母の唄
母の話をする。
一番左がボクの母。
たぶん、ここに載せてるだけでも怒られる・・
あまり、人付き合いが得意ではなく、休日は父と買い物に行くだけ。
超がつくインドアだ。
性格は細かいところもあるけど、面倒見のいい大好きな母だ。
最近、実家に帰って、マスクをつけながら会話をしていた。
元気のなさはいままでで一番伝わってきた。
父が昼から酒を飲むのを叱り、「も〜っ」と牛よりも長い声をあげる。
「あんたしっかりしーや」
と社会人になっても学生の頃と変わらず釘を刺されてた。
でもその元気な姿は1つもなかった。
今は心臓が弱くて日常生活でもすぐに体調を崩すらしい。
カテーテルを体の中に通して栄養をとっているらしい。
その姿を見て自分の小学生時代を思い出した。
ボクは超がつく問題児だった。
小学校6年まで45分間イスにじっと座ることができなかった。
絶対、授業中に立ち歩き、友達にちょっかいをかけに行く。
シビレを切らした先生と学校の校庭や、校外まで追いかけっこになったこともある。
そういえば、先生にボールを全力でぶつけたこともあるし、女の子とうまくしゃべることができなくて心ない言葉で傷つけてきたことも多々ある。
そこでいじめにあった。
まあ今考えると、当然だったのかもしれない。
花見をしよう!と10人くらいでお母さんにお弁当を作ってもらって公園で食べる予定だった。
でもボクだけ違う待ち合わせ場所を伝えられて2時間待って、家に帰る途中に友達たちが笑って弁当を食べてるところを見て、泣いた。
泣いてるボクに気付いて指差して笑われたことに、また泣いた。
まあこんな頭のおかしいやつなら当然か・・・
でもその時はほんとに悲しかった。
家に帰ってお母さんに
「花見は?」と言われ
泣いていたのを隠し
「早めに解散したねん」
と1人で泣きながら食べた弁当箱を渡した。
まあいじめてたやつの気持ちもわかる。
多感な小学校時代に、思ったことやりたいことやりたくないこと全て自分の感情に従って生きてきた。
そりゃ、腫れ物扱いもされるわな・・・
一番怒られて、両親が呼び出されたのは、
車が通ってきた時に、道路にでて寝そべり車の下敷きになりそうな時だった。
車の下なら通り抜けれる!ってなんか衝動的に動いたんだよね・・・
もう。わかる。自分でも。
完全にヤバいやつだ!!
うん、そんな感じの小学生時代。
友達同士で下り坂を「誰が一番早く降りれるか」って競争して
止まってる車に思いっきりぶつけてめちゃくちゃ車がへこんだ。
母は何かあるたびに、和菓子を持ってボクのしたことに対して頭を下げていた。
正直、そのときは「怒られるのが嫌やな〜」と思うだけで、起こしたことに関してはあまり反省していなかった。(10歳とかなんで大目に見てやってください、、)
母はほぼ毎日学校に来ていた。
先生に呼び出されたり、カウンセラーの先生とボクの教育のことについて話していたらしい。
当時はなんのことかさっぱりわからなかったけど。
ボクは地元の少年野球チームに入っていた。
夢中で白球を追って、バットにボールを当てるのが楽しかった。
ただ、母は人間関係がすごい苦手だ、その上に体力もない。
お母さんたちの集まりに顔を出すのは嫌だったろうし、
車の運転もヘタクソで好きじゃないのに、練習試合の時とかはちょっと離れた学校にみんなを乗せて送迎もしなくちゃいけない。
社会人になってから父から聞いたんだけど
土日に試合が他の小学校である時には、平日に1人でその小学校まで行って、駐車の練習をしたり、道順を予習してくれていたらしい。
そんなボクは母から、どんどん趣味を奪っていった。
Kinkikidsが大好きだったのに、コンサートやイベントにもよく行っていたのにそれもボクに手がかかりすぎるから考えれなくなったらしい。
「あの時はうつだった」と最近打ち明けられた。
そんなボクも高校を卒業する時には落ち着いていて、大学受験をして関西大学に入学した。そして新卒で野村證券に入社した。
野村證券に入ったボクのことをよく父は自慢していた。
母は「あなたには向いていない、一度きりの人生好きに生きや」といつも声をかけてくれていた。
自分が好きなことができなかった子どもだったみたいだから、ボクには思うままに生きるようにと常に言ってくれていた。
そんな母の優しさに、本当に気付けたのは社会人になってからだった。
洗濯物が、掃除が、自炊が、こんなにも手のかかることで難しいことだとは思わなかった。
どれだけ支えられて、どれだだけ愛をもらってきたかわからない。
最近は、お母さんのことを想うとすぐに泣いてしまう。それは今もそう。
恩返ししたいって、自分のやりたいことで結果を出したいって、毎日思っている。
母を安心させて、「おかんがずっとやりたいことやれって言ってくれてたから今最高に楽しいわ」と言いたい。
いままでゆうことを聞いてこなかった分、それは、それくらいは。
「おかんの言ってることは正しかったよな」て言いたい。
たぶん、「この子の育て方を間違えた」と思わせたことだって他の子の何十倍もある。
胸はっておかんに自分の姿を見して安心して欲しい。
こんなクズなオレだって、迷惑はかけちゃうけど、心配はかけたくない。
でも、正直、いえない。
自分の掲げる自分は呆れるほど遠くて、周りで頑張る同志たちは思うように少しづつ夢に近づいていて。
乗り越えた、そう思ったその先にはまた大きな壁が立ちはだかる。
テレビの目の前では輝かしい光景があって、ボクがやめた会社員時代の同期たちは
「金晩だ〜」と楽しく飲んでるに違いない。
自分の夢のためにいろんなものを捨てた。これは現在進行形でもある。
やっと自分の道を見つけたと思ったネパールでの事業は100年に一度のウイルスに負けて、東京に帰ってきても友人に担がれながら生きている。
”大事な人は大事にできる時じゃないと大事にできない”
弱っている母を見て、連絡をとって、
「本当に恩返しがしたい、守りたい人を守りたい」
と心から思った。
きっと普通の親孝行なんかじゃ足りないのはわかってる。
親もいつまでも生きているわけじゃないし、実際オレにそんなにも求めていないというのもわかる。
でもオレはこの人生、「守りたい人を守りたい」
無力な自分じゃ、ありのままの自分じゃ、
到底、かけてきた迷惑分のモノは返せやしない。
休日なんていらない。女あそびももういらない。
なりたい自分を勝ち取るために。
おかんが生きている間に、必ず。
理想の自分に会いにゆく。
万が一、万が一間に合わなかったとしても俺は俺を生きる。
ほんで死ぬその1秒手前まで、この命の灯火が消えるその一瞬前まで
この命を全うしたい。
そして死んだら天国に行ってこう言いたい。
「やっぱおかんの言ってることは正しかったよな」
その時にはオレもおかんも絶対笑えてるよな?
もし1億円稼げるようになったらコンビニで100円のおにぎりじゃなくて200円のおにぎりが買いたい