走れ!

眼下に広がる無数の日常は、僕のことなんか気にもとめずに、今日も勝手に時計の針を進めているわけで。
僕は僕で、こうでもしないと自分のちんけな命をここに留めておく気にもなれず、今日も気づけばこうして縁に立っている。
「飛ばないの?」
背後から前触れなく発せられた言葉に、飛び上がらんばかりに驚き、危うくバランスを崩しかけた。とたん、下腹部の内側が締め付けられ、内臓だけがふわっと外に放り出されたようなかんかくに襲われる。
僕はあわててフェンスにしがみつく。
心臓の音がうるさい。まるで心臓が耳の裏にでもあるかのように、直接こまくを震わせてくる。
死という要素を徹底的に排除した、いわば真似事のつもりだったはずが、急に実態をおびたそれが僕に襲いかかってきたせいで、危うく発狂しそうになった。
頭の整理が追いつかない。
今の声は、やっぱり彼女の声だろうか。
僕は恐る恐るうしろを振り向く。

彼女は確かにそこにいた。

しかし最初僕は、それが彼女であるとどうしても思えなかった。
最近僕の前から姿を消したはずの彼女の声を、僕がここにいることなんて知る由もない彼女の声を、こんなところで聞くことになったことや、想定外の死が目の前に襲いかかってきたことへの動揺もさることながら、最たる要因は、そこにいた彼女が、僕の知っている柳原愛佳とは似ても似つかぬ雰囲気を纏っていたからだった。その原因はすぐに分かった。

彼女の瞳が、明らかに僕の知っているものではなくなっていたのだ。

僕の知っている愛佳は、とても綺麗で美しい、真っ黒な瞳をしていた。
でもそれは、ルノワールの絵のような美しさではなく、ミレイの「オフィーリア」が持つような美しさだった。
彼女の瞳の真ん中には、真っ黒な穴がぽっかりと口を広げていた。どこまでもどこまでも続くその深淵の奥に、決して光は届かないだろうなと、彼女を見つめるたびに思っていた。
見つめていると、うっかりこちらまでその無間奈落に引きずり込まれてしまうのではと錯覚することもあった。
彼女のその瞳は、そのまま彼女の存在を表しているようで、時々怖くなることもあった。
しかし、今僕の目の前に立っている柳原愛佳の瞳は、澄み切っていた。あの真っ黒な穴はどこにもなく、輝く黒い瞳は、雲ひとつない空の、つきぬけるような青色を、思う存分に反射していた。
「なんで…」
あっけにとられながらも辛うじてそう問いかけた僕に、彼女は一点の曇りもない爽やかな笑顔をよこした。
「飛ばないの?」
再び発せられた彼女の声音は、とても澄み渡り、温かく、優しかった。
「俺、は…」
僕はその続きを言うとこができなかった。
その場を取り繕おうと咄嗟に口が動いてしまったおかげで、自分でも何を言おうとしていたのかわからなかったこともある。でもそれ以前に、急にこちらに向かって走り出した彼女にあっけに取られて何も言うことができなくなってしまったのだ。
フェンスが揺れる、チープな金属音が響き渡った。
彼女は、軽やかにフェンスを飛び越えた。

彼女は、飛んだ。

飛んだ飛んだ飛んだ。
彼女を取り巻いていた一切の重みが完全になくなってしまったかのように、彼女は軽やかに飛んでいた。
そして彼女は、眼下に広がる世界に、あれだけ僕たちが嫌っていた世界に、飛び込んでいった。


今になって、なんで彼女の笑顔を思い出したのか。
けだるげな体を起こして煙草に火をつける。思い切り吸い込んだニコチンは、僕の体を支配する重みに拍車をかける。
時計を見ると16時過ぎ。バイトの出勤時間をゆうに超えている。
またやらかしたのか。
つくづく嫌になる。
ちらと目の端に捉えたカッターナイフが、意味ありげな存在感を放ってくる。
もう一度思い切り煙草を吸い込み、吐き出す。吐き出された煙は、空気が澱みきっているせいか、一向に消え去ろうとせず、だらだらと僕の周りに停滞している。
何気なく部屋を見渡す。
とっくに意味をなさなくなった本棚から溢れかえり、部屋中に積み散らかされた憂鬱の言葉たち。知らない人間が入ってきたら、ゴミ箱という概念が存在しない世界に来てしまったのだろうかと勘違いされそうなほどに散らかった六畳間、締め切られたカーテン、そこから漏れる夕日に照らされ踊り狂う、無数の埃。

死にたくなった。

ああ、全部、クソだ。
もしも神様がいて、人間を創ったのだとしたら、僕は神様がひりだした糞でしかない。

「文哉ってさ、ほんとばかだよね」

ああ、これは彼女の声だろう。なんで今日はこうも彼女のことを思い出すのだろうか。
そういえば、彼女はほとんど僕の名前をよんだことがなかった。
おい、か、ねえ。
対する僕も
ねえ、か、なあ。
僕たちは、お互いのことをほとんど何も知らなかった。
僕たちの間にあったのは、痛みだけだった。お互いが望む痛みを提供し合うだけの、いわば利害の一致だけで築き上げられた関係。

僕たち二人は、死に対しても絶望していた。

死にすら、裏切られた。だから僕たちは、せめてもの真似事をしながら、何か大きな災厄が僕たちを跡形もなく破壊してくれることだけを望んで、息をひそめて暮らしていた。

「私たちみたいなのってさ、なんだかんだで最後まで生きちゃうんだよね」

いつか、彼女がそう言っていた。なんだかダス・ゲマイネのセリフみたいで、僕は彼女の言葉に漂う非日常感に酔いしれていた。

そう、僕は酔っていたのだ。

自分の不幸に立ち向かうことを諦め、不幸だ不幸だ、なんて自分の境遇を逆手にとり、立ち向かう勇気を持てないことへの言い訳にしていたんだ。

「俺は…」
「ばかだよほんとに。わたし、別に自分の選択を間違えたなんて思ってるわけじゃないけどさ、文哉はあの時飛ばなかったんだよ?だから今、こうしてここにいるんだよ?」

そうだ、僕は死という選択からも逃げた。何もかもに立ち向かわなかった結果、全てを放棄した無気力の屍が、今の僕なんだ。
たいして彼女は違った。彼女は逃げたんじゃない。彼女は自らエンディングを迎えることによって、立ち向かったんだ。自分を取り巻く世界に対して、彼女は彼女の精一杯の方法で立ち向かったんだ。なのに僕は……。

「せっかくさ、ここまできたのに」
「え?」
「確かにさ、今の文哉ってもうなんで生きてんのってくらいに無駄に人生空費してるけどさ。でも、今こうしてこの街で生きてるのって、少なくとも屋上でのあの日以来、文哉が世界に立ち向かったからこそ手に入れられた生活じゃないの?」
「それは…」
「せっかく戦って、ようやく自分の新しい人生掴めたのに、くよくよくよくよ。ほんとばかみたい。この街で生きれてること自体がすごいってのも忘れてさ」

そういえば、僕はこの年齢まで生きているつもりはなかったし、それは夢のまた夢だとも思っていた。僕はずっと、あの暴力と否定に満ちた小さな世界で一生を終えるとばかり思っていた。
小さい頃、よく妄想をしてた。今自分は悪夢を見ていて、ふと、悪夢の中の自分とは全く関係のない、全くの別人である本来の西野文哉として目が覚めて、嫌な夢だったな、なんて思いながら「本来の生活」に戻っていく。妄想のメインは、その本来の生活の部分で、そこにはきっと僕には一生送ることのできないであろう「普通の生活」があった。
徐々にそれが本当のことのように思えてきて、いや、本当のことだと思いたくて、僕は毎晩布団に入るたびに、今日こそは目が覚めるかもしれない、今日こそは、だなんて必死に願いながら眠りについた。
でもそれは本当にただの妄想でしかなく、なんど朝を迎えても、襲いかかってくるのは本来の西野文哉としての日常だった。
でも今はどうだろう。僕は暴力と否定に満ちたあの家とも、嫌な思い出ばっかりのあの町ともおさらばして、こうしてなんだかんだ、あの頃思い描いていたような生活を送れているじゃないか。それなのに僕は…。

「確かにさ、他人から見たら別にすごいところなんて少しもないけど、子供の頃の文哉に今の文哉が、この街に住んで普通に生活してるよ、なんて言ったら、目、輝かせて喜んでくれるんじゃないかな?」
「俺は…」
「まあでも、今の無意味な延命っぷりをみたら、ちっちゃい文哉も失望するかもね」
「あ、愛佳はさ、愛佳は後悔とかしてないの?」
「だから言ってんじゃん。私は私でちゃんと考えた上での行動だったから」
「だよな。うん、ごめん」
「だからさ、もうやめなよ。せっかくここまで頑張ったのに、いまだに過ぎたことにびくびくしてさ。私はあの時、飛び降りるって選択をした。でも文哉はそうしなかった。あの時の選択のおかげでこうして生きてるんだし、あの時以降も何度も何度も、文哉はここに残って頑張るって選択をし続けてきたんでしょ?」
「俺はただ、生きてることが嫌で、でも死ぬのも怖くて、でもやっぱり生きる気力もなくて、だから体だって傷だらけで、こうして今だってだらだら生きて…」
「だから!結局それって、ここにとどまりたいって文哉が思ってるからでしょ?それだったら、もっとこの世界を楽しみなよ。もっと生きてるってことを楽しみなよ。どうせいつだって死ねるんだから、それは私が証明済みでしょ?いつだって終わらせることができるんだから、今終わらせようと思ってないんだったら楽しまなくちゃ損じゃん!」

そうだ、僕は何でこんな単純な事に気がつけなかったんだ。僕は、本当に馬鹿だ。

「まあ色々言っちゃったけど、文哉はもっとさ、ここにとどまる事を選択した自分のことを肯定してあげなよ」
「愛佳…」

しかし彼女はすでにいなかった。そもそも、ここに彼女が存在するはずもなかった。
無性に澄んだ空気を吸いたくなった。
僕はせきたてられるようにしてコンバースに足を突っ込み外に出た。
久しぶりに吸った外の空気は新鮮で、いつの間にやら春の匂いになっていた。
僕は訳もわからず走り出した。

僕は、生きている。

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