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第2章 語り得ぬものを照らすヒカリ

本論では現代思想における「語られるもの」と「語り得ぬもの」の扱いを概観する。
語られるものとは、古代ギリシャにおいて「理性」と呼ばれたものの射程であり、知的に操作可能なあらゆる論理的関係の集合である(厳密な定義ではない。)ストイックの語源となったストア派においては、私が理性を用いて考える、その内容そのものが私自身であり、私の富や名声はその所有物に過ぎないため、考えることの充実のみが追求されるべきだとした。
哲学は知と知の関係性を扱う学問であり、その点で、語られるものがその対象であったと言える。一方でこの「語り」が届かない「語り得ぬもの」を考慮することができる。「語り得ぬもの」は私たちが理性で扱うものと意味連関しない観念の集合である。これらにいかに言葉で迫り、その領野を切り開こうとも、定義として言葉が届いた部分は「語り得ぬもの」でなくなってしまうため、理性は「語り得ぬもの」に到達しない。
この到達不可能性に対して、哲学は様々な方法でアプローチしてきた。ヘーゲル(彼がこの営みの歴史的な開始地点というわけではない)は弁証法を用いて絶対知へと遡るという方法を提示し、いずれ「語り得ぬもの」すら語り尽くせると考えた。ウィトゲンシュタインは「語られるもの」の意味連関を分析的な方法によって余すところなく記述し、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」とした。バタイユは理性が到達可能な範囲での意味連関を究極まで推し進めることで、「語られるもの」が一なる全体となったとき、その内部での差異が意味を為さなくなることで、同時に「語り得ぬもの」=「非ー知」の把握が可能になると考えた。インド形而上学においては、存在するともしないとも言えないもの、真偽判断の外にあるものを「空」と名付け、それを形而上学の基礎とすることで、「語り得ぬもの」のみを実体とした。
「語り得ぬもの」は芸術家を、社会学者を魅了する。シュールレアリスムは合理的思考によって軽視された「不思議なもの」の地位を取り戻すべく、(詩においては)自動記述などの手法を用いて意味連関の外にある美しさに到達しようとした。バロウズのカットアップもシミュレーショニズムの立場から、偶然性による統語論的規則の離脱、翻せば「語り得ぬもの」へのアプローチを目指した。ボードリヤールはその後期ポストモダン論において、意味連関によってシステム化される社会と、そこから常に漏れる「悪」について語り、この「悪」がシステムから生まれるにもかかわらずシステムを脅かす立場にあることを論じた。(ウィトゲンシュタイン・ボードリヤールを参照するのであれば言語論的転回について言及すべきであるが、筆者の時間的余裕がないためにここでは割愛する。)
このような、「相互言及しあうもの」と「そこから漏れるもの」については、自然科学的なアナロジーを示すことも可能である。すなわち、ダークマターはその存在をわかっていても、私たちを構成する物質と相互干渉しないために、触れたり利用したりすることはできない。「語り得ぬもの」もまた、存在をわかっていても、それを操作することは定義的に不可能なのである。
このようなアナロジーを「対角線的思考」と呼び学問的手法の一つに位置付けたのがカイヨワである。カイヨワはシュールレアリスムに接近していたが、以下のようなエピソードをきっかけに離脱する。ブルトンらとともにいたあるとき、彼らは飛び跳ねる豆について語った。その豆は手で温めると飛び跳ね、これについてブルトンはその不思議さを愛していた。しかしカイヨワは豆の中に虫がいて、温度を感知して飛び跳ねるのだと看破した。それに対してブルトンは、その主知的な考え方を批判し、カイヨワはシュールレアリスムから離れた。カイヨワは『斜線』の中で、「宇宙は解き難く錯綜している……しかしそれは解きほぐされうるものだということに賭けなければならない。さもなければ、思考というものはいかなる意味ももたない……」と述べる。このような姿勢を取るカイヨワにとって、ブルトンの考えは相容れないものだっただろう。また、カイヨワの姿勢は、かつて「アセファル」で協力したバタイユにも通ずる。すなわち、理性で到達可能な範囲を遍く全て意味連関させることを目指したのである。
しかし、現代において、その不可能性が言及されてもいる。マルクス・ガブリエルによれば、世界全体というものは存在しない。「全て」を語り切ろうという営みはアキレスと亀のパラドックスのように、永遠に到達不可能となってしまう。

ここで、私が提案するのが、「語り得ぬもの」から出発する記述である。インド哲学における「空」や、メイヤスーの「偶然性の必然性」にも近い。「語り得ぬもの」はあらゆる論理的操作が不可能であるが、不可能という断言、あるいは確定はその時点で一つの論理的操作が施されていることになる。ここでは、その不可能性すら「永遠に確定できない」という状態が実現している。その偶然性の茫洋たる海に対して、それを構成する要素(そのようなものがあることもないことも確定しない)の「否定」というものを考える。このとき、その思考が指す領域は、理性の届く範囲と一致しながら、理性と相互言及しない。このような困難な場は、しかし、少なくとも私たちの心になにかを残す可能性がある。
バタイユの言葉「非ー知の夜(理性という日光が照らさない場所)」を参照し、夜に対して超越的な日光でない光をヒカリと呼ぶ。

ヒカリは語り得ぬものの領域から参照された語りである。このような構造を思考実験的に再現するとしたら、Word2vecが用いられるかもしれない。Word2vecとは、単語をその共起関係の統計的分析によってベクトルに変換するという技術である。これを用いれば「母ー女+男=父」といった演算が可能になる。このようなベクトル空間の中で、ほとんどの点には対応する現実の語彙が存在しない。ー①
また、このようなベクトル空間は意味のみならず、語法によっても構築することができる(若者言葉と格調高い言葉の間では空間的な距離が遠く、若者言葉同士では近いような空間など。)このことから、意味と音の関係を確率的に決定することが可能であると考えられる。ー②
このようにして、①で選んだ声なき意味に、②の手法で音を確率的に定め、そのような語彙で確率的に押韻する詩を作成することが可能である。
そのような詩を私たちが聞いた時の感覚を、私たちの理性において解釈することで、語り得ぬものと語られるものの相互言及を実現することが可能であるかもしれない。

そして、このような思考実験の先に、私たちがそこに到達したという納得を得ることが重要であるとする立場もあり得る。ローティは「世界そのもの」と「世界の真理」を分けて考えることを提案する。そして真理とは人間の構築物である。だとすれば、事実として語り得ぬものと語られるものを厳密に意味連関させることは真偽判定の対象ではない。それが真理だと人間の総意として納得できるようなあり方こそ目指されるべきである。
そしてその手法として、〈想起の現象学〉があり得る。現前する世界において真理であるような意味連関を示すことはできなくても、「過去においてそれを達成した」という感傷を想起させることができるかもしれない。ローティ的な立場を取れば、これは十分に語り得ぬものにアプローチしたと言える。ただし思弁的実在論者はこのような相関主義を否定するだろう。その克服のためには、先のような思考実験の結果からさらに考察を進める必要がある。

参考文献

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野津悌. "徳福不一致との戦いとしてのギリシャ哲学." 国士舘哲学 14 (2010).
山田有希子. "ヘーゲル哲学における生と死の概念について―『論理学』 における 「生命の矛盾」 を基盤として―." 宇都宮大学教育学部紀要. 第 1 部 63 (2013): 103-116.
松本洋之. "ウィトゲンシュタインにおける< 語り得ぬもの> の位置 (< シンポジウム>「語り得るものと語り得ぬもの: 知と信をめぐって)." 東北哲学会年報 8 (1992): 54-58.
ジョルジュ・バタイユ. "新訂増補 非− 知 閉じざる思考." 平凡社ライブラリー (1999).
岩本一善. "マルチメディア環境に先立つ新しいメディアの視聴形態とその可能性について." 成城文芸 144 (1993): p62-80.
水原俊博. "後期ボードリヤールの社会理論の社会学的検討." 信州大学人文科学論集 1 (2014): 93-103.
ロジェ・カイヨワ. “斜線 方法としての対角線の科学.” 講談社学術文庫 2013.
マルクス・ガブリエル.“なぜ世界は存在しないのか.” 講談社選書メチエ 2018.
清水高志. "メイヤスーと思弁的実在論." 国際哲学研究= Journal of international philosophy 6 (2017): 85-95.
赤間怜奈, et al. "発話における語の文体ベクトルの半教師あり学習." SIG-SLUD 5.02 (2017): 96-97.
渡辺洋平. "リチャード・ローティ--人間的, あまりに人間的な--." あいだ/生成 9(2019): 20-39.



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