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道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (1/4)

お盆の季節にしては風雨の激しい、不思議な天気の一日だ。木々が大きく揺れている。あの木の枝が折れて、私にぶつかってきたりしないだろうか。おそらくたいていの場合、このくらいの風ではそんなことはないだろう。特に剛体に関する計算をしたわけではなくとも、過去の経験から誰しも分かりそうなことだ。

では、道を歩いていて、向こうから来る人が私にぶつかってきたりしないだろうか。これも、おそらくたいていの場合、そんなことはないだろう、と誰しも分かりそうなことだ。しかし、街路樹の枝と道行く人についての、これら「そんなことはないだろう」という思いには大きな違いがある。

それは、道行く人は私にぶつかってこようとすればそうすることができる、という違いだ。私たちは他人を、やろうとすればできる存在者、自由に行為する可能性を持った主体とみなしている。

もちろん、街路樹の枝だってたまたま折れかかっていて、さほどでもない突風でぶつかってくるかもしれない。それは物理的な可能性の話であって、それなら道行く人も突風にふらついてぶつかってくるかもしれない。私たちは、他人はこうした物理的なレベルとは異なった可能性を持つとみなす。すなわち、ぶつかってこようとする意志を持つ存在者として。

それが、私たちの他人と物に対する態度の違いだ。私たちは他人は物とは別種の可能性を持った存在者とみなす。よって、どうなるか分からない、予測不可能性、未来の不確実性は他人のほうが高い。

相手は本来はやろうとすればできる、と認めつつも、そうはしないだろうという思いを、私たちは信頼(trust)と呼ぶ。私は、道行く人がぶつかってこないことを信頼して道を歩いている。

ここで立てる問いは次のようなものだ。道行く人が私にぶつかってこないだろうという、私が通常抱いているこの信頼は何に基づくものなのだろうか。この信頼の根拠はどこにあるのだろうか。なぜたいていの場合、この信頼は裏切られず機能するのだろうか。なんの根拠もなくただ私は思い込んでいるだけで、偶然にもたいていの場合はそれで支障が出ていないだけなのだろうか。

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