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”社名に『サムライ』と入れたきっかけと、その込めた意味”

今日は、社名の原点のお話ができればと思っています。


自分の心だけにしまっておかないように、今まであまり詳細や経緯をお話していないことも含め、自分の人生の備忘録としても残したく書いてます。

サムライという名前の出会いは、前職のアクシブドットコム(現VOYAGE GROUP)にさかのぼります。2001年9月にサイバーエージェントにアクシブドットコムは買収され、僕は悲しい想いと家族を奪われた感があり、まず卒業を決めました。

そして、その頃は起業に関しては全く考えることもなく、マスコミ業界、いわゆる広告業界にも憧れもあり(実は学生の頃から入りたいと思っており、これを書きながら思い出しましたが、1997年にTBSのアナウンサー試験も受けましたw!勿論惨敗)インターネット業界でもある程度のネット広告に関する知見や実績も伴っていたため、これを武器に今こそ、自分の憧れだった広告業界に挑戦をしようと思い、ここでも多くの代理店に履歴書と職務経歴書を多数送りました。

その時に唯一返答が返ってきて、面接までこぎつけたことがてきたのが、当時の日本の大手広告代理店と外資系との合弁のマーケティングコンサルティングの会社で、ネット広告の営業経験者というのがその時には非常に稀な存在だったので、トントン拍子で内定を頂きました。

そして、2001年10月からその会社で働くことになります。入社して最初に感じたことは外資系のイメージにあるような冷たさでした。初日以降誰もランチにも誘ってくれないし、ネット広告のことはその当時僕が一番知っているのにも関わらず、プライドの高さなのか誰も耳を貸してくれなかった記憶があります。アクシブがあまりにも家族的な暖かさがあったから、当時は特にそう感じたのかもしれません。

また、アクシブにいた頃は、自分たちで決めた広告商品、コンテンツを販売するという形で、一度商品を決めてしまえば、あとは販売して運用するだけという形で、非常に当時の僕の能力的にはあっていました。

一方で、その会社では、毎回毎回クライアントのブランド、商品のマーケティングに関する課題に対して、頭を捻りまくり提案書を作成しなくてはいけないというコンサルティングの仕事で、もちろんチームもありましたが、先輩についていくことが必死な毎日でした。むしろ、レベル感的にも、全くついていけなかったです。

パワーポイントを前に、毎日毎日違った課題に対する提案書を全然作成することができず、そして、上司・先輩にも何度も書き直しを指示され、深夜まで会社で、毎晩もがいていました。

帰るのが毎日遅くなり、今ではありえませんが、タクシー代も、その当時、月の経費で20万近く使っていた記憶があります。今も、まだその当時の怖さは体に残っています。本当に辛かったです。

そういう経験もある中で、今のサムライの皆んなが、日々クライアント・起業家に対して、真摯に提案書を作成し、プレゼンしてくれている姿を見るたびにリスペクトと感謝の気持ちが湧いてきます。本当にありがとうございます。今だに、僕のそのスキルはめちゃめちゃ低いと思います。

その会社に入社して、そんな風に、ふらふらになりながら、1年が経とうとしていた頃、やはり段々とアクシブの家族的な暖かみを求め始め、そして、仕事についていけない自分、逃げ出したい自分がいました。そこで、20代の起業論でも書いていますが、当時、大阪と遠距離恋愛をしていたこともあり、その会社を卒業して、大阪に戻って結婚しようと決意します。

ここでまた運命の人、アクシブ(現VOYAGE GROUP社長)の宇佐美さんの登場です。2001年の夏頃に、アクシブのみんなと八丈島に泊まりで遊びに行った時の、フェリーで宇佐美さんに

榊原:
”アクシブに戻らせてください、そして、大阪で結婚するので、大阪支社をつくらせてください!”

宇佐美さん:
”いいよ!”(即答w)

そして、2002年1月からアクシブの大阪支社を立ち上げることになりました。※正確には彼女には、この時には、プロポーズもしておらず、ちょっと疎遠になっていたので、大阪に戻って仕事が安定してから再度彼女にアタックしようという一か八か的なところではありました。

ネット広告自体が大阪ではまだまだ東京よりもさらに黎明期であり、アクシブの懸賞・ポイントサイトの広告を販売することは容易でなく、色々なものを売ってました。今のグーグルが買収する前のオーバーチュア(今のグーグルアドワーズ)や、ミスタードーナッツに、メールでクーポンを配信する仕組み(某会社のメール配信システム)なども。書いててこれも思い出しましたが有名ドーナッツ会社で、携帯にクーポンを配信する仕組みを初めて提案して実装させたのは僕だったかと(笑)。今はもう古い手法でないと思いましたが、当時はとても画期的な方法だったんです!

でも、結局、仕事バカだった当時の自分は、大阪支社立ち上げに注力しすぎで、彼女が求めていた、安全・安心できる環境を提供できるはずもなく、結婚以前に大きな壁があり、プロポーズもできる状況もなく、ゼロいやマイナスベースになりました。

そして1年が経ち、大阪支社は2人で大学の後輩(おかもっち:初めての、なんとかっちをつけたアダ名かも)とやっていたので、年間売上多分3000万くらいで通期黒字化ができたこともあり&結婚もなくなり、、、

2003年末ごろからアクシブの東京本社から、改めて、東京の営業統括に戻って来ないかとの話になりました。

僕が2001年9月サイバーに買収されたあとに、アクシブを卒業し、僕が抜けたあと、僕の大阪時代も含め2年もの間、東京でアクシブを支えてきたメンバー達です。勝手な都合で卒業した僕が、また統括・上司に戻るってみんなどう思うのだろう?嫌な気持ちにならないだろうか?当時はそのことが一番最初によぎりました。

ここから、ようやく社名に”サムライ”と入れたきっかけの話になります。

東京に戻ることが決まった2003年12月に、丁度上映されていた映画が
トム・クルーズ主演の”ラストサムライ”でした。

今はあまり普段映画を観ることができないです(なのでロングの飛行機の移動は大好きです)が、当時は時間があると違う世界に浸りたいということが大好きでよく映画は観に行っていました。

そのラストサムライのあるシーンに僕は大泣きしてしまいました。
ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)と勝元(渡辺謙)が、負けると分かっている戦いに出陣し、武士道精神に名をかけて、最後の最後まで諦めずに戦い抜くその姿勢、そして、それが敵対する相手の心にも、
最終的に伝わり、そして日本が本来の姿を取り戻すというシーンに。

まさに今の時期、桜の散る時期がそのシーン(以下ウィキペディアから)です。


”最後の騎馬による大突撃でオールグレンはバグリー大佐を討ち取るも、回転式機関銃ガトリング砲により騎馬隊は阻止され、オールグレンと勝元を残して氏尾を含む反乱軍は全員戦死する。致命傷を負った勝元は、信頼するオールグレンにとどめを刺すよう頼み、今際(いまわ)の際にオールグレンの背後に咲く桜を見ながら、「すべてパーフェクトだ」という言葉を遺し、安らかに息を引き取った。こうして反乱軍はオールグレン一人を残し全滅した。

しかし、この闘いは決して無駄ではなかった。政府軍の兵士たちは勝元の死に様に涙し、敬意を表し跪いて頭を垂れたのである。維新以降、失われて久しかった「武士道精神」を、軍人たちが取り戻した瞬間であった。
そして生き残ったオールグレンは明治天皇に拝謁。そこで勝元の生きざまを語り、遺刀を渡した。受け取った天皇は勝元の刀と彼の教えを取り戻し、契約したばかりのアメリカとの契約を破棄した。全てを水の泡にされ激怒する大村だが、決意を新にした天皇に完全に説き伏せらた。 そして天皇はオールグレンに勝元の「死に様」を聞いた。オールグレンは彼の「生き様」を話し、勝元の意思を伝えた。それは日本が真に近代国家に生まれ変わるための、勝元からのメッセージであった。”

僕は、自己犠牲の姿勢・シーンには、よく心を打たれ、泣いてしまいます。

もちろん亡くなるほどの自己犠牲はいけません。損得勘定でなく、人のことを真剣に考え、すぐに行動ができる人になることが僕の究極の憧れる人・自分の目標だからかもしれません。
まだまだ僕自身、損得勘定で動いているので日々反省で精進が必要です。

このシーンで観た”武士道精神”が、海外から日本を見た時の素晴らしさの大きな1つのものなんだともその時に気づきました。

そして、アクシブの統括で東京に戻る時、2004年1月の話に戻ります。

一度アクシブを卒業した、僕を統括として、受け入れてもらうために考えて出た僕なりの結論が、チームに一体感、団結感と参加メンバーに魂を持たせるために営業チームに名前をつけよう!でした。

2004年1月、アクシブの営業本部は、”サムライ営業本部”という名前を命名しました。

そして、そのメンバーに、ラストサムライのパンフレットに載っていた”8つの魂「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を守るチームにしようと!2008年2月にアクシブを再度卒業する時にはその”サムライ営業本部(10名くらい)”の売上は年間20億円近く行っていたと思います。

会社のメンバーも150名近くになっていたかと、本当に本当に最強チームで心の通ったチームでした。その頃のネット広告代理店業界でもサムライ営業本部は有名だったと思います。今での年1回みんなで飲みに行ったりもしています。

そして、2008年3月14日、起業し、そのサムライ(チームの一体感、武士道精神)という想いを、刻んでいます。

更には、そのサムライに起業の際に重ねて刻んだ想いとしては、日本の会社としてすぐに認知してもらい、アジア代表の日本が世界をリードする(なのでドメインが.asiaにして想いを込めています)、そしてサムライという名を一営業本部でなく、会社に刻むことで、自分自身がサムライ足るものでないといけないという敢えての重責を乗せ、自分自身にプレッシャーをかけたこともあリます。

また国内に対してでいうと、ライブドアショックの影響もあり、日本のIT起業と大企業との歪みが非常に大きくなって(本当にこれがきっかけで、日本の大企業のデジタルトランスフォーメーションは大きく遅れたと思っています)、その歪みを埋めるべく武士道精神を持ったIT起業家を育成することで、老若男女ともに協力しあって大きく世の中を変えたいと想いサムライがその間に入ることにより、色々なものが滑らかに進むようになるというのも1つの考えでした。

結果、サムライという名前が付いていることもあって、ご年配の方に会ったり、地方に行ってもIT企業だと行って慊焉されることは一度もありませんでした。そのくらい”サムライ”って言葉は、日本人みんなを1つにするものだと痛感しました。サムライジャパン、サムライブルーなどはまさに、日本人を一体にしている証です。

僕はこの日本のスポーツ選手だけでなく、スポーツのようにビジネス業界で戦っているサムライたちに一体感を持たせ、世界をリードしていくことにこだわりを持っています。今でいう、サムライが実施しているオープンイノベーション事業、スタートアップと大企業のオープンイノベーションが始まった日本で最初の原点になっていると思います。

これが、社名に”サムライ”と入れたきっかけと、その込めた意味の全てでした。

今日も自分の記憶を自分に何度も聞き直しました。こんな今だからこそ、改めて、僕自身もサムライの名に、恥じぬよう、自己犠牲の精神”できるできないでなく、やるかやらないかの精神”で、世の中を大きく遮る壁に対して、邁進して向かって、皆んなと一緒に世界を変えて参ります。

サムライインキュベートの「生き様」が世界をより良く変える日まで。

では、みなさま、良い週末を!
from Ken Samurai

※僕の家近くの近所の桜です。
鳥羽川サイクリングロード:鳥羽川両岸を、片道約3キロメートル(往復6.3キロメートル)にわたり約570本の桜並木が続きます。

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