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あなたがいなければ、あなたの世界は存在しない

仏教の言葉を知っていくなかで、私がまず安心したのは「怨憎会苦(おんぞうえく)」だった。簡単にいえば、「嫌いなひとに会わなければいけない苦」。苦は苦しみというよりは、「思いどおりにならないこと」と捉えたほうがわかりやすい。そしてこの世は「一切皆苦」。生きている限り、苦は必ず存在する。

子供のころから、誰にでも平等に接さなければいけない、それにはひとを嫌ってはいけないと思い込んできた。でも、嫌いなひとに出会うことは、当たり前にある不都合のひとつだと、仏教が教えてくれた。こういう言葉があるからには、お釈迦さまだって嫌いに思うひとがいたのかもしれない。いなかったかもしれないが、誰かを嫌うことそれ自体を悪いというのではなく、苦のひとつだと説かれたところが素敵だ。

現代の便利な世の中では、不快さより快適さを感じる時間のほうが長い。不快になると、それはエラーだからなんとかしなければと思う。体調を崩すとか物が壊れるとかして、いつもできることができなくなると、つい取り乱してしまう。
それどころか、ひとと接することに関しても、快適ばかりが当たり前だと思い込んでしまうこともある。昔のように土地や職業に縛られていないせいかもしれない。でも、どこまで逃れても、やっぱりひとといると不快な思いはする。みんながみんな、自分の感覚と合うひとなはずはないのだから。

苦は「思いどおりにならないこと」。できごとに先立ってなにかを思ってしまうから、そのとおりにならない。思わないようにしたって、思ってしまうからつらい。そういう問題だ。自分の抱える問題は、自分の外にはない。あくまでも自分の心が生み出している。時間をかけて少しずつ、そのことが腑に落ちてきた。

だからといって、これは悩みをもつひとに私が発していいことではない。自分のことは、自分で考えて理解しなければ意味がない。他人にこのまま伝えたって、「なにもかも自己責任、我慢しろ」みたいな話になってしまう。そういうことじゃないのだ(だいたい我慢だと思ってる時点で慢心だ)。誰のためでもなく自分のために、どう生きればいいか考えてほしい。

もし考えを突き詰められたら、地獄のような環境だろうと心穏やかに生きられるだろう。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉もある。ただ、たぶんほとんどのひとは無理だ。だから、自分の存在するこの世界のために、できるなら善いことをしたいし、悪いことをなくしていきたいと思う。誰のためでもなくて。

説明するのは難しいし、「それは自分の中の問題だよ」というのは冷たすぎるので、悩みを聞く機会があると、最後は「瞑想とかするといいのでは?」となる。ぐちゃぐちゃになった心を少しは解きほぐせるかもしれないから。
私はうまくできないけど。居眠りしちゃいそうだ。



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