夏祭り 上

湿り気を帯びた生暖かい夜空に、三色の火花が舞い散る。周りの観客たちから歓声が上がる。蒸し暑いせいか、観客たちの歓声もどことなくやる気のないような印象を帯びている。
「おお。はーと」
隣で阿賀野さんが気のない歓声を上げる。立て続けに花火が上がり、その光に照らされた阿賀野さんや他の観客たちの顔は興奮しているように見え、だから余計に彼女達からあがる気の抜けた歓声が少しおかしかった。
周りの観客のほとんどは手にスマホを持って花火を撮影していて、私もつられてポケットに手を突っ込む。スマホのさらさらした感触を指先に感じたところで、ふと阿賀野さんの姿を見ると、彼女はベンチの背もたれに全体重を預けながら、硝煙の匂いをたっぷり含んだ夜風に前髪をなびかせて、いつもより少しだけ低く感じる空に広がる無数の火花をのんびり見上げている。時々まぶしいのか、はたまたけむたいのか、眼を細めては鼻の先をくすんと揺らす。そんな阿賀野さんを見ると、この光景を小さな液晶画面の中に半永久的に保存しようとしていた自分がばかばかしくなった。彼女はのんびりと、それでも全身全霊でいまこの時を受け止めていた。
きっと佑香ちゃんたちと一緒に行動していたら、私もスマホ越しにしかこの光景をあじわわなかっただろうし、一種の義務のような感覚で撮ったその動画や写真を、私は今日が終れば見返すこともなかったと思う。
「どした?」
いつのまにか阿賀野さんが不思議そうに私を見ている。どうやら私は阿賀野さんの事を穴のあくほど見つめていたみたいで、そのくせ、真正面から私の目を見つめ返してきた阿賀野さんを見て、私は頬が熱くなるのを意識しながら、曖昧に笑って目をそらした。
「な、なんでもないです…」
私は息が吸い辛くなるのを感じて、でもそれはとても心地のいい感覚で、そのまま阿賀野さんに倣って空を見上げると、大きな大きな花火が、近すぎる空に目いっぱい広がった。


「ねー、とおいー」
行きの電車であんなにはしゃいでいた佑香ちゃんは、鼻にかかった声でさもけだるそうに叫んでいる。
「おせえなあ」
律子ちゃんは私たちより十歩ほど後ろをだらだらと歩く佑香ちゃんを一瞥し文句を言うと、佑香ちゃんの事なんて忘れたようにまたさっさと歩き始める。
「いーけーずー」
歩き出した律子ちゃんにそう叫ぶ佑香ちゃんは、でも歩調を早める気はないらしく、文句を垂れ流しながらだらだらとついてくる。
「ねえハク~、待ってよ~」
律子ちゃんについて歩いていた私は、突然声をかけられ肩が震える。こういう時、どうしていいかわからない。ええ~、なんて言いながらとりあえず愛想笑いを浮かべて佑香ちゃんを振り返るけど、その後はどうすることが正解なのかわからず、ただもう困ってその場でへらへらしていると、私の心情を知ってか知らずか、律子ちゃんが助け舟を出してくれた。
「あのなあ、こはくを困らせんな」
「うえ~、リツ冷たい」
はいはい、と佑香ちゃんを軽くあしらいながら、律子ちゃんはまた歩き始める。ふと私を振り返り
「こはく、いこ。あいつはほっとけ」
そう言うとまた歩き出す。これはこれで困るのだけど、とりあえず私は佑香ちゃんにもう少しだよ~、と声をかけ、律子ちゃんに続く。
「二人ともひどーい」
佑香ちゃんはそう言いながらも、別に怒ってるわけではなく、同じペースでついてくる。そう、彼女が怒っていないことは分かってる。でも私は、どうしていいのかがわからなかった。


律子ちゃんと佑香ちゃんはいわゆる幼馴染だ。親が高校時代からの友人で、家も近所。二人は小中と常に一緒に居て、どうやら高校も同じ場所を選んで受験し、見事合格した。二年生に進級した今年の春、クラスに友達のいなかった私は、進級早々に六月の修学旅行の班を決めるという学校側の配慮のなさに泣きそうになりながら、私と全く同じ日にこのクラスの一員になったはずのクラスメイト達が次々に仲のいい子同士でグループになっていく様を見つめ途方に暮れていた。
「こはくちゃん!うちらと一緒に行かない?」
班にあぶれ、余りものとして誰かの班に仕方なく入れられてしまうであろう数分後の未来を想像し早くも過呼吸気味になっていた私は、だからそうして唐突に自分の名前を、それも知らない人の声で呼ばれ飛び上がりそうになった。と言うか、本当に飛び上がって膝を机の裏にぶつけたもんだから、私の机に顎をのせて屈んでいた佑香ちゃんは机にアッパーを食らう羽目になった。
そんなところにいつの間にという驚きもさることながら、クラスでも常に存在感を放っている秋月佑香が私に声をかけてきたという事実、なによりそんな佑香ちゃんに不本意とは言え間接的にアッパーを食らわしてしまったことに動揺した私は咄嗟にごめんなさい!と謝ったけど、テンパっていた私のごめんなさいは裏返り、そして思いのほか鋭く教室中に響き渡り、私は少しの間だけクラスメイト達の注目の的になってしまった。
「今のは中々……」
佑香ちゃんはそう言いながらとても痛そうに顎を抑えてうずくまっていて、私は本当にどうしたらいいかわからず何度も謝っていると、うずくまっていた佑香ちゃんの頭にものすごい勢いで丸められた教科書がヒットした。
乾いた破裂音と共に、佑香ちゃんの本気のいったーい!!!って声がまた教室中に響き渡って、私はいよいよどうしたらいいのかわからず、佑香ちゃんをはたいた張本人に目を向けると、それが矢矧律子ちゃんだった。
「お前大げさすぎなんだよ。能代さんを困らせるな」
そう言うと律子ちゃんは私に向き直り、ごめんね能代さん、と本当に申し訳なさそうな顔で謝ってきた。私はいよいよ状況が飲みこめなくなり、こっちこそごめんなさい、ごめんなさい!なんて何度も謝っていると、そのせいなのかまた佑香ちゃんがひっぱたかれた。
「お前ほんとやりすぎ。大丈夫だから能代さん。てかあれこいつの自業自得だし。こいついつもオーバーだから気にしないで」
はあ、と私は佑香ちゃんを見ると、けろっとした佑香ちゃんがこちらを見つめながら
「ばれちった」
なんて言ったものだから、またもや律子ちゃんにひっぱたかれ、今度は本気で痛そうだった。
「あ、それでさ、よかったら私たちと一緒に行かない?」
今度は律子ちゃんにそう言われ、一連の出来事にあっけにとられ、いまが修学旅行の班決めの時間だったことをすっかり忘れていた私は、だから律子ちゃんにそう言われた時、最初は何を言われているのかわからなかった。


私は、花火よりも、花火が始まるまでの時間が好きだ。周りのみんなと同じものを楽しみにして、周りと同じように花火までの時間を過ごしているという事実が、私にこの世界の一員であることを実感させてくれるから。だから場所の確保のために早めに出ようと律子ちゃんが提案してくれた時はとても嬉しかったし、同じく早めに出て屋台の商品片っ端から食べよう!と意気込んでいた佑香ちゃんに、律子ちゃんに倣って一応私も突っ込みを入れたけど、実は私もそれを楽しみにしていた。
早めに出たはずだったけれど、県内でも一、二を争う有名なこの花火大会は県外からの来場者も多く、電車の中はすでにはちきれんばかりに人が乗っていて、駅から会場を目指す人の群れは、ここに来ていよいよその数をまし、うっかりすると前の人の足首を蹴ってしまいそうになる。
楽しそうにじゃれ合うカップル、小さい二人の子供をハリウッド映画でよく見るような赤いカートに入れて引っ張っていく白人夫婦、有り余った元気をここぞとばかりに爆発させている中学生くらいの男の子たち、浴衣を着ながら何事かを口にするたびにきゃっきゃと笑いあう同い年くらいの女の子たち。
あんなに文句を言っていた佑香ちゃんも、会場が近づくにつれてどんどんテンションが上がり、いまはもう詰まって思うように動いてくれない人の列にしびれを切らし、まだかまだかとそわそわしている。
「かわえ~」
佑香ちゃんが白人夫婦のカートに乗った子どもたちを見てにやにやする。佑香ちゃんは関西とは縁もゆかりもないけれど、大のお笑い好きで、ちょくちょくえせ関西弁を使う。特にテンションが上がった時は酷い。
「映画でよく見るやつやん。あれ現実にあるんやな」
「そりゃ映画に出てくるからな」
「現実にないやつだっていっぱいあるやん」
「デススターはないけど、ああいうのはあるだろ」
「はあぁ?ですすたーってなんでっか~。リツキモ~」
「お前まじでいい加減にしろ。てかスターウォーズ馬鹿にすんな」
「いて」
律子ちゃんの容赦ない突っ込みが脳天に炸裂しても、佑香ちゃんのテンションは下がるどころか、いよいよあたりかまわず、律子ちゃん風に言えば彼女のやかましさをまき散らしている。
私はそんな二人のやりとりを見ながら、少しだけ居心地の悪さを感じていた。二人のやりとりは見ていて楽しいし、二人はとっても優しい。あの班決めの授業以来、私はいつの間にか二人と一緒に居るようになり、こうして夏祭りにまで一緒に出掛けるようになっている。なんで私みたいな地味で目立たない人間に声をかけてくれたのかわからないけれど、とにかく二人は優しい。その優しさが、私の居心地をたまらなく悪くする。そんなことをこの二人に思ってしまっている自分に壮絶な自己嫌悪を覚えるけれど、それでもどうして二人は、私なんかを仲間に入れてくれたのだろうと考えずにはいられない。


私は、常に周りに気を遣いながら生きてきた。どうにかして周りを怒らせず、周りの人間に迷惑をかけず、逸脱もせず、人畜無害であることを心掛けてきた。私は十七年間、人の視線が求める理想の『能代こはく』象を作り、ひたすらにそれに合わせてきた。他人の視線が私を作り上げた。だから私は、いつのまにかとってもつまらない人間になっていた。面白いことも言えなければ、自ら進んで何かを提案するわけでもない。誰かの言うことに相槌をうち、笑い、賛同する。私は浮くのが怖かった。厳格なカトリック教徒である両親は、私をとても厳しく育ててて、私は小学校の頃は友達と遊ぶことすら一苦労で、もちろんクラスメイトの話題について行くのも大変だった。下手をすれば変人としてクラスでハブられる、最悪の場合はいじめられる危険性まではらんでいた私は、その地雷を踏みぬかないためにひたすらに周りに合わせ続けた。だったらカトリック系の学校に入れてくれればよかったのに、なんて思ったこともあるけれど、それはそれで私はきっと気が狂っていたと思う。それにもし私の気が狂わず、私がそんな状況を受け入れたにしろ、人間関係に関しては、結局私は変わらなかっただろう。私は、変わることなんてできない。
そんな私の逸脱することへの恐怖心は、中学時代のある出来事で一層強力に私に刻み込まれる。

私は、女の子に恋をした。

恋をしたと気づいたとき、私は別段困惑することもなく、もちろん多少はしたけれど、どちらかというと、ああやっぱり、って妙な納得感の方が強かった。
小学生の頃から、クラスの女の子たちがだれだれ君がかっこいいとか、だれだれ君が好きだとか、そういう話をしているのを聞いていても、私は男の子に対する彼女たちのその感情がよくわからなかった。そもそも恋って感覚がよくわからなくて、一度人生最大の勇気を振り絞ってませていた同級生に聞いてみたことがあったけれど、彼女は
「胸がどきどきすることだよ」
と教えてくれた。それなら私にも心当たりがあったけれど、私がどきどきするのは、後ろの席の千鶴ちゃんに対してだった。だから女の子に恋をしたって気づいた時も、性別に関して特別に思うようなところはなかった。
小学生のころ、教会の信者同士の結婚式に行ったことがあった。私はその時母親に、結婚と言うのは、生涯かけて好きだって気持ちを持ち続けられる人同士がする素敵なものだと教えられたことがある。両親は厳格かつ保守的なカトリック教徒だったので、幼い頃から罪として教えられる行為の中に、当たり前のように同性愛が入っていたのだけど、私は母親から結婚の話を聞いて不思議に思った。生涯をかけてすきだって気持ちを突き通すことの出来る人が、女性だったら、それはだめなのかな。なんで、性別が同じってだけで、好きになってはいけないのか。そんなことを不思議に思う小学生だった。
そうして中学で、同級生の海咲ちゃんに恋をした私は、同時に世間一般の同性愛者についての偏見も知るようになる。一応私は、女同士の恋愛が世間から見ても少し変わってるって事は知っていたし、LGBTについて取り上げるニュース番組も目にしてきたから、どうやらレズビアンは逸脱としてとらえられてるのかもしれないなんて考えが頭をよぎった。そうして調べていくうちに、LGBTに対して肯定的な意見も多くある中、いまだに否定的意見も多いことがわかった。なによりまずかったのは、自身のマイノリティのために周囲に辛い対応をされてきたレズビアンの女性のインタビューをネットで読んでしまったことだった。彼女を取り巻いていた人間達は、明らかにレズビアンと言う彼女のマイノリティを逸脱としてとらえていた。ネット上にあったそのインタビューは生々しく、どうしても私の頭から離れなかった。
その記事が決定的な一打となって、私は自分の気持ちを押さえ込むことに決めた。そうして何もしないまま中学が終り、海咲ちゃんに思いを伝えることもできず、私は今の高校に入ることになった。私は初めて抱いた自身の強い意志でさえ、周りの目を気にしたために、心の奥底へと押し殺してしまった。


「いったいなもう!」
律子ちゃんによる今日何度目かの突っ込みを脳天に頂戴した佑香ちゃんは、頭を抑えながら不満げに律子ちゃんを見ている。
「お前自分で私が持ってくるってはしゃいでたくせにさあ」
花火の始まる一時間半前に会場に着いた私たちだったけど、メイン会場の土手の上にはすでにブルーシートが敷き詰められ、やっとの思いで端っこのあたりに空きスペースを見つけた私たちは、しかしシートを持ってきていなかった。
「屋台が楽しみ過ぎて、忘れちった」
てへっ、とわざとらしく舌を突き出した佑香ちゃんのおでこに、律子ちゃんのでこピンが炸裂する。大げさに痛がる佑香ちゃんだけど、よけようと思えばいくらでもよけることのできたでこピンに、自ら進んでおでこを捧げて目をつむった彼女の姿を私は見ていて、いつもの事だけど、意図せず行われる二人の漫才のようなやり取りを、私は楽しみながらもやっぱりちょっと居心地の悪さを感じた。
「じゃあこれで」
と佑香ちゃんは律子ちゃんの持っていたカバンを手に取り地べたに置くも、再び律子ちゃんの突っ込みを食らい閉口する。
「わ、私、立ち見とかでも大丈夫だよ。あの橋のとことか。屋台があった公園のとこからも座って見えそうだったし」
「まあ、私もそれでいいんだけどさ」
お前ほんとしょうがないな、と律子ちゃん、座ってぼけっとしている佑香ちゃんの頭をこつんと軽くたたく。すんまへん、と佑香ちゃんもどことなく楽しそうで、私はやっちゃった、と冷や汗がでた。佑香ちゃんはもちろんの事、律子ちゃんもこの状況を楽しんでる。それなのに私は、いや、怒ってるふりだとはわかっていたけれど、何となくこうして誰かが怒っている状況に居ても立っても居られなくて、間を取り持つようなことを言ってしまったけど、二人の楽しい時間に水を差してしまったかもしれない。かといって、私が今更シートの事を突っ込んであの流れに戻そうとしても、それはきっと不自然な形で終わってしまう。
どうしよう。

「あれ?あれ阿賀野じゃない?」

「どれ?」
律子ちゃんの一言で話題がそれたことにとりあえず安心したけれど、律子ちゃんの口から発せられた阿賀野さん、って名前のせいで、私の心臓は針で刺されたみたいにチクッとした。
「ほらあれ、橋の上。金髪の女の子といる子」
律子ちゃんが指さす先には、人でごった返す橋の上で手すりに寄りかかり誰かと話をする阿賀野さんがいた。そこにいたのは間違いなく阿賀野さんで、胸のあたりをチクリと刺す痛みは、けれど隣にいる金髪の女の子のせいですぐに消えて、何だかもやもやとした気分になった。薄暗くてよくわからないけど、二人が親しげな仲なのはわかってしまった。
「あれ彼女かな?」
「え?阿賀野って詩乃と付き合ってんじゃなかったの?」
「シノ別れたって」
「ふーん」
「あっちゃんやるねえ」
二人の会話は、私のわずかな希望も消し去りそうで。阿賀野さんの事もそうだけど、佑香ちゃんたちはなんでそんなこと知ってるのかな。呼び捨てにしたり、あだ名で呼んだり、そんな風にできるほど仲良かったのかな。私は、二人の事すらまともに知らない。知れない。私はやっぱり、蚊帳の外。
「それより早く屋台行こうよ~」
「だな。こはく行こ?」
「う、うん」
何事もなかったみたいに二人はその場を後にし歩き始めた。阿賀野さんの彼女の事とか、何より二人のノリを止めてしまったこととか、私と二人の関係とか、軽々と歩き出す二人の背中を見つめながら、私のもやもやは一層酷くなった。


阿賀野芽衣さんは、ちょっぴり有名人だった。すらっとした体形に、透き通るほどの茶色の髪を腰までのばして、切れ長の目、雪みたいに透明感のある肌。簡単に言えば美人だった。そうして阿賀野さんには、彼女がいた。阿賀野さんはどうやらそれを隠す気ないみたいで、一年生の夏には学年全体にその噂が広がっていた。田舎の小さな進学校で、その逸脱は奇異と嘲笑の視線にさらされた。いい人ぶりたい人たちは、なんかそういうのいいよね、なんて理解あるふうを装いながらも明らかに阿賀野さんへの壁を作っていて、理解のない人たちはあからさまに嘲笑の対象にした。
それでも阿賀野さんはモテた。最初は確か部活の先輩。それから顔も名前も知らない同級生。そうして、酒匂詩乃さん。酒匂さんは、私たちのクラスの委員長だった。いてもいなくても変わらない私がここまで阿賀野さんの事を知っているのも、身近にあの阿賀野さんの恋人がいるってことで、クラスで彼女達の噂が爆発したからで。でも所詮そんなものは部外者の独断と偏見に満ちたフィクションであって、阿賀野さんがほんとはどんな人なのか、私は全く知らない。それでも一つだけ確かなことは、私は阿賀野さんに惹かれていた。怒られることを恐れ、笑われることを恐れ、気持ち悪がられることを恐れて、自分の大切な気持ちすら殺して空っぽになった私にとって、大切な物を大切と言える、大切な気持ちに嘘をつかず行動できる阿賀野さんは憧れで、そうしてとても遠かった。私なんかが、阿賀野さんに近づけるはずもなかった。


「あれ絶対ゴミだと思われるだろ」
「大丈夫だって」
「ゴミが入ったコンビニ袋みて場所取りって思うやついるわけないだろ」
「日本人の優しさを信じようよ~」
「だからこそ捨てられるんだろ」
「あ」
「あ、じゃねえ。あほか」
「いったいなあ!ひどい~」
前を歩く二人はとても楽しそうだった。屋台なんて、夏祭りなんてなくたって、きっと二人は二人でいられることが楽しいのだろう。もちろん、私がいなくたって。佑香ちゃんや律子ちゃん、ましてや阿賀野さんと私のお祭りの楽しみ方は、全く違ってる。私は、ここにいるすべての人間が花火を見るって行為を楽しみにして、それに向かってみんなが同じような行動をとる、そんな雰囲気が好きだからここに来た。ここにいる人間と、私の目的は同じ。楽しみにしてるものは同じ。この夏祭りの会場は、私に優しくて、そうして私をこの会場の一員だと受け入れてくれる。私はこの花火大会の会場の人間達と、同じ。空っぽの私に、意味を持たせてくれる、人としての資格を持たせてくれる、優しい場所。それなのに、二人との関係とか、阿賀野さんの事とか、私のもやもやは大きくなるばかりだった。道沿いに並ぶ屋台の淡い光とか、夏祭り特有の煙たくてそれでも爽やかな空気の匂いとか、心地いい喧騒とか、全てが味気なく感じて。同じものを楽しみにしてるなんて言っても、ここにいるみんなの楽しみの中に、私は入ってない。私はただみんなの楽しみに、特別な時間に、間借りさせてもらってるだけ。誰かの楽しみに、誰かの特別になんてなれるわけがない。佑香ちゃんと律子ちゃんの楽しい時間にだって、私はほんとは必要ない。私はやっぱり、蚊帳の外。
「ちょっとトイレ」
佑香ちゃんの一言で我に返ると、自分がいつの間にかかなりの距離を歩いてきたことに気づいた。
「あいよ。私たちここで待ってるから」
「ほーい」
気付けば広場のようなところに来ていた。休憩所のようになっているのか、広場には喧騒に疲れたかのように落ち着いた雰囲気で夏祭りを楽しむグループばかりがいた。ベンチに座ってまったりくつろぐカップル。控えめに会話しながらも、時折楽しそうな笑い声をあげる同い年くらいの女の子たち。座り込んで獲物の金魚をまじまじと見つめる女の子と、それを包み込むような温かい、眼差しで見守る母親。空を見上げながらぼーっと煙草を吸う男の人と、その横でスマホをいじる女の人。否が応でも高揚感を常に抱かせる夏祭りという非日常の中にぽっかり空いたこの憩いの場は、不思議なほど心地いい静寂に包まれていた。今の私の心情にこれほどマッチした場所はないと思うけど、私の隣には律子ちゃんがいて、今の状態で律子ちゃんと二人、この空間で間を持たせなきゃなんて考えたら、むしろあの喧騒の中に紛れていた方が気が楽だなんて思ってしまった。
「そこ座ろ?」
「うん」
律子ちゃんに促されるまま、私たちは空いていたベンチに座った。律子ちゃんの私に対する接し方は、もちろん佑香ちゃんに対するそれとは違う。違っていて当たり前。二人は幼馴染で、私には想像がつかないほど二人は同じ時間を過ごしてきた。だから接し方が違うのは当たり前の事。それでも律子ちゃんに話しかけられるたびに、私は彼女の声のトーンを気にしてしまう。佑香ちゃんに対する律子ちゃんの声のトーンより、少しだけ上ずってるみたいで、高くて、律子ちゃんがそんなつもりじゃないことはよくわかっているし、これは私の性格がひねくれてるからの事だろうけど、どうしても律子ちゃんの声のトーンに、私は壁を感じてしまう。律子ちゃんと佑香ちゃんの間に、私の入る余地はないんだろうなんて、常に認識させられてしまう。
「こはく、今日ありがとね」
「え?」
「いや、いつも忙しそうだから」
「うんうん、大丈夫だよ?」
こんなこと言うのは失礼極まりないと思うけど、律子ちゃんはなんとなく私と似てるところがある気がする。だからこそ、わかってしまう。たぶん律子ちゃんは、この空間で私と二人きりでの沈黙に耐えかねたんだと思う。だからこうして私に感謝の気持ちを伝えることで、私に対する気まずさを和らげようとしてくれたのだろうけど、嬉しかった半面、その言葉に私は余計に二人との距離を感じてしまった。
「あのさ、こはくは…」
律子ちゃんがまた何かを言おうとしたとき、律子ちゃんのスマホがなった。
「ごめんちょっと…。あ、佑香じゃん」
佑香じゃん、の時もやっぱり…。
「なに?…。は?……。さっきのとこ。…。小学生じゃあるまいし。トイレは?………。めんどくせえなあ。…。わかったからそこ動かんでよ」
電話越しに佑香ちゃんと話す律子ちゃんは、どことなくホッとしたような表情をしていた。ああやっぱり、なんて思って、ふと私の一番悪い癖が出てることにようやく気づいた。気づいたけれど止められなくて、どす黒くてひん曲がった感情はとめどなく溢れてきて、もう止めることなんてできなかった。
「ごめんこはく!あいつ迷ったみたいでさ。ちょっと迎えに行ってくる」「あ、私も行くよ?」
「ああ、こはく歩き疲れてるでしょ?私迎えに行ってくるからここで休んでて」
そう言うと律子ちゃんは足早に去ってしまった。どうして少しほっとした顔したのかな。なんで私にそんな気を遣うのかな。どうしてそんなに足早に行っちゃうのかな。取り残された私はこの場の奇妙な静寂も相まって、陰湿な感情にどんどん飲みこまれていった。

「帰りたい」

周囲に聞こえないようにとても小さな声で呟いたその言葉は、かすれていた。こんな時でも周りの目を気にしてることが、私のみじめさを一層酷くした。帰りたいって、どこに帰りたいんだろう。私を空っぽにしたあの家に?そんなわけがなかった。帰りたい、なんて言葉を口にしたところで、本当に心から安らぐことの出来る居場所なんて、私には存在しなかった。

「能代さん?」

突然私の名前を呼んだその声には、確かに聞き覚えがあった。けれど聞き覚えがあったからこそ、その声の主が私の名前を呼んだという事実を、私は信じることができなかった。

 

下に続く

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