料理人としての原点は、オーストラリアの田舎街 【酒井英彰と酒井商会の歩み #01】
酒井です。ここでは酒井商会で働くみんなに私の考えをしっかりと伝えたいと思い、まずは私自身と酒井商会の「これまでの歩み」を書くことにしました。
私がいつも話している言葉や考えは、どういう経緯があって生まれたのか。また、酒井商会に新しく加わったメンバーには、どういう積み重ねがあって、現在の私たちがあるのか。それらを知ってもらいたいと考えたからです。
出発点をどこにしようか悩みましたが、初回となる今回は、私の料理人としての原点について書いていきます。
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料理とは縁のなかった学生時代。
料理の世界では、高校卒業くらいから修行をはじめる人が多いと思いますが、私はそうではありません。
私は小学2年まで北九州、その後は大学卒業まで福岡市で過ごしました。
父は大学の野球部でキャプテンをつとめるくらい野球に熱心で、私も小さい頃から野球をやっていました。小学生の頃は、朝6時から父と一緒に練習し、学校での練習を終えた後は、また父と一緒に練習。中高ともに野球部に入り、野球一色の生活が続きました。ただ、プロを目指すといった目標はなく、野球は高校までと決めていました。
とはいえ、幼い頃から熱心に打ち込んでいた野球だったので、やめた後は心にぽっかりと穴が空いたような感覚がありました。
その穴を埋めてくれたのが、サーフィンです。
大学1年の時に、縁があってサーフショップの人たちと仲良くなり、誘われてサーフィンをしているうちに、サーフィンの世界にのめり込んでいきました。
ほぼ毎日のペースで海に行き、大学にはちょっと顔を出すくらい。夜はひたすら居酒屋でバイト。稼いだお金は、大会参加費やボードの買い替え、海外へのサーフトリップなど、サーフィンに全て消えていきました。
大学卒業後も、まだ自由にサーフィンをしていたいと思い、オーストラリアへのワーキングホリデーを決意。みんながスーツに黒髪で就活に勤しんでいるのに、私だけ金髪で真っ黒に日焼けしていて、大学内ではかなり浮いていたと思います。
辿り着いたのは、オーストラリアの田舎街。
大学卒業と同時に、オーストラリアのゴールドコーストへと渡りました。
ゴールドコーストはワーキングホリデー先として人気が高く、多くの日本人が住んでいます。日本食レストランが多いので、バイト先もすぐに見つかり、将来のことなど何も考えずに、ひたすらサーフィンをしていました。
現在でも休みの日にはサーフィンをしていて、飽きることがありません。
海の上に浮いているような感覚と、スピードがかかった時の疾走感。そういった言葉にできない不思議な感覚がサーフィンの虜にさせます。また、海や風の状態は常に変化するので、同じ場所でサーフィンをやっていても常に新鮮さを味わえます。
ゴールドコーストはサーファーのメッカで、サーフィンの世界大会が開かれる有名スポットから、初心者や子供でも楽しめるビーチまで、様々なバリエーションの波が楽しめます。新聞やテレビではサーフィンの大会について大きく報道され、天気予報では波の情報まで教えてくれます。
ただ、暮らしはじめて1年くらい経ってくると、この賑やかな生活に食傷気味になり、落ち着いた場所でサーフィンを楽しみたいと思うようになってきました。ゴールドコーストを離れることに決め、オーストラリアの東海岸4000キロくらいを車で旅をしました。
そして辿り着いたのが、トーキーという街です。
メルボルンから車で90分くらいの田舎街で、日本人はほとんど住んでいません。トーキーもサーフィンで有名な街で、世界的な大会のスポットが近くにあります。ただ、ビジターのサーファーは少なく、落ち着いた雰囲気のなかでサーフィンができます。訪れてすぐに気に入り、この街で暮らすことを決めました。
結果的にトーキーで2年弱暮らすことになるのですが、この田舎街での暮らしが私の料理人への道を歩むきっかけを与えてくれました。
(▲)オーストラリア滞在時の一枚
料理への関心を育んだ街一番のレストラン。
トーキーで暮らすことに決めたものの、ネックは働き先の確保でした。ゴールドコーストではバイト先に困ることはありませんでしたが、トーキーは日本人がほぼ住んでいないので、日本人の扱いに慣れていません。
私が得た最初の仕事は、羊農家で羊の世話でした。
トーキーの街にひとつだけあるお寿司屋さんに働かせてほしいと相談に行ったら、「ここで雇うことはできないけど、親族の羊農家が忙しいから、そこだったら雇ってもらえるかも」と紹介され、住み込みで働くことになったのです。
そこには何千頭も羊たちがいて、羊のウールを刈るのが主な仕事です。笛で羊たちを集めて、移動させたりと、自分がこんな経験をするとは思いませんでした。ただ、羊農家での仕事はあまりお金にならず、別の仕事を見つける必要がありました。
そんななか、街で一番と謳われているレストランに履歴書を持っていくと、ちょうど翌日が繁忙日で皿洗いのアルバイトを一日限定で任せてもらえることになりました。そして、翌日バイトをすると、そのまま働き続けてほしいと運よく採用してもらえたのです。
このレストランでの日々が、私の料理への関心を育んでいきました。
ここの料理のベースはフレンチですが、常にクリエイティブな挑戦をしていました。味噌や醤油といったアジアの調味料をオーストラリアのイノベイティブなシェフたちが使い始めた時期でもあり、私が働くレストランのシェフもアジアテイストを料理に取り入れるなど、新しいことに貪欲に挑戦していました。
まかないの味に驚くことばかりで、料理の世界の奥深さに惹かれていきました。
最初は皿洗いをしていた私も、仕込みを手伝ったりと、次第に他の仕事も任せてもらえるようになりました。サラダや前菜なども担当するようになり、周囲に教えてもらいながら、料理のやり方も少しずつ覚えていきました。忙しい店でもあったので、限られた時間のなかで、テキパキと厨房を回していくことにも面白みを感じました。
それまでは時間があればサーフィンのDVDをみたり、サーフィンの雑誌や本を読んでいましたが、料理の本も読むようになりました。料理の本は専門用語が多いので日本語で書かれたものが読みたいと思い、わざわざ日本からオーストラリアに本を取り寄せるくらいのめり込んでいきました。
シェフに憧れ、基礎を学ぶために帰国を決意。
このレストランでの日々を語るうえで欠かせないのが、シェフの存在です。
シェフはレストランで働くみんなとの関係を大切にしていて、仕事終わりにみんなを連れてパブに行ったり、休みには自宅でパーティーを開いてくれたりしました。シェフは釣りが好きで、シェフと一緒に釣りにもよく行きました。
私が出会った時のシェフは20代後半で、自分とそこまで年齢が変わりません。ですが、彼はシェフとしてチームを率いていて、オーストラリアのレストランシーンでより注目される存在になるべく、クリエイティブを日々磨いていました。
そんなシェフの姿に憧れを感じました。そして、いつしか自分もシェフのように自分の店を持ち、フレンチの世界で身を立てていきたいと思うようになったのです。
そう考えた時、フレンチの基礎をしっかりと学ぶために、日本のフレンチレストランで働きたいと思うようになりました。オーストラリアで暮らすうちに英語もかなり上達しましたが、それでも専門的な言葉が飛び交うと微妙なニュアンスの理解に難しさを感じることがあったからです。
私は性格的に基本とか基礎といったものが好きで、それらを細部まで理解し、正確なものをやりたい想いが強い性格です。「守破離」という言葉がありますが、まずは型を忠実に守り、確実に身につける。その上にアレンジやオリジナリティは成り立つと考えています。
シェフからは「ビジネスビザを発行するので、このまま一緒に働いてほしい」と声をかけてくれましたが、日本でイチから学びたいという想いは固く、帰国を決断しました。
帰国してきた時、私の年齢は25歳。
トーキーのフレンチレストランで働いていたといっても大したことはできず、料理人としてほぼゼロからのスタートでした。でも、特に焦りはなく、日本でフレンチを学ぶことに心を弾ませていました。この続きは、次回のnoteに書くことにします。
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“現在”という時間に夢中になってほしい。
最後に、今回の記事を読んでもらうとわかるように、私は先のことを考えるより、現在の自分が興味があることを追求したい性格です。
料理にしても、とにかく好きだったので、上手くなりたいという一心だけ。自分がプロとしてやっていけるかどうかはあまり考えていなくて、上手くなれば自然とやっていけるだろうという気持ちでやってきました。
よく若い料理人と話していると、将来について考えている人が多くて感心しますが、一方で将来について考えすぎではないかと思うこともあります。
将来よりも大切なのは”現在”。
現在できることは何なのか。
とにかく毎日を一生懸命にやる。
酒井商会で働くみんなには、現在の自分を大切にしていってほしいし、現在という時間に夢中になってほしいと思います。
<編集協力:井手桂司>