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人の期待に応える人生を辞めます

友達のライブ配信の中で出てきた言葉でした。全く物珍しい言葉じゃないんだけど、今の自分には凄く意味のある言葉に聞こえてきた。

何か引っ掛かると思ったので
思ったままに文章を起こしています。

どんな人間関係のなかでも絶対に避けて通れないのが「人に期待すること」だと思う。

・送ったデザイン気に入ってくれるといいな
・合格の返事をくれると良いな
・友人に買い物付き合って欲しいな
・この服取り置きして欲しいな
・この仕事代わりに引き取ってもらえたらな

そういう軽い期待は日常の中で山のように散りばめられていて、それがその通り運ばないと私たちは自動的にちょっとだけ凹む。

私は自他共に認める感情のブレが少ない人だけど、その為に、努めて他人にほとんど期待しないで生きてきたことを改めて思い出した。

これまでの人生の中で、期待して良いのは自分だけというのが私の基本的な人間関係のマナーで、そのとき与えられたものが得られる最大限と受け入れてまずは感謝する方針で生きてきました。それが自分の感情にはそぐわなかったとしても。

私の友人は期待に応えるプロで、
私は期待しないプロだったわけです。
コインの裏表みたいに。

私のそういう性質によって避けて来れた争いがいくつかあったのだと思うし、それがこれまでの自分を生き易くしてくれてたし、自分の武器だと思ってました。

でも、私の友人は動画の中で「期待に応える自分が人生の中でずっと重要なアイデンティティだったことに気がついて、でも、そんな自分をもう辞めることにしました」と話して、その言葉がグサッと刺さったということは、逆を言えば私も「本当はもう少し他人に期待したい」のかもしれない。

ガッカリしたくないので他人には極力期待しない方が楽だって思ってきたけど、期待することを諦めない粘り強さと、相手を信じる心がこれまでの私には足りていなかったのかもしれない。

多くの人が私に期待してくれたことで
私がここまでやってこれたように
次は私が誰かに期待をすることで
誰かの喜びや、頑張るためのエネルギーに繋げられたらいいな
こんな風に思ったのは初めてかもしれない。

何年も前、まだデザイナーとしての経験が殆どなかった頃、少し息が詰まるお仕事をお願いして頂けたとき、期待してもらえている気がしてすごく嬉しかった。

何度も転んだし、何度も迷惑をかけたし、何度も落ち込んだけど、でも、期待してもらえて嬉しかったんだった。そういう気持ちを積み重ねてきたから、私は、デザイナーっていうアイデンティティを失わずにやってこれたし、違和感なく「デザイナーです」って自己紹介出来る様になったんだった。

期待の使い方によって、
それが誰かの勇気になることを忘れてた。

正直、人に期待することは、
自分を試すみたいでまだ恐い。

でも、実際のところ、無意識的に付き合いの長い友人たちには私はずっと甘えている。つまり友人達に無意識の期待をしてるからこそ安心して甘えてこれたはずだから、私が全く人に期待してこなかったかというとそんなわけでもないはず。

だから、意図的に「今回、この人に対してはこのくらいの期待値にしておこう!」って私の頭の中で調整してから発信することってやっぱり少し不自然なことだったのかもしれない。

この先は自分の周りの人達と一緒にもっと良い人を目指したいと思う上で、周りの人にもっと期待していくことって(今の私には)必要不可欠なことだと思えたから、少し生き方を改めて見るのも悪くなさそうです。:)

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