再会株式会社設立までの道のり ~再会という言葉に出会うまで~





再会は美しい。






ところで皆さんは「再会」と聞くとどんなシーンを思い浮かべるだろうか。友人との再会、大切な恩師との再会、長年帰省せず会えていなかった家族との再会。
沢山の再会があるだろう。
「人」という固有名詞にこだわらなければ、場所、景色、匂い、音楽、物等、他にも様々な再会があるはず。


自分が再会という言葉に意識が向き、激震が突如走ったのは2017年。
新卒で入社し、6年務めた会社を退職し音大へ入った頃。もともと四六時中働いていたこともあり、自分の人生を俯瞰する余裕もなかった社会人1社目。音大に入学して18歳の友人とともに28歳の私は学校に通った。スーツも一切着なくなった。収入が入ってこない恐怖と裏腹に、学校に入り直して学べることの有難みや、アンサンブル授業(様々な楽器のクラスの仲間とセッション)などを通じて新しい仲間と出会う音大での日々の全てが新鮮だった。


ちなみに音楽一本で生きていく為に音大に入学した訳ではない。22歳の頃に思い描いた音楽と仕事との両立、二刀流を目指したいと思ったのがきっかけだった。(今この時期に二刀流という表現をするとWBCで大活躍した大谷翔平選手の真似事と思われるかもしれないが、大谷選手がプロ野球選手になる直前の段階で既に自分の中では二刀流に挑戦すると言い切っていた為、しっかりと引用させてもらいたい。笑)

音大に入学して半年が経ち、学業になれてきた段階で改めて仕事をする目的、音楽をする目的を考え出した。何の為に仕事をするのか、何の為に音楽をするのか。目的目標手段の構図を1社目で何度も叩き込まれた自分は、目的を明確にするべく仕事と音楽について考えていた。1社目を選んだ当時、「カッコいい大人になりたい」という強い目的を持ってファーストキャリアへ進んだ。目的の考え方についても内容についても決して間違っていなかったし、お陰様で自分が学びたいことを沢山学ばせて貰えた。がむしゃらに働きながら20代後半になり30代に近づくにつれて、その言葉を更に進化させていかないといけないという思いから毎日自分に問いを出すようになっていた。
懐かしい場所に行ってみたり、懐かしい音楽を聴いてみたり、けれども中々しっくりとくる言葉は見つからず、途方に暮れる中で毎日書き続けている5年日記をふと見返してみた。


思えば、何故ここまで自分は日記を書き続けられたのだろうか。当時は日記を書き続けて13年目。継続は決して苦手ではないが得意でもない自分が、15歳から書き始めてきた日記を一日も欠けることなく続けられているのはなぜなのか。
思い立ち、13年間書き続けてきた5年日記の過去の分を実家から取り寄せ、全てを読み返した。
その中で気づいたこと、それは、自分は人生において「出逢い(ご縁)」を一番大切にしてここまで生きてきたということ。高校時代は親元を離れて新潟の高校で寮生活をした。全国から生徒が集まり携帯電話が禁止の中で3年間を過ごした。(自分のルーツである高校時代については別のnoteに記していきたい。)
他にも大学時代にはヒッチハイクや青春18切符で北海道から沖縄まで全国を回る中で、予想できない出逢いが沢山あった。その出逢いのお陰で次に行く目的地が出来たり、沢山のサポート(送迎や食事など)をして貰い、その場所でしか見れない景色を沢山見ることができた。いつしか「人生は旅」、その時その一瞬を大切にして生きていこう、だからこそ、そこで出逢えた人を大切にして生きていこうという感覚が染みついていた。その経験や視点を就活でも評価して貰えたし、社会人になってからも自分の大切な志として貫いてきた。そんな気持ちを振り返りながら、13年の連用日記を読み返す中で、ふとあることに気づく。

・面談をしていた〇〇さんから突然連絡がこなくなった。自分の伝え方が悪かったのかもしれない。
・あれだけ入社したいと言っていたにもかかわらず最終選考直前で選考辞退。その後一切連絡取れず。
・一番前の席に座っていた学生さん、また会いたいなと思っていたけれど、次の説明会には来なかった。
・入社直前で辞退。1年間積み重ねてきたご縁が一瞬で消え去った。ショックで言葉が出ない。

ここに書いたのは新卒採用の担当になった後の毎日の振り返りの言葉。会社の魅力を伝えたいという思いで直談判して掴み取った採用担当の仕事。
情熱を持って取り組み、年間何千人と沢山の学生と出会ったが、沢山の学生との別れも沢山経験してきた。それだけでなく、せっかく入社してきてくれたのに、早期退職でご縁が途切れた仲間もいた。出逢いは素晴らしいが、別れは突然やってくる。そしてもう会えないという経験も沢山し、会えるって当たり前じゃないんだなということを実感した。ヒッチハイクをして以降、「出逢い」を大切に生きてきたが、同時に別れも沢山経験してきた。嬉しい別れなんてなかった中で、採用担当をしていて別れを経験する瞬間が一番苦しく、それは何年たっても変わらなかった。
そんな一連の思いが13年間の連用日記に書き込まれていた中で、もう一つあることに気づく。それは「再会」という言葉が節目節目にならんでいたこと。

・また必ず立派になって再会したい
・数年ぶりに〇〇さんと再会出来た
・1年前の今日、○○さんと会ったということを知らずに今日、その○○さんと同じ日に再会していた
・どこまで立派になれたかは分からないけど、ようやく胸を張って〇〇さんと再会が出来た。今日まで諦めなくて良かった
・あの曲を聞いて当時のあの日の自分を思い出した
・懐かしい野球部のグランド。土の匂いから当時のあの頃の自分が蘇えってきた

何気なく書いていた再会という言葉と、その経験こそが自分の次の指標になっていたこと。目的目標になっていたこと。エネルギーになっていたこと。感謝の気持ちや温かい気持ちになっていたことに気づいた。
そうだ、自分は再会したいという想いがとにかく強くてここまで来れたんだ。
プロ野球選手になりたいという小さな頃の夢を叶えるために大学まで野球を続けてきたけど、全くと言って良いほど歯が立たないへたくそで。
でもそんな自分を応援してくれた人、野球を続けてきたからこそ出逢えた人、そんな人たちに自分は恩返しがしたくて、胸を張って再会がしたくて今日という日までやってきたんだ。
音大に入った理由も、「音楽であれば年を重ねても感性で勝負できる一面がある。夢や希望、勇気を与えられる曲を作りたい。そしていつかはお世話になった人たちを呼んで地元の甲子園でLIVEが出来るようになりたい」という想いだったんだという心の叫び声が一気に蘇えってきた。
同時に仕事についても、また会えなくなる儚さを経験する前に自分のスキルを向上させるきっかけがあり、そのきっかけを通じて再会したい人、再会出来る自分になれるのであればそれはとても幸せな事じゃないかと。
そしてそういった場を作ることもできるかもしれない。「再会」という言葉に共感し共に応援し合える仲間が出来たらもう一つの自分の帰る場所が出来るかもしれない、そんな世界観を作りたいという想いが強くなったことを今でも鮮明に覚えている。






2018年11月1日、気が付いたら自分は「Saikai」という屋号名で個人事業主の届け出をしていた。
まだ「再会」という言葉を実現するまでにはスキルも内省も追いついていない状態。「再会」という言葉で自信を持って世に発信出来るまでは「Saikai」という屋号で土台を築いていくという強い目標が出来たことで、音大と個人事業主としての2つの顔で毎日を過ごすようになった。

「10悩んで決めたらあとは90進め」という高校時代の担任の恩師の言葉の通り、肚を括れば後は行動するのみ。
こうして音大生という肩書を背負いながら「Saikai」という屋号も背負い、全く経営をしたことがない状態から組織を動かすことになったのです。


今日はこの辺で。
次回は個人事業主になってからの話について触れていきます。

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