なぜ「交流や読み合いが苦手な人のための紹介企画・『ボッチで賞』」を行ったか。
先日、カクヨムの自主企画で「『交流や読み合いが苦手な人のための紹介企画』ボッチで賞・ホラー&ミステリー部門」を行った。
自分は「交流による相互評価」「評価されるために交流すること」に特に批判的ではない。
・プラットフォームの規約に違反していない。
・交流が苦手な人に迷惑をかけない。
なら、出来る人はやったほうがいいのではと思っている。(自分は苦手だからやらんけど)
今は商業作家でも自分で宣伝を行う人は多いし、推薦文や書評のようにプロの作家同士でも宣伝には協力し合う。
カクヨムは、知名度や規模で先行している「なろう」と差別化をはかるためにか、書き手同士の相互交流を推奨している節がある。
ランキングには反映されないけれど、自主企画の参加者同士がレビューをつけることも規約で禁止していない。
公募であるカクヨムコンも一次審査が読者選考による。(もちろん他のコンテストもあるのですべてがすべてそうではないが)
プラットフォームは人が居着いてくれることが大切なので、交流することはプラットフォームを盛り上げることにつながる。
では一体何が気になるのか。
「システム上、方法がほぼ一択に絞られてしまうこと」だ。
「社会は、多かれ少なかれ与えられた状況で生き方を限定される場所だ」というのはそうだと思う。
ただ今の時代はネットの世界も画一化が急速に進んでいるように感じる。
創作に限らず、ブログも個人ブログは検索に上がりにくくなったと話題になっていた。
遅かれ早かれネットは、一定の画一化された方向性によって秩序が定められる場になると思う。
そうなることは止められないと思うけれど、そうではない方向性
「自分がただ面白い、好き、いい、と思ったものを評価して世に出そうとする」
「個人の偏った嗜好が力を持つ」
昔のネットにあった(大げさに言えば)精神性を残しておきたい。
ネットの片隅にいるだけの自分にできることはそれくらいだ。
ネットの方向性とか時代の流れとか、そういう大きなものに日常生活を過ごしながら逆らうのは難しい。ついていくのだって大変だ。
心情的には納得がいかないところがあっても、決まったものは仕方ないし、結果として従うのも仕方がない。
今までもだいたいそうなってきた。
ただそういう時に「その総意を形成する全体の中に入りたくない」と思う。
「反対の流れに加わらないなら賛成も同じ」と言う向きもあるので、じゃあ流れに逆らう表明としてこういうことをやっておこう。
そう思ったのだ。
ネットはたぶん、一時期のような「ミソもクソも詰め込んだオモチャ箱」のようなものから、きちんと整頓されラベリングされたおしゃれな棚のようなものになるなりつつあるし、なると思う。
そういう流れは止められない。
ただそれが正しいことなのだとしても、自分はそうでないものでいたい。
話をまとめると「ボッチで賞」をやった理由は
①(人付き合いやランキングなどの広義の)社会から切り離された、自分の個人的な感覚を確認したい。
②世の中の流れが一定方向にならないように、①の「個人的な感覚」を違う評価軸、方向性として残し続けたい。
③可能性を限定しておいて、「この方向にいけば得をするから選べ」と迫ってくるものが嫌いなので反対の意思を表明しておきたい。
主な理由はこの三つだ。
「藪の中で賞」もそうだったが、やってみると楽しいし学びが深い。
読む側にならないとわからないこともたくさんある。人は自分とは違う、自分にないものをたくさん持っているという、当たり前だけど忘れがちなことも改めて確認できる。
大切な作品を読ませて下さった参加者の方々には感謝しかない。
また機会があったら、他のジャンルか、もしくは何か自分の好きなカテゴライズを作って企画したい。
創作以外でも何かおもいついたらやろうと思う。
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