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道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (2/4)

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道行く人はなぜぶつかってこないのか。すぐに浮かぶ回答は、道行く人にぶつからないのは一般常識だから、というものだ。あるいは、道行く人にぶつかっていく人は道徳的におかしい。こうした一般常識や道徳を反映させる形で法律は作られている。こうした一般常識、道徳、法律を守らない人は、社会的に非難されたり、警察という秩序維持の装置により対処される。

ここに出てきたのは、一般常識、道徳、法律といった秩序維持のシステムに対する態度である。こういったシステムは、自由に行為する存在者ではない。したがって、システムに対するこの態度には、別の単語を充てよう。それは信任(confidence)である。秩序維持のシステムに対する信任が、道行く人がぶつかってこないだろうという信頼の根拠である。

とはいえ、システムに対する信任ではまだ十分ではない。たしかにこれらシステムは秩序維持の機能を持っている。だが、この機能は基本的には事後的にしか作用しない。一般常識に反する行為が行われる前に、一般常識に反していると他人を非難するのは、それ自体が一般常識に反するような行為であろう。法律は、起こった行為に対して規定するものだ。警察は、犯罪行為が起こってから対処する。

例えば、1999年の桶川ストーカー殺人事件を機にストーカー規制法が2000年に施行された。この法律は、ストーカー殺人の前段階となりうる行為を新たに犯罪行為と認めたものだ。犯罪行為とは何かという範囲が拡大されたのであって、犯罪行為が起こってから対処されることには変わりない。犯罪行為が起こる前に、その可能性の段階で対処を行うのは、第二次世界大戦時の特別高等警察など思想警察であるか、映画『マイノリティ・リポート』のような世界のなかである。

したがって、システムに対する信任は、道行く人がぶつかってくれば、その人は対処されるであろう、ということに過ぎない。ここで必要なのは、他人もまたシステムを信任しているということだ。すなわち、他人のもつ信任に対する信頼である。他人とは自由に行為する存在者であるから、秩序維持のシステムを信任しないかもしれない。そこで私は、他人も私と同じように、秩序維持のシステムを信任するであろうことを信頼する。

ようやく、道行く人がぶつかってこないだろうという信頼の根拠を述べることができる。根拠というより、むしろこの信頼を分解したものに過ぎないかもしれない。それは、秩序維持のシステムに対する私の信任と、同じシステムを道行く人も信任しているであろうという私の信頼である。

ときにこの二つの要素、信任と信頼はそれぞれどういった根拠に基づいているのだろう。私は一般常識、道徳、法律をなぜ信任しているのか。それは教育の結果であろうし、反した場合の対処を避けたいという思いであろう。私は他人が一般常識、道徳、法律を信任することをなぜ信頼するのか。それは他人もまた同じ教育を受けたであろうからであるし、反した場合の対処を避けたいと思うだろうと思うからだろう。ここはさらに根拠を求めると無限に話が続くような気もする。

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