していた。

「御母堂は健在じゃ、大したことではない」

と言って、政宗は愛姫を慰めた。

政宗は虎哉和尚のいる資福寺に向かった。

「家督を継がれて数年、立派になられましたな」

と虎哉は言った。

「それが、それがしにもわからなくなることがござりまする」

と政宗は言った。

「ほう、それはどのような?」

「はい、此度それがしは確かに所領を守り抜きました。しかし小手森城で撫で斬りをやった大内備前には城を奪われながらも結局それなりの条件をもって帰参させ、田村月斎は田村領内での力が強すぎたので、いずれはその力を削がねばならぬと思っておりましたが、今回月斎の権力をそのまま認めざるを得ませんでした」

「ほうほう、そのこと聞き知っておりました。月斎殿は確か相当なご高齢でありましたな。おいくつでありましたかな?」

政宗は月斎の年齢を失念していた。

「さあーーしかし確か80に手が届くかと」

田村月斎は、政宗の舅の清顕の大伯父なのである。

「どんなに権力があってもあの世には持っていけぬ」

「は…」

虎哉はニカッと笑った。

「田村はそなたに子が生まれればその子が家督を継ぐ。しかしれっきとした田村の血は月斎殿が引いておろう。また此度当主名代となった宗顕殿もしかりじゃ。しかし月斎殿も宗顕殿も皆そなたに従った。手綱はそなたが握っておるのじゃ」

「それがしが手綱をーー」

「備前殿もそなたに手向かったのは小手森城でこっぴどくやられたからじゃ。感情の落とし所がつけばそなたに従う。手綱はそなたが握っていると思って、今は顔を立ててやるのじゃ」

虎哉の話を聞いて、政宗は自信が出た。

「小十郎」

米沢城に戻って、政宗は小十郎を呼んで言った。「今回は北に敵を抱えて兵力を南に集中できなかった。ならば北を置いて南に全兵力を集中させれば、より成果が出たということだな?」

「御意にござります」

と小十郎は言ったが、

(しかし関白殿が惣無事令違反について何も言ってこないのが引っかかるーー)

と思った。しかし小十郎はそのことは言わなかった。

一応、和睦により惣無事令は守られたのである。

(しかし処分が甘すぎる。この伊達に危害が及ぶことではないと思うがーー)

ほどなく、最上義光は泉田重光を米沢に送り返してきた。

「殿!申し訳ござらぬーー」

重光は、中新田城攻めでの失態を涙ながらに詫びた。

(思えば政景と対立している安芸(泉田重光)を政景と共に行かせたのは我が不明であったーー)

「よい、そなたもゆっくり休むがよい」

政政宗は重光を労った。


ところで、田村梅雪斎は政宗が三春城に入城した翌日の8月4日に三春城を出奔し、居城の小野城に退去していた。梅雪斎は月斎が三春城内の相馬派の家臣を大量に放逐したことについて強く反発していた。

岩城常隆に預けられた大越顕光も、居城の大越城に逼塞したままである。

(問題は岩城常隆がどう動くかだな。岩城次第では梅雪斎も紀伊(大越顕光)も岩城に走るやもなーー)

11月、政宗は小十郎を岩城に使いにやり、梅雪斎と顕光について話をさせた。

「田村の処置は厳しすぎる。梅雪斎殿も常々そう言っておられる」

と常隆は言った。さらに政宗が田村に当主名代を置いたことも、

「伊達殿の和子が当主となるのでござろう?後々禍根を残すことになりはしまいか?」

と言った。

「ーやはり岩城の狙いは田村か」

小十郎の報告を受けて政宗は言った。

岩城常隆も奥州の他の例に漏れず、実は伊達家の出身である。

常隆の父の親隆が政宗の祖父の晴宗の子で、親隆が岩城家に養子入りしてさらにその後を常隆が継いでいる。つまり常隆は政宗の従兄弟であった。

「そのように見受けられます」

小十郎は答えた。当主名代の件も、伊達家のために言っているようで、田村に当主名代がいない方が扱いやすいと思って言っているのだろう。伊達家の者という気安さから言っているが、その魂胆は透けて見えている。

明けて天正17年(1589年)1月、大越顕光と田村梅雪のが岩城の傘下に入り、田村と手切れをすると通達してきた。

政宗は早速評定を開いた。

「殿、ここは大越と梅雪斎を攻めるべきでござりまする」

伊達成実が言った。小十郎も成実に賛同した。

政宗は考えた。

(ーーん?)

政宗の中に閃くものがあった。

「殿!」

重ねて進言する二人に、

「待て待て、大越と梅雪斎を攻めることはならぬ。それより紀伊を調略した方が良い」

と政宗は言った。

「なんと、紀伊をでござるか?」

小十郎も成実もあっけに取られている。

「そうじゃ、紀伊がこちらに寝返るなら、梅雪斎も寝返るであろう。孫七郎もおることじゃし、紀伊を呼び戻しても害はなかろう。月斎はよくやってくれたが、ここらで少し行き過ぎを抑えた方が良いようじゃ。それと小十郎、片平の方は大丈夫か?」

政宗は聞いた。

「は、それは抜かりなく」小十郎は答えた。

「うむ、慎重にな。蘆名は去年あれだけ働いて何の成果も挙げられなかったことから、家中も乱れておろう。引き続き蘆名の切り崩しを続けるように。」

そう言って、政宗は評定を打ち切った。

(今度こそ、今年こそはーー)

政宗の気が逸った。

ところが2月26日、政宗は雪の中馬を責めている最中に落馬し、足を骨折してしまった。

(くそっ、これからという時にーー)

政宗が怪我で動けない隙を狙って、4月15日になって岩城と相馬が田村領に侵攻してきた。

大越顕光は田村に寝返ろうとして、事が露見し岩城常隆に惨殺された。

4月22日になって、ようやく政宗は米沢城を出て大森城に入った。

4月24日になって、政宗は片平親綱から蘆名が反旗を翻したとの報を聞いた。

片平親綱は大内定綱の弟で、去年から政宗に密かに内通していたが、今回伊達に寝返ったことを明らかにしたのだった。

(ーーよし!)

政宗は軍を会津方面に転じた。

政宗は小十郎を高玉城に向かわせ、城を攻めさせた。

高玉城の高玉常頼は、二本松の畠山氏の庶流である。当然、激しい抵抗が予測された。

「城の者は撫で斬りにせよ」

と政宗は命じた。政宗の命令通り、小十郎は城を落とすと城内の者を全員殺した。

安子島城のある安積郡一帯は、ことごとく伊達に寝返ったが、安子島城の安子島祐高は蘆名方についた。

しかし伊達勢の大軍を見て、安子島祐高は城兵の助命を条件として開城し、自らは会津に落ち延びた。

(これで蘆名への牽制は充分だ)

もし蘆名が打って出てきても、しばらくは片平城の片平親綱が支えてくれる。

政宗は今度は軍を北に転じ、伊具郡の金山城に入城した。

伊具郡は現在の県名で言えば宮城県に属し、相馬領の北端と境を接する。しかし近年、伊達から相馬に先に手を出すことはないので、田村領のような紛争地帯から離れたこの地は、敵味方双方とも警戒が緩んでいた。

政宗は金山城から相馬領に侵攻した。

政宗は亘理重宗に駒ヶ嶺城を攻めさせて陥落させ、自らは蓑頸城を落とした。

自分達が田村領を攻めているの゙に、領内に攻め込まれるとは思っていなかった相馬義胤は、田村領侵攻を諦めて引き返した。


この時の政宗の戦略は、戦史の中でもすばらしいものである。

蘆名が動けば佐竹も動き、蘆名と佐竹が動けば相馬や岩城も動き、ついには南奥州全てが敵に回る。政宗はこの構図の繰り返しに連年苦しめられてきた。

特に佐竹が動けば、基本的に伊達と同等の実力を持つ大名相手に、決定的な勝利を得ることは難しく、形勢次第では敗北さえもした。

政宗は、蘆名、佐竹、相馬、岩城の連携をいかに崩すかを考えたのである。

数代に渡り蘆名の血を引かない者を当主に仰いだ蘆名は、過去に秀吉麾下の上杉に手を出して失敗し、去年は無理な軍事行動を繰り返して、将兵共に疲れ、家中の結束は乱れていた。

相馬は勝てるいくさならともかく、惣無事令に違反してまで勝敗の見えないいくさを続ける気はない。だから相馬領の城をひとつふたつ落とせば撤退する。

岩城は、単独で動く気は毛頭ない。

そして佐竹は、惣無事令に違反してまで、秀吉に睨まれ家中が乱れている蘆名を救いにいくかは疑問である。もっとも長期戦になれば佐竹も動くかもしれないが、佐竹が形勢を見ている間、相馬も岩城も動かない状況を作り出して蘆名に短期決戦を挑めば、政宗は会津を手に入れることができる。

政宗は亘理重宗に後を任せて大森城に戻った。

政宗の今回の覚悟の半端でないのは大崎、葛西両氏から鉄砲衆500を呼んでいることである。

去年まで戦っていて、また政宗の方が大崎に負けていたのだから、政宗も抜け抜けとしたものだが、関係が修復されれば、大崎は伊達の傘下に入るしかなかった。

それでも負けた相手に、かつ一度も援軍を求めたことのない相手に援兵を求めるのだから、政宗の会津略取への意気込みが伝わってくる。

政宗は南下して安子島城へ向かった。摺上原への道は開かれたのである。

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