伊達政宗⑮

(これはまずい、儂も働くふりはしておかねば)
政宗は名生城に使者を送り、
「飛騨殿の働きお見事にござる。それがしも虫気が治ったことゆえ、これより宮沢城を攻め落とすと致そう」
と氏郷に申し送った。
政宗は宮沢城に向かった。
宮沢城を囲んだが、政宗は城内に使者を送り、
「ゆるゆると攻めるゆえ、頃合いを見て城を退去されるが良かろう」
と申し送った。
政宗は遠巻きに城を囲み、鉄砲は空砲を撃たせていたが、宮沢城の一揆勢は城を去らない。
こうして日が過ぎていくうちに、伊達家の家臣の須田伯耆という者が、名生城の氏郷に政宗が一揆勢と通じていると告げたのである。
須田伯耆の父は須田親重と言った。
政宗の父の輝宗が畠山義継に拉致され、政宗が畠山勢に鉄砲を撃って、輝宗は畠山勢の手によって討たれた。
その時、重臣の遠藤元信が殉死した。殉死は当時の慣習であり、政宗は元信の殉死に厚く報い、遠藤家に加増をしてやったが、家臣達にはこれ以上の殉死は禁止した。
しかし、須田伯耆の父親重は、元信に続いて殉死した。
政宗は命令違反として、親重の殉死に報いず、加増をしなかった。
須田伯耆は、このことを恨んでいた。
須田伯耆が氏郷に政宗が一揆と通じていると話したことは、伊達勢にも伝わった。
政宗は驚いたが、
(ーー証拠を掴まれなければ大丈夫じゃ)
と開き直ることにした。
すると政宗の祐筆の曾根四郎助が、政宗が一揆に与えた文書を氏郷に提出した。
その噂も政宗は耳にした。政宗はさすがに青くなった。
さらに宮沢城を攻めている伊達勢の鉄砲の砲撃が空砲であるということも、氏郷に知れたという噂が入った。
政宗は陣内を見て回った。
将士達の顔に淀みが見えた。
(ーーまずいな)
10000もの軍勢を集めても、敵がはっきりしなければ、兵士は戦えない。
氏郷からは、政宗の一揆との同調について、何も言ってこない。
そして徳川家康の軍勢が、家康の評判次男の結城秀康と榊原康政が率いて北上しているとの情報が入った。
(なに?徳川殿の軍勢が?)
政宗の陰謀は、問題が奥州に留まっている限り有効だった。
しかし、他の地域からも奥州に軍勢が派遣されてくるとなれば、話は変わってくる。
(徳川殿は律儀で知られたお方だからな)
家康本人はまだ来ていないが、うかつなことはできない。
早急に、方針を決めねばならない。
一揆勢に同心する方針を貫くか、本気で一揆を鎮圧するか。
どっちつかずの態度を取り続けると、伊達軍は内部から崩壊する危険がある。
(やむを得ん、一揆を鎮圧するとしよう)
今度は政宗は遮二無二城を攻めて、一気に城を落としてしまった。
政宗は不機嫌だった。
(飛騨も所詮他人の領地なのだから、適当に戦っておけば良いのに。藪から棒に突っ込んで後ろから狙われるとは思わなんだのか)
政宗は知らない。
秀吉は見込みのある家臣は必ず厳しい状況に置き、成長を促し忠誠心を確かめる。そして秀吉は家臣を決して見捨てることはない。
家臣達はそのことがわかっているから、秀吉に課せられた使命を果たすために全力を尽くす。
氏郷なら、木村父子が窮地に陥っても、それが伊達領を越えた遠隔地のことでも必ず助けに行く。それがわかっているから秀吉は氏郷に会津を託した。
(関白殿下にこの件の報告が向かっていなければいいが)
政宗は思ったが、政宗に疑惑ありとの報は既に秀吉の元へと向かっていた。
政宗は続いて髙清水城を落とし、天正18年(1590年)11月24日には佐沼城を包囲する一揆勢を追い散らし、木村父子を救出した。
(浅野殿も徳川殿も、儂を取り潰させる気はない)
政宗はそのように状況を読んだ。(必要なのは筋書きじゃ、筋書きを誤れば、儂も取り潰される)
秀吉は石田三成を派遣してきた。
氏郷は名生城に籠り、そこで越年する姿勢を見せた。
(そろそろ儂も陳弁に努めねばな)
政宗は南下し、二本松城にいる浅野長政に面会し、釈明を行った。
「それがしは小田原にわずか100騎にて参陣致し、会津を手放して我が妻までも関白殿下の膝元に送り申した。今さら一揆に加担などをして殿下に弓を引くなどということを致す必要などござりましょうや」
と政宗は長政に述べた。
長政は表面上は納得したようであった。
(旗色が悪い……)
政宗は思わざるを得なかった。
(何か思いきった手はないか?天まで突き抜けるような、一気に全てが晴れ渡るようなーー)
やがて、氏郷は伊達領内の通過にあたり、伊達成実と国分盛重を人質に送るように要求してきた。
政宗は要求通り、成実と盛重を人質に送った。
こうして、年は暮れ天正19年(1591年)となった。
氏郷は会津へ帰還した。
政宗も米沢に戻った。
10日、石田三成から使者が来て、
「関白殿下の元に行き、大崎葛西一揆への加担しておらぬこと、無実の陳弁をなさるがよろしかろう」
と言ってきた。事実上の秀吉からの召還命令である。
(関白殿下の元で陳弁?)
政宗は意外だった。今回の件は長政や三成が処理し、秀吉には報告だけ行くと思っていたのである。
「なお、御領内の検地に行うので、御了承願いたい」
とも、三成の使者は言ってきた。
(検地ーーもうそれを行うのか)
政宗は真綿で首を締められていくような感覚に囚われた。
室町時代とは違い、遠隔地だからといって関東管領や奥州探題などに任せきりにはしない。大名の引き起こした問題は全て天下人たる秀吉が調べて処断する。
加えて検地である。検地により、この日本に住む全ての人民が秀吉の支配を受けることになる……。
一瞬暗澹としたが、
(ーーそうじゃ!)
と政宗は開き直った。(これからは京が舞台じゃ!京で華々しく駆け引きをすることで伊達家の名声を天下に知らしめるのじゃ!)
「相わかり申した。それがしすぐにでも京に向かい、この政宗の殿下への忠誠天下に隠れもなきことを、晴天白日の元に示してみせましょう」
と、使者に向かって言った。
(堂々と悪びれず、京童の度肝を抜いてやるのじゃ!)
政宗は家臣達に、上洛の準備をするように命じた。
(そして何より、これじゃ)
政宗は磔柱に金箔を貼ったものを行列の先頭に押し立て、米沢を出立した。
政宗は南下して東海道に入った。
金の磔柱のことは、当然道中でも評判になる。そして噂は、秀吉の耳にも入った。
「なに?左京大夫が金の磔柱じゃと?」
報告を聞いた秀吉は、故郷の尾張中村に帰る体を装って、清州まで出てきた。
(これじゃ!これを待っていたんじゃ!)
秀吉は思った。
実は秀吉は、海を渡って大明を征伐することを企てていた。
そのために各地の検地を行い、日本を統一性の高い国家にしようとしていたが、そのためには大名の謀反などは望んでいなかった。秀吉は日本中が自分に心服して、検地でも何でも受け入れてくれるのを望んでいた。
そのために危険分子であっても、秀吉の包容力で受け止めていくつもりであった。
(政宗を飼い慣らすのはこれからゆっくりとできるしな)
秀吉はその点、自信があった。
秀吉は清州城に政宗を招待し、食膳を饗応した。
「左京大夫、金の磔柱を持ってきたそうじゃの」
と秀吉が言った。
「ははっ、殿下の御不興を買ったと伺い、それがし見に覚えのないことながら、殿下に疑われましては死なねばならぬと思い、さりとてこの政宗、死ぬならただの磔柱では死ねぬと思い、自らを罰する磔柱を持参致した次第にござりまする」
と、政宗は滔々と述べた。
「わっはっは!それは良い心掛けじゃ」
と秀吉は大いに笑ったが、内心では、
(この男、食えぬのう……)
と苦々しかった。
(これで、罪に問われることはない)
政宗は自信を持った。
「先に京で待っておれ」
と秀吉に言われ、政宗は清州城を出立して西上した。
2月4日、政宗は京に入った。
「奥州から伊達の者供が上洛するそうな」
と、物見高い京の者達は沿道に群がって政宗の行列が通るのを待った。
「何でも伊達左京大夫という殿様は、関白様が天下を統一する前は、各地を切り取った荒大名であるそうな」
と、京の人々は群がりながら噂しあった。
そのような荒大名ですら、秀吉が呼びつければ馳せ参じて秀吉に平伏する。そうして人々は、秀吉が偉大であることを知る。
秀吉が望んだシナリオだった。
政宗にも、それがわかっている。
(これは、関白の相手は思ったよりも簡単そうじゃのう)
と、政宗は今後の秀吉とのやり取りを楽観視するようになっていた。
先頭に金の磔柱を担いだ政宗の行列を見ると、京の人々は歓声を上げた。
浅野長政は政宗よりも先に入京しており、政宗の宿所として妙覚寺を手配してくれていた。
秀吉は2月7日に京に戻ってきた。
裁きは9日、聚楽第にて行われた。
(これが聚楽第か)
中に入った政宗は、聚楽第の様子を見る心の余裕があった。秀吉の趣味は小田原でも見てきたが、今回のように仮普請でないものを見たのは初めてだった。
(まるで天上のようじゃ)
政宗がふてぶてしく思っていると、やがて上段に秀吉が現れた。

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